中国とはどんな国だろうー中国はいかにチベットを侵略したか(その2) | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

中国とはどんな国だろうー中国はいかにチベットを侵略したか(その2)









    はじめにクリックをお願いします 
人気ブログランキングへ














*************************







中国はいかにチベットを侵略したか(その2)











中国の侵略の実態

(クリックで拡大)

$日本人の進路-中国の侵略の実態













*******************************






打倒中国共産党より

中国はいかにチベットを侵略したか
マイケル・ダナム著 要約
 







++++++++++++++++++++++



チベットの歴史⑨ 「民主改革」



http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history9.htm




 東チベットで広範囲に広がっていたチベット人による武装闘争はアメリカ政府の関心を引くところとなった。 


 1950年代末にCIAはチベット人武装組織への支援を決め、これを「ガーデン作戦」と名づけた。数百人のチベット人義勇兵がインドに脱出した後、タイや日本の沖縄を経由してグアムで軍事訓練を受けた。CIAは彼らにパラシュート降下技術、重火器の使用方法、無線通信の利用方法など、様々な軍事訓練を施した。CIAからみっちり訓練を受けた彼らはパラシュートでチベットに帰還し、中共軍と勇敢に戦い、敵に一定の損害を与えることに成功した。だがCIAの支援を以ってしても、事態はすでに手遅れと言ってよかった。人員でも装備でも上回る中共軍は次第にチベット人義勇兵を圧倒するようになっていったのである。CIAによる支援は1971年7月のキッシンジャー極秘訪中により、最終的に打ち切られた。


 ダライラマ亡命直後の1959年4月8日、中共当局は「民主改革」運動を開始した。民主改革とは中国共産党お得意の階級闘争で、「チベットを外国帝国主義者から解放し、三大封建領主(政府、寺院、貴族)からチベット人民を解放する」という名目で行われ、1961年4月に終了した。これによりチベット社会は6つの階級に区分された。①高僧、貴族、大土地所有者、政府役人などのいわゆる三大封建領主、②訓戒僧以下の僧侶、町村の指導者、③富農、④中農、⑤貧農、⑥反乱分子、というものである。
 



 その一方で民主改革により、チベット人に対する弾圧がますます強化された。「反動分子」「チベット独立主義者」「反中国主義者」を徹底的にあぶり出し、摘発することが目的であった。ありとあらゆるチベット人が摘発の対象となった。当局に出頭を命ぜられ、多くのチベット人が投獄、殺害されたり、収容所で強制労働をさせられた。一時期、子供と老人と身体虚弱者を除いてラサの街には男性の姿がほとんど見られなくなった。強制収容所は主に青海と甘粛に設置された。1959年から1961年の間に甘粛省蘭州の強制収容所には7万人のチベット人が拘禁され、そのうち3万5千人は餓死したという。


 実際のところ、餓死したのは強制収容所に拘束されたものに留まらなかった。ちょうどこの時期は中国全土で大躍進運動が行われ、様々な資料の中で控えめな数字を取り上げたとしても3千万人の餓死者が発生していた。飢饉は1961年まで続いたが、チベットでは1963年まで続いた。母親は子を飢えさせないためにも、水に自分の血を混ぜて子供に飲ませていた。
 



 三大封建領主と反乱分子に対する弾圧は特に徹底していた。宗教は阿片であるという理由で、寺院の所有する土地、食料、家畜などの財産は没収され、高僧は強制収容所に入れられ、身分の低い僧侶はことごとく還俗させられた。1964年までに5万人の僧侶が強制収容所に送り込まれ、1966年までに90%の僧侶が還俗を強制されたという。


 寺院からは金、銀、青銅などが剥がし取られて北京へ持ち去られ、仏像は破壊された。残された寺院は中共軍の砲撃により破壊された。破壊されなかった貴重な財宝の数々は数年かけて大量のトラックによってチベットから北京へと運ばれていった。


 中国共産党主導による階級闘争がさかんに行われた。以下にペマ・ギャルポ著「チベット入門」から引用しよう。
 



 「さまざまな階級に組み込まれた人々は、特別人民集会に呼び出され、前もって中国側が作成した「資料」に基づき、「犯罪者」として告発される。集会に参加した人々は「犯罪者」を告発どおりに非難し、殴り、つばを吐きつけ、髪を引っ張り、数々の辱めを行わなければならない。その模様を中国人担当者が詳細にノートし、もっとも激しく非難し行動したものには「進歩分子」と評価、非難が甘いものは批判され、同情を寄せたもの、弁護した者は「犯罪者」と同類に扱われ、同じ運命を辿ることになった。「進歩分子」が多ければ多いほど「犯罪者」は虐殺される。しかし「犯罪者」を殺しても殺人にはならなかった。こうして「犯罪者」は公開処刑され、飢餓状態に置かれ、苦役のため死亡し、自殺に追いやられた。」 




 中国共産党による残虐行為に国際的非難も高まった。法律家国際委員会は『チベット問題と法の支配-チベットと中華人民共和国』と題するレポートで、「いかなる人間または国家と家でも、これ以上非難され得るものはないほど、もっとも重大な反道徳的社会的犯罪」として中国を厳しく非難している。また国連の場でも1959年の国連総会でチベットの文化的、宗教的生活を尊重し、自決を擁護する決議が採択され、1960年、1961年の国連総会でも議題として上程され、中国を非難する決議が採択された。

民主改革の実態について、以下にダライラマ法王の著書から、少し長くなるが引用しよう。
 



 

 「彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまでむち打たれたり、はりつけにされたり、いきながら焼かれた。溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死させられた者もあった。絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。また、ある者は生き埋めにされたり、腸を取り除かれたり、首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。・・・(中略)・・・男も女も、自分の家族のものが強制されてみているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制されさえした。・・・(中略)・・・これら公然の殺人行為とは別に、大量の民衆が、残虐な強制労働と窮乏から死んだそして、多くの人々が、絶望と悲惨な苦痛とから自殺した。男たちが追われてゲリラとなって山中に逃げ込んだとき、彼らの村々に残された婦人や子供たちは機関銃で殺された。15歳から、まだ母の胸に抱かれている乳児にいたるまでの、数千に及ぶ子供たちが、その両親から奪い去られ、二度と再び戻ってはこなかった。それに抗議した両親たちは投獄されたり銃殺されたりした。」 


 

 こうした中でパンチェンラマ10世は、チベット人の指導者に十分な権限を与え、宗教の自由を保障し、チベット人の生活の改善などを求める7万語に及ぶ長大な意見書を毛沢東宛に提出した。今まで中国共産党の操り人形と思われてきたパンチェンラマの行動に中国側はショックを受けたようだ。しかし何ら改善されないことに失望したパンチェンラマは1963年、モンゴルへの亡命を試みたが途中で逮捕されてしまう。1964年10月、パンチェンラマはチベットの民衆が見ている前で、「チベットの独立は回復され、ダライラマ法王が玉座にお戻りになるでありましょう。法王の長寿を祈ります。」と語った。中共の怒りをかったパンチェンラマは拉致され、3週間にわたり裁判にかけられ、暴力を受け、侮辱された揚句、1978年まで北京で幽閉された。パンチェンラマ失脚後のチベット自治区準備委員会主席にはンガワン・ジグメが就任した。 


 民主的な体裁を整えるため、中国共産党は1963年から1964年にかけて人民代表を選ぶ選挙を実施した。選挙と言っても立候補者は事前に中共によって準備されたものばかりであった。こうして301名の代表が選ばれ、それまでのチベット自治区準備委員会は1965年9月に正式にチベット自治区となった。主席にはンガワン・ジグメが就任した。


 実際のところ、チベット自治区はチベットの国土の半分を占めるに過ぎなかった。すでに1955年にアムド地方の大半が青海省として併合されていたが、さらに1960年には甘粛省に甘南チベット族自治州が設置され、1963年にはケンロチベット族自治州が設置された。さらに1966年から翌年にかけて四川省にアバ・チベット族チャン族自治州、ガンゼチベット族自治州、涼山イ族自治州ムリチベット族自治県が設置され、雲南省にはデチェンチベット族自治州が設置されていた。こうしてチベット固有の領土のうち半分が、中国の省内に併合されてしまったのである。
 







++++++++++++++++++++++++++++++++++++




チベットの歴史⑩ チベットにおける文化大革命

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history10.htm



 1966年7月には紅衛兵がラサにやってきた。チベットにおける文化大革命の勃発である。中国共産党にとってチベットは、最も時代錯誤な信仰と慣習が残る野蛮な地であり、「四旧」を打破し、解放しなければならない対象であった。

8月6日、数百人の紅衛兵がジョカン寺に侵入した。紅衛兵は1週間にわたって寺院内の数百の聖堂を次々と破壊した。全ての仏像、聖典、儀式用の仏具類が破壊された。徹底的な破壊と略奪の後、ジョカン寺は紅衛兵の兵舎となり、一部は便所や動物の屠殺場と化した。ジョカン寺は1959年以降中共軍がチベット各地で行った破壊や略奪に対し、周辺寺院にあった仏像や秘法を保護するための保管庫の役割を果たしていた。それら貴重な財宝が全て粉々に破壊されたのである。
 
  



ジョカン寺で全てを破壊しつくすと、紅衛兵はノルブリンガ宮殿に狙いを定め、ここでも敷地内の宮殿を次々と破壊し、略奪した。ノルブリンガ宮殿の財宝も破壊しつくすと、紅衛兵はラサ全域で破壊と略奪を行った。周恩来首相の命令でポタラ宮と13箇所の礼拝所のみが人民解放軍により保護された。


攻撃の対象とされたのは寺院だけではなかった。通りの名称を革命的な名称に変更し、個人の家に入り込んで仏壇や民俗家具を徹底的に破壊した。宗教上の祭礼や習慣は例外なく全て禁止された。チベットの伝統的な歌謡を歌うことも禁止された。それどころか民族衣装を着ることも飾り付けをすることも、ペットを飼うことも伝統的な模様を描くことも、伝統的な髪型さえも全て禁止された。ありとあらゆる仏像や宗教文献が破壊された。その一方で何万枚もの毛沢東の写真が配布され、ラサ市内のあらゆる住居に飾られた。チベット的なものはすべて攻撃対象とされ、チベット語さえも会話以外での使用を禁止され、毛沢東語録以外チベット語の出版物は姿を消した。
 
 





相変わらず「反動分子」「反乱分子」の摘発が行われ、全ての僧侶は「悪霊」「悪魔」として厳しく糾弾された。タムジンといわれる闘争集会では、僧侶は罪名を書いた板を首からかけられ、毎日数時間に渡ってラサの市街を引き回された。さらに大勢の人間から罵倒され、殴られ、打ちのめされ、最後には息を引き取った。


1967年4月までに紅衛兵は数万人の規模に膨らんでいた。紅衛兵はいくつかの派に別れ、互いを反乱分子として敵視し、ラサ市内で市街戦を繰り広げた。1967年秋以降、シガツェ、ギャンツェ、ナチュカなど、チベット各地で激しい戦闘を繰り広げた。1968年1月の紅衛兵同士によるラサ市内での市街戦では数百人の死者が出た。こうした大規模な武力衝突で、多くのチベット人が命を奪われ、さらにチベット全土が飢餓に苦しむことになった。
 
 



分裂した紅衛兵は引き続きチベット人の「地主階級」や「貴族階級」を弾圧し、次々と逮捕した。一方から逮捕されると、即座に他の派閥の紅衛兵から逮捕された。逮捕されたものへの迫害はもはや言葉では表現できないほどの残虐さを極めた。多数のチベット人女性、時には少女までもが紅衛兵に強姦された。手、耳、鼻、舌が切り取られたりもした。



1959年以前のチベットには約6000箇所の寺院が存在したが、民主改革によってその多くが破壊されたり、閉鎖されていた。文化大革命では残された寺院も根絶の対象となった。金、銀、宝石類のついた芸術品は北京に送られ、それ以外の仏像や美術品はことごとく破壊され、略奪された。寺院がからっぽになると、チベット人たちは銃で威嚇されながら強制的に寺院の建物を破壊させられた。多くの場合寺院は頑丈にできているため、しばしばダイナマイトや大砲を使って破壊された。6000個あった寺院のうち、最終的に破壊を免れたものはわずかに8箇所であり、残された寺院さえも無傷であったわけではなく、損傷は激しかった。チベット人のみならず、全ての人類にとって貴重な文化遺産が中国共産党の暴力によって根絶やしにされてしまった。  
 



1970年になっても弾圧は緩むことはなかった。中国共産党はダライラマ法王を「山賊で裏切り者」「人民の肉で生きている血まみれの手をした殺人者」として攻撃し始めた。中共軍は再び「裏切り者、破壊工作者、犯罪者」をでっち上げて拘束し、見せしめのための公開しょけいが多数行われた。刑務所にはさらに多数のチベット人が収容された。


この年、中国共産党はチベット自治区でも人民公社の設立に動き出した。土地、家畜、農具が農民から取り上げられて人民公社の所有物となった。チベットでも中国本土と同じような生活が始まった。早朝からスピーカーで「東方紅」が流されて一日が始まる。そして夕方まで農場での過酷な強制労働の後、夜には毎日欠席の許されない政治集会が行われた。1975年までにチベットに2000の人民公社が設立されたのであった。
 



文化大革命は1977年に終結した。中国共産党による侵略から約30年、人類史上において他の民族が全く経験したことのないような筆舌に尽くしがたいありとあらゆる残虐行為をチベット人は経験した。チベット亡命政府によると中国共産党がチベットを侵略後の30年間で、拷問により173,221人、死刑により156,758人、戦闘により432,705人、飢餓により342,970人、自殺により9,002人、傷害致死により92,731人、合計1,207,387人が亡くなった。私はこの数字をそのまま正確に信じていいとは思わない。なぜならチベット亡命政府は遠く離れたインドにあるがゆえ、亡命者などの証言から確証の持てる事例のみをカウントしているのであり、発表されている数字よりも死者がより多いことは確実だからである。とはいっても私は確証の持てないまま過大な数字を挙げることには反対である。よって私は中国共産党のチベットでの虐殺を非難するときには、1,207,387人という控えめな数字を用いることにしている。   



中国共産党の残虐行為は、歴史上世界各地で起こった戦争や植民地支配と同列に論じることは不可能だ。例えば近代のチベットが、イギリスなどの他の欧州諸国に植民地支配を受けていたとしたら、それなりの弾圧とチベット民衆による抵抗などは確かに起きただろうが、ここまで凄惨な運命を辿ることはなかったであろう。


だがこの時期に受けた苦しみはチベット人特有のものであったわけではない。東トルキスタン、南モンゴル、及び中国本土でも中国共産党による無差別大量殺戮、破壊、略奪、拷問が大規模に行われていた。まさに中国共産党は人類史の汚点であるというほかない。
 
 




++++++++++++++++++++++++


チベットの歴史⑪ 引き裂かれた自由への期待

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history11.htm




1976年9月に毛沢東が死去し、翌月には文化大革命が集結すると、中国共産党のチベット政策にも変化が現れた。宗教がある程度認められ、破壊された寺院が各地で再建されるようになった。 



1978年2月、それまで10年以上軟禁状態に置かれ、生死さえ不明であったパンチェンラマ10世が公の場に姿を現した。十数年ぶりに姿を現したパンチェンラマは力士のように超え太っていた。翌年、パンチェンラマは本来ならばゲルグ派の僧侶には許されないことだが、李潔という女性と結婚した。


1980年、胡耀邦中国共産党総書記がチベットを訪問、あまりの貧困ぶりを目にし、大きな衝撃を受けることとなる。チベット人の生活は1959年の状態よりもさらに悪化していた。胡耀邦は涙を流してこう述べた。「中央政府は今まで数十億元をチベットに費やした。諸君はどこに使ったのか。川に投げ捨てたのか。」胡耀邦は早速チベット自治区の共産党書記である任栄を解任し、さらに自治区の中国人幹部を85%交代させ、チベットの自治を強化し、中央政府の政策がチベットの現実に合わなければチベット人はそれを拒否し、廃止する権利を持つ」と約束した。だがこの胡耀邦の発言は視察時のあまりのショックの大きさから思いつきで述べたようだ。胡耀邦が北京に戻った後、チベット自治区政府が胡耀邦の約束を実行することはなかった。
 



中国共産党と、ダラムサラのチベット亡命政府は話し合いを模索するようになった。手始めに1979年2月下旬、ダライラマの兄ギャロ・トンドゥプ氏が私人という名目で北京を訪問し、中国高官たちと会談を行った。中国政府は亡命チベット人のチベット視察を認めるようになり、1979年から1980年にかけて視察代表団が計3回チベットに派遣された。しかし1980年8月に中国側の一方的な都合で4回目の視察団派遣は中止され、1985年7月に5回目の視察団派遣が実現したが、それ以降は全く許可されていない。


1981年には外国人のチベット観光が許可されるようになった。観光客が期待するエキゾチックな魅力を供給するため、一部の寺院の修復作業は急ピッチで行われた。外国人のチベット観光は順調な拡大を見せ、1987年には4万7千人がチベットを訪れた。1985年からは個人旅行も可能となった。外国人のチベット観光は、チベットに予期せぬ効果をもたらすこととなった。中国側に練り上げられた団体観光と違い、個人旅行ではチベットのより本質的な部分に触れることが可能であった。個人旅行者はどこに行ってもチベット人から熱烈な歓迎を受けた。そして旅行者の誰もがチベット人が「Chinese No Good!」と叫ぶのを耳にした。中国共産党による30年間の、ごく普通の国で生まれ育った人たちには想像することすら困難な、小説や映画でさえも表現できないような地獄を味わってきたチベット人たちは、自分たちの経験を旅行者に伝えるため、必死になって英語を勉強するようになった。 



また、チベットのいたるところでダライラマ14世の写真が掲げられるようになってきた。中国共産党は30年間徹底的にチベットの文化を破壊し、ダライラマを悪者とする教育を施してきたはずであった。しかしチベット人はダライラマに対する尊敬の念を少しも捨ててはいなかったことが証明された。中国共産党の占領政策の大敗北が明白となった。


改革解放以来、チベット人の自由が一定程度高まったのは事実である。だがチベット人に対する弾圧は、規模が小さくなっただけで依然として続いた。
 



1979年2月に中国はベトナムを侵略、中越戦争が勃発した。この戦争で中国は惨めな敗北を喫したうえ、さらにチベット兵を最前線に送り込んだため、多くのチベット人が犠牲となった。


1982年5月には、チベット人活動家115人が逮捕された。


1983年には、改革開放政策の反動として、中国共産党支配地域全域で精神汚染撲滅運動が行われ、これにより11月にはラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。


そして1987年以降、ラサは再び中国共産党の本質的特質である暴力によって血の海地獄となる。
 



1987年9月21日、ダライラマ法王は米国を訪問し、アメリカ議会で演説を行った。中国政府はヒステリックな反応を示し、アメリカ政府に猛抗議を行った。そのわずか6日後、ジョカン寺で数十人の僧侶がチベットの国旗を掲げてラサ市内を1時間にわたって行進し、「チベットは独立を要求する!」「中国人よ、チベットを去れ!」と叫んだ。


そして中華人民共和国の建国記念日である10月1日、再び数十人の僧侶がチベット旗を掲げてジョカン寺の周囲を行進した。すぐさま警察がデモ参加者を連行し、警察署の内部に引きずりこまれた。チベット人は黙ってはいなかった。数千人が警察署を取り囲み、石の雨を投げつけた。武装警察との睨み合いがしばらく続いた後、ついに武装警察は発砲し、無差別殺戮を始めた。ジョカン寺周辺は大混乱となり、多数の死体が横たわった。外国人観光客はチベット人から、ぜひこの様子を撮影し、全世界に広めてほしいと懇願された。少なくとも数十人のチベット人が虐殺された。
  



ラサ市内では警察による警備が強化され、特に寺院は厳重な監視対象とされた。にも拘らず10月6日にはラサ市内で再びチベット人60人がデモ行進を行った。警察は彼らを棍棒でぶん殴るなどの暴力行為を働いた。全員が殴られ、逮捕された。


1988年2月、ラサでモンラム・チェンモという大祈祷法会が行われた。11日間にわたって行われるチベット伝統の宗教行事は1960年代から禁止されていたが、前年(1987年)から開催が認められていた。中共当局は6千人の警官隊を配備して厳重に警備していたが、何事もなく一切が順調に進んでいるように思われた。ところが最終日の3月5日、2万5千人が見守る中で、一人の僧侶がマイクを掴み、「チベットに自由を!チベットに独立を!中国の抑圧を倒せ!ダライラマ万歳!」と叫んだ。何百人のチベット人も同じように叫んだ。そして数千人のチベット人が民族の歌を歌い始めた。30分後には武装警察到着し、催涙ガスで広場を鎮圧し始めた。多数の僧侶がトラックの中に引きずり込まれた。
 



間もなくラサ市内で激しい暴動が起きた。中国人が経営する商店が略奪を受け、放火された。中国仏教協会チベット事務所と警察署も襲撃された。多数の警察官がリンチされた。


翌日にはさっそくラサ市民に対する捜索が一斉に行われ、多数のチベット人が逮捕され、拷問をされた。後にチベット亡命政府が発表したところでは、逮捕者は2500人に上った。


4月17日にも尼僧15人前後がジョカン寺前でデモ行進を行い「ダライラマ万歳」と叫んだが、即刻逮捕されてしまった。
 



1988年12月10にはジョカン寺で僧侶たちがデモ行進がおこなった。さっそく中共武装警察が無差別発砲を行って虐殺した。そのときの様子はオランダ人旅行者や西側ジャーナリストよって目撃されている。このとき少なくとも15人が虐殺され、150人以上が重症を負ったという。


中共当局による血の弾圧にも関わらず、チベット人はあきらめなかった。1988年12月19日にはチベット人学生70人が北京の天安門広場でデモ行進を行った。12月30日にもラサ市内で500人のデモ行進が発生した。
 



ラサ市内では重苦しい空気が流れていた。これ以上弾圧を強化すればますます火に油を注ぐことは明白であった。北京の中央政府では妥協と和解を主張する勢力も少なからずいた。そして1988年12月、チベットとの対話に最も積極的であった胡錦濤がチベット自治区共産党総書記に就任した。中央政府が示した宥和政策の一環であった。だが間もなく、胡錦濤は改革解放以降のチベットで起こった最大の虐殺事件の黒幕となるのである。 


ここでパンチェンラマについて述べておきたい。パンチェンラマ10世は、1987年3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、中国政府のチベット政策を堂々と批判した。1989年1月24日には、中国によるチベット統治を再度非難し、「チベットは中国から得た恩恵よりも中国によって失ったものの法が大きい」と述べた。そのわずか4日後、パンチェンラマは52歳の若さでこの世を去った。暗殺説もあるが、中国政府は心臓麻痺によるものと発表している。真相は不明だが、極度の肥満体であったことを考えれば、心臓麻痺説も一概には否定しきれない。時には中共の駒として動き、時には中共のチベット政策を痛烈に批判し、時には亡命を試みて失敗し、10年以上の軟禁を経験したパンチェンラマ10世はこうして、激動の歴史に翻弄された生涯に幕を閉じたのであった。 


1989年になってもチベット人は自由と独立を求める運動をやめなかった。2月17日、チベット旗が数時間に渡ってジョカン寺の屋根にはためいた。2月20日には市内16箇所にチベットの旗が現れた。


そして悲劇は3月5日に発生した。ラサ市内で数百人がデモ行進が行、多くのチベット人がチベットの国旗を掲げて独立を主張した。中共軍はためらわなかった。中共軍は次々と無差別大量殺戮を強行し、ラサ市内のあちこちに死体が横たわった。


翌3月6日もチベット人たちはラサ市内各地でデモ行進を行い、その規模は数千人に膨れ上がった。中国銀行、警察署、官公庁の建物が襲撃され、破壊された。3月6日夜から警察が大規模な人間狩りを始めた。チベット人の各家庭を襲撃し、扉を叩き壊して住民を殴り倒し、子供や老人を銃殺したりさえもした。ラサ市内のあちこちでチベット人たちの悲鳴が飛び交った。
 



3月8日午前0時、中国政府はラサ市内に戒厳令を施行した。あらゆる種類の会合、行進、陳情、請願、集会が禁止された。ラサ市内で大規模な逮捕劇が行われた。ラサは恐怖と弾圧の街と化し、多くのチベット人が家の中にこもりきったが、重武装した武装警察が次々と各家庭に乱入し、これ見よがしに逮捕して言った。中国系ジャーナリストタン・ダーシェンによると、400人が虐殺され、数千人が負傷し、3000人が逮捕されたという。これにより、チベット人による大規模な抗議行動はしばらく影を潜めることになる。そのわずか3ヵ月後には北京でより大規模な数千人規模の無差別大量虐殺によって多くの中国人が犠牲となったことは周知の通りである。 


戒厳令は1990年5月1日まで続いた。12月にチベット自治区共産党書記に就任したばかりであった胡錦濤は、チベット人大虐殺を中央政府から高く評価され、その後は出世街道を登りつめ、2003年に国家主席に就任することになる。


このようなチベットに対する人権侵害に対しては国際社会でも非難が高まるようになってきた。欧州議会は1987年10月14日、1989年3月15日、1990年4月25日に非難決議を採択、西ドイツは1987年10月15日、イタリアでは1989年4月12日、オーストラリアでは1990年12月6日と1991年6月6日に非難決議が採択された。
 





+++++++++++++++++++++++


チベットの歴史⑫ 大いなる干渉

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history12.htm



1989年10月、ダライラマ法王にノーベル平和賞が授与されることが決定した。チベットの自由と平和のための取り組みを非暴力的な手段で行っていることが大きく評価された。ダライラマの出身国は中国ではなく、チベットとされた。このニュースは瞬く間にチベット人社会に言葉では言い表せない歓喜をもたらした。中国政府はすぐさまヒステリックな抗議の意を示した。12月10日、ダライラマ法王はノルウェーのオスロでの授賞式に参加し、演説を行った。この時期、ダライラマ法王はすでにチベットの独立を蜂起しており、中華人民共和国ないでの外交と国防分野を除く高度な自治を要求していた。あくまでも武力を用いることには批判的で、平和的な問題の解決を主張していた。ダライラマ法王の非暴力的な姿勢は世界中の共感を集めることとなった。 



一躍世界的な知名度を持つようになったダライラマ14世は翌年から積極的に外遊を行うようになり、1990年だけでチェコ・スロバキア、ベルギー、バチカン、スペイン、スウェーデン、オランダ、カナダ、ドイツ、フランスを訪問した。バチカンではローマ法王ヨハネ・パウロ2世と会談し、ドイツではワイツゼッカー大統領と会談した。1991年以降もダライラマ法王は毎年10カ国以上を精力的に訪問している。


ダライラマ法王の平和的な呼びかけにも関わらず、中共当局はチベット人に対する暴力的な弾圧を続けていた。1991年4月10には146人のチベット人が「犯罪者」として逮捕された。
 






1992年2月には、中共公安はチベット人の家庭に次々と押し入り、ダライラマの写真やビデオを持っていた人を次々と逮捕した。逮捕者は200人に上った。


1993年5月24日には1万人以上の大規模なデモ行進が行われたが、中共軍によって武力鎮圧された。


結局1990年代に入っても、中共による人権侵害は犠牲者の数が少なくなっただけで、その残忍性は文革時代から衰えていない。電気棒、手当たり次第に殴る、鉄の棒で打ちのめす、番犬に手足を噛み切らせる、女性の生殖器に電気棒をぶち込む、タバコの火を押しつける、妊婦を強引に流産させる、逆さづり、性的暴行、犠牲者の口への放尿、血液や体液の強制抽出などの拷問が依然として行われていた。
 



1992年、九寨溝、黄竜がそれぞれユネスコの世界自然遺産に登録された。チベット初の世界遺産登録物件である。これにより、チベットの類まれな大自然が世界に知られるところとなった。この2箇所は一般的には四川省として紹介されているが、実際にはアバ・チベット族チャン族自治州にあり、まぎれもなく東チベットのカム地方である。1994年にはラサのポタラ宮がユネスコの世界文化遺産に登録された。残念ながら3件とも中華人民共和国という扱いを受けている。


パンチェンラマの転生者探しは1991年から行われていたが、1995年1月、ラサの北郊外に住むゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、パンチェンラマの転生者として適格であることが判明。その後も慎重に吟味された上で、1995年5月14日、ダライラマ14世は少年をパンチェンラマ10世の転生者として正式に発表した。ところが3日後の5月17日、中共当局はなんとゲドゥン・チューキ・ニマ少年とその両親を拉致したのだ。さらに中共当局はパンチェンラマ11世の認定に関わった人物を次々と逮捕、投獄した。例えば中国側のパンチェンラマ転生者探索委員会委員長を務めていたタルシンポ寺の僧院長チャデル・リンポチェは、ダライラマが認定した転生者を支持したため、パンチェンラマとほぼ同時期に逮捕された。チャデル・リンポチェは「祖国分裂」と「国家機密漏洩」の罪で懲役6年の刑に処せられた。
 



そして中国共産党はあろうことか、1995年11月29日、ギェルツェン・ノルブ少年をパンチェンラマの転生者に認定した。無神論、無宗教の中国共産党がパンチェンラマの転生者を認定するという矛盾に満ちた行為が行われたのである。国際社会は中国政府に、少年の居場所を公表するよう強く要請、中共当局は1996年5月28日、少年と両親を「保護」していることを認めた。だがパンチェンラマ11世に認定されたニマ少年が今現在どこに拘束され、どのような生活を送っているのか、現在でも存命なのか全く知らされていない。


90年代を通して中国共産党による民族弾圧、宗教弾圧は続いた。1996年3月15日には、中国によるパンチェンラマ探索の介入を非難するパンフレットを配ったという理由で4人の学僧が逮捕された。パンチェンラマ探索に関わって逮捕されたチベット人は80人にも上るという。
 



 また、中国共産党は歴代パンチェンラマが座主を務めているタルシンポ寺に9人の工作隊を派遣し、週2回、1回3時間半にわたって政治教育を行い、ダライラマを強制的に批判させるなどしている。


1999年12月28日、当時14歳のカルマパ17世はツゥルプ寺を脱出し、1月5日にインドのダラムサラに到着した。ここで簡単にカルマパについて説明しよう。前代のカルマパ16世はダライラマ法王が亡命したのと同じ1959年にインドに亡命した。その後はシッキム(歴史的にはチベット系の小王国であったが、現在ではインドのひとつの州となっている)を根拠地に全世界でカルマ派の普及に努めていたが、1981年に癌のため、アメリカで死亡した。その後はカルパマの転生者は順調に進まなかったが、1992年5月にウルゲンという少年が転生者として任命された。1985年6月生まれで当時6歳であった。
 




中国政府は転生者探しに協力する形で介入した。1989年1月に、それまで中国共産党の駒として利用し続けてきたパンチェンラマ10世を失い、その年の12月にはダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞するなど、中国のチベット政策は苦境に立たされており、何とか新たな駒を捜していたのである。カルマパ17世が認定された翌月の6月25日、中華人民共和国国務院は認定文書を発表している。


だが結局、2000年1月にインドに亡命し、中国政府の面子は丸つぶれとなった。ダライラマ14世とカルマパ17世が並んでいる写真は世界中を駆け巡り、日本のマスコミでも大きく報道されることとなった。
 







+++++++++++++++++++++++++



⑬終わらない弾圧


 (何者かに削除されてしまっている) 




***************************************






日本のサヨク共産主義者、アナーキスト ・特亜勢力(シナ共産党工作員、反日韓国朝鮮人、反日なりすまし日本人) は日本を破滅に導く売国奴であり、日本の弱体化、中共への植民地化を進める「日本滅亡推進勢力」であると思われる方はクリックをお願いします 
人気ブログランキングへ悪事千里を走る