中国とはどんな国だろうー文化大革命、天安門大虐殺事件 | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

中国とはどんな国だろうー文化大革命、天安門大虐殺事件




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中国共産党の犯罪、文化大革命


打倒中国共産党より



中国共産党の犯罪 九


文化大革命

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 1962年1月の中共中央拡大工作会議でついに毛沢東は大躍進運動の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、鄧小平などが実権を握るようになった。劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにし、生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から65年にかけて中国経済は目覚しい回復を見せていた。



 だが毛沢東は再び権力奪還の機会を窺っていた。自己批判からわずか7ヵ月後の中共十中全会で「階級闘争を絶対に忘れるな!」と発言していたことからもわかるであろう。1964年に毛沢東の明確な支持者であった林彪は『毛主席語録』を刊行し、「毛沢東思想はマルクス・レーニン主義の最高峰」と絶賛し、「毛主席語録を読み、毛主席の話しを聞き、毛主席の指示に従って仕事をし、毛主席のよき戦士になろう」と呼びかけ、毛沢東の威信回復に大きく貢献していた。
 




 1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、『海瑞罷官』はブルジョワ、地主、富農の復活、さらには彭徳懐の名誉回復を狙ったものとして激しく非難した。当初、劉少奇、鄧小平、彭真らはこの論文の政治問題化にブレーキをかけようとしていたが、それは毛沢東の狙い通りであった。毛沢東はこれを機に右派に対する攻撃をはじめた。



 1966年5月4日から26日にかけて、中共中央政治局拡大会議が北京で開かれ、5月16日には毛沢東による「中共中央通知」が採択された。これにより「中央文革小組」の設置が決定され、その目標として「党、政府、軍と各文化界に紛れ込んだブルジョア階級の代表分子、反革命修正主義分子」を打倒することが目標とされた。
 




 5月25日、中央文革小組の支持を受けた講師7人が北京大学指導部を激しく批判する壁新聞を張り出した。29日には精華大学付属中学で40人の学生によって紅衛兵が組織された。毛沢東がこれらの動きを積極的に支持したことから、各地で様々な紅衛兵の組織が結成された。


 8月1日から中共十一中全会が開催され、8日に「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。この決定では「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が掲げられた。この会議では劉少奇の党内序列が2位から8位に格下げされ、鄧小平は平の党員なみに格下げされた。その一方で林彪が序列2位に急上昇した。
 





 これ以降劉少奇、鄧小平打倒のキャンペーンが本格化し、二人を名指し批判する壁新聞が大量に貼り出され、劉少奇、鄧小平は自己批判文書の提出を強要され、事実上の軟禁状態に置かれた。11月以降は他の古参幹部に対する公開批判闘争が紅衛兵によって大々的に進められるようになった。1967年に入ると批判闘争はますます激化し、各地で実権派打倒の集会が行われた。すでに劉少奇は執務不能状態に陥っていた。1968年10月、劉少奇の党からの永久除名、鄧小平の留党観察処分が決定された。劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。 



 毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、鄧小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。


 例えば中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。 




 文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。


 紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。
 




 1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。


 虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。
 




 こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。 



 中国共産党が文化大革命の時期に行った犯罪行為のひとつに文化遺産の破壊がある。宗教は阿片と看做していた中共は、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。例えば後漢時代に建立され、文革当時現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったがこれさえも破壊された。明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。チベットでは6千箇所の仏教寺院がことごとく破壊され、文革が終わったときには8箇所しか残っていなかった。こうして中国人や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。現在中国の諸都市には人口数百万人の都市に1つか2つ程度の寺院しかないのが一般的であり、それらもほとんどが80年代以降に再建されたものである。再建したところで歴史的価値は戻らない。どんなに悔やんでも悔やみきれないもどかしさを中国人、いや我々地球人類は永遠に引きずっていかなければならないのである。 



 宗教に対する弾圧はことのほか激しかった。イスラム教徒に強引に豚肉を食べさせ、チベットのパンチェンラマには人糞を食べさせた。ハルビンの極楽寺の三名の僧侶は「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」と書いた看板を持たされた。多くの僧侶が強制的に還俗させられた。


 虐殺と破壊と狂気に満ちた十年の文化大革命は1976年9月に毛沢東が死去するまで続いた。1977年8月に文化大革命の終結が宣言された。1981年6月の中国共産党11期6中全会でようやく文革の誤りが認められた。とはいっても中国共産党が文化大革命の誤りを真摯に反省したとは到底言いがたい。中国共産党の見解は、毛沢東には過ちもあったがそれを差し引いても中国にもたらした功績はなおのこと大きいとし、七分成功三分失敗などとたわけたことを言っている。建国から27年間の間にもたらした数々の災厄の大きさを考えた場合、一分成功九分失敗としたほうが適切であろう。いや、一分にも満たないのではなかろうか。現在ではかつてのような個人礼賛は見られなくなったものの、2002年には1元札を除く全ての人民元紙幣が毛沢東の肖像画となった。それまで少数民族を載せた魅力的な図柄は消えてしまったのである。ドイツにたとえればヒットラーの肖像を現代の紙幣に載せるような愚作である。
 




 中国共産党は何かと言うと60年前の日本軍の「残虐行為」とやらを数十倍に誇張してまで誇大宣伝し、日本に謝罪と反省を求めているが、中国共産党が行ってきた残虐行為は犠牲者の数で比べても抗日戦争の犠牲者の数十倍にのぼる。まずは自らが行ってきた数々の残虐行為に謝罪と補償をすべきであろう。だが中国共産党が行ってきた残虐行為の犠牲者、被害者はあまりにも膨大であり、謝罪と補償は現実的ではないかもしれない。殺人犯でも死んでしまえば罪が問われないのと同じく、中国共産党も滅亡させることこそが唯一の解決策と言えるかも知れない。 














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中国共産党の犯罪、天安門大虐殺事件




打倒中国共産党より


中国共産党の犯罪 十




天安門大虐殺事件


http://dadao.kt.fc2.com/fanzui10.htm











直接的なきっかけは1989年4月15日の胡 耀邦総書記の死去であった。翌日北京大学で民主化推進派の学生たちによって追悼集会が行われ、17日には北京市内で追悼集会が行われた。18日には1万人規模のデモ行進が北京市内で行われ、天安門広場で民主化を求める抗議の座りこみを始めた。19日にはその数が10万人に膨れ上がった。



22日には人民大会堂で中国共産党主催による胡耀邦追悼集会が開かれたが、胡耀邦の功績についての再評価がなされなかったことから学生たちの怒りに火をつけ、23日には全国各地の大学で授業の無期限ボイコットという事態に陥った。




なぜ胡耀邦の死がこのような民主化を求める大きなうねりにつながったのか。それは胡耀邦が言論の自由や政治的民主化を主張していた「開明的指導者」として中国人民からの指示を集めていたからだ。1986年12月に安徽省合肥で民主化を求める集会が開かれ、その運動が瞬く間に全国に広がると、胡耀邦は鄧小平から「対応が生温い」と厳しく批判され、1987年1月に辞任に追い込まれてしまったのである。





 後任の趙紫陽総書記も鄧小平の期待とは裏腹に、開明的な人物であった。今回の民主化運動に対して、趙紫陽も胡耀邦と同じく黙認の姿勢をとっていたことにより、党内保守派長老の猛反発を受けることになる。1989年4月23日に趙紫陽が北朝鮮訪問に出発すると、中国共産党は民主化運動の弾圧を決定。26日には人民日報が「動乱に反対しよう」という社説を掲げるに至った。


 『動乱』という表現学生たちは驚いた。彼らの要求はあくまでも社会主義体制下での民主化要求に過ぎなかったからである。翌4月27日には社説の撤回を要求して5万人がデモ行進を行った。5月4日には10万人によるデモ行進が行われ、この頃になると学生たちだけでなく広く市民の間にも民主化運動が広まっていた。








5月5日の人民日報には趙紫陽総書記の「学生たちは我々の根本的な制度に反対しているのではない」という談話が一面に掲載された。学生たちは党のトップが支持してくれていると看做し、運動はさらに盛り上がることとなった。5月中旬には中国全土から集まった学生や労働者の数は50万人近くに上り、天安門広場は自由に意見を発表できる場へと変貌していった。


 5月15日にソ連のゴルバチョフ書記長が訪中すると、学生たちは世界のマスコミの注目が集まる好機と捉えた。ゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が外国メディアに報道され、さらに一連の民主化運動が世界中に大きく報道されることとなった。5月17日には天安門広場に100万人とも言われる人々が集まって民主化を求め、中には鄧小平の退陣を要求するものも現れた。全国各地で一千万人が街頭に出たとも言われている。




 5月17日にゴルバチョフが帰国すると、中国共産党は政治局常務委員会を開催し、戒厳令布告について協議した。趙紫陽以外の全てのメンバーが賛成したという。19日午前4時45分、趙紫陽は天安門広場に現れ、ハンドマイクを持って学生たちに話しかけた。「我々はここに来るのが遅すぎた。すまなく思う」という有名な言葉を残し、「冷静に今後のことを考え、ハンストを早くやめてほしい」と主張した。これ以降趙紫陽が公の場に姿を現すことはなかった。翌20日、戒厳令が布告され、21日には趙紫陽が全ての役職を解かれ、自宅軟禁下に置かれた。趙紫陽に対する自宅軟禁は2005年1月に彼が死去するまで続いた。 






だが事態は沈静化に向わず、23日には北京市内で戒厳令に抗議する100万人規模のデモ行進が行われた。さらに学生たちは市内各地にバリケードを築くなどして抵抗した。5月29日には北京美術学院の学生によって作られた高さ10メートルの「民主の女神」像が天安門広場に運び込まれた。


 6月4日午前4時半、ついに人民解放軍が武力弾圧を開始した。兵士が群集へ無差別射撃を開始し、若者たちが次々と倒れていった。戦車が若者たちを次々と踏み潰していった。事態は一方的な市街戦の様相を呈し、人民解放軍は市街地で民衆を次から次へと虐殺して言ったのである。この天安門大虐殺事件による死者数は中国共産党による隠蔽のため定かではないが、数百人という説から二千人、四千人という説まである。
 





 この虐殺の様子は外国のマスコミによって世界中に報道された。動かしがたい物的証拠が残っているにも関わらず、中国共産党はこの事件を反動派による動乱事件として事実を捏造している。1996年に訪米して遅浩田国防相は、「天安門広場では一人の死者も出ていない」などと発言しているほか、中国共産党は「虐殺は存在しない」「死者は数人」などといった破廉恥な宣伝を繰り返している。


 虐殺事件後も、中国共産党はデモの参加者を次々と逮捕した。密告が奨励され、中国では友人も親族も信用できない恐怖社会がしばらく続いた。民主化への希望は完全に打ち砕かれ、それ以来中国人は政治について語るのを極度に恐れるようになってしまったのである。
 







胡耀邦の死から7週間にわたって続いた民主化運動について、「あのときの学生たちの要求はあまりに性急すぎて非現実的であった」とか、「ほかに選択肢はなかった。ああでもしなければ全国に暴動が拡大し、収拾がつかない事態に陥っていた。」などと中国共産党による大量虐殺を擁護するかのような意見も時々聞かれるが、まさに小学生並みの幼稚さと言うほかない。学生、市民たちの要求はあくまでも社会主義体制下での民主、自由という穏健なものであった。それでも当時の中国にとっては性急過ぎると思う者もいるだろうが、そもそも彼らが民主化を要求したのは中国共産党の無能ぶり、腐敗ぶりがあまりにひどく、人民の不満が頂点に達していたからだ。ただ単に独裁というだけで7週間にもわたって数十万人が終結するという事態にはなり得ないはずだ。また虐殺以外に選択肢はなかったような人を人と思わないような意見を私は絶対に受け入れることはできない。即時政権交代や、即時の民主化を行わなくとも、話し合いで今後の改革のロードマップを提示することによって事態を収拾できたはずだ。実際に1990年の台湾の中正祈念堂で起きた民主化運動に対し、李登輝総統と民主化運動のリーダーとの話し合いによってひとまず沈静化した例がある。また、当時の中国では胡耀邦や趙紫陽のような民衆から熱烈な支持を受けていたリーダーが存在していたのであり、社会主義体制を維持したままでの緩やかな改革も可能であったはずである。 




私は、民主主義は普遍的な価値観だと思ってはいるものの、絶対的なものだとは思わない。それぞれの国の歴史的背景、政治制度、文化、民族性など様々な要素に照らし合わせ、その国に最も相応しい制度を取り入れればいいのであり、アメリカ式の民主主義はアメリカには相応しいかもしれないが、他の国にも適用できるとは到底思えない。中国のような巨大な国においては、ある程度の権威主義体制や、ある程度の言論統制が必要なことは理解できる。しかしだからといって虐殺や拷問は絶対に許されるものではない。それがその国の文化であり、伝統だというのなら、そのような文化、伝統は到底尊重できない。



結果として求められるのは人々の豊かさ、幸福、人権であり、民主主義それ自体はプロセスであって結果として求められるものではない。人々に幸福をもたらす独裁であるならば私はわざわざホームページを立ち上げ、デモ行進を行ったりはしない。しかし今現在中国共産党が行っている数々の残虐行為、人権侵害は、独裁政治が極度なまでに悪の道に進んでしまったがゆえに引き起こされた筆舌に尽くしがたい悲劇である。そのような暴虐独裁政権に対しては一切の妥協と遠慮を排して、強く抗議しなければならないのである。
 















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日本のサヨク共産主義者、アナーキスト ・特亜勢力(シナ共産党工作員、反日韓国朝鮮人、反日なりすまし日本人) は日本を破滅に導く売国奴であり、日本の弱体化、中共への植民地化を進める「日本滅亡推進勢力」であると思われる方はクリックをお願いします 
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