川越style「川越まつり 夜の部」川越の夜の華 令和元年10月20日川越まつり | 「小江戸川越STYLE」

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川越まつりの本領発揮。

祭りに参加する全ての者の目の色が変わる、夜の部。

10月20日午後6時、川越まつり夜の部。

日が暮れると、それに反比例するように山車の提灯が暗闇に映えていく。

日中の煌びやかな山車の姿も惹き込まれるが、提灯の灯りに浮き上がる山車は魔力的な美しさがある。

夜の部であり、川越まつりの終盤。

祭り衆達の熱気はいよいよ最高潮に達するのだ。

会所前に留め置かれた山車の周りに町衆達が再び集まり出し、二本の綱を伸ばし始める。

職方による木遣りが始まり、静かに耳を澄ませる町衆に沿道の観客。

拍子木が打たれて全体に出発の合図が出されると、山車上の囃子と共に町衆達が

「ソーレイ!!」

「ソーレイ!!」と山車を曳いていく。

沿道からの拍手に見送られながら、太田道灌の山車は連雀町会所から南進して行ったのでした。

夜の部の山車曳行ルートは、本川越駅~札の辻の間を行き来することが予定され、まず向かったのが本川越駅前交差点。

(もちろん全ての町内が夜の部も事前の曳行ルートを決めて公表しています)

参加町内のエリアで南側に位置する町内なら北の連雀町交差点、仲町交差点、札の辻方面を北進する町内が多く、北側に位置する町内なら、札の辻、仲町交差点、連雀町交差点、、本川越駅前交差点と南進する町内が多い。南北からそれぞれ進むことで、各所で山車が行き交う曳っかわせ(曳き交わせ)も起こるのです。

ルートとどの時間にどこと大まかに決まっていますが、細かく設定しているものではないため、どの時間にどの場所でどの町内と合うかは完全にその時の状況次第。

偶然なのか必然なのか、当日になってみないとどの町内と曳っかわせになるか分からないものなのです。

偶然の出来事、が曳っかわせの魅力。

その時になってみないと分からないからこその、川越まつりのドラマと言うこともできました。

連雀町交差点から中央通りを南進していく太田道灌の山車。

「ソーレイ!!」「ソーレイ!!」

午前の部、午後の部の5時間半の山車曳行を経て疲れが出ているかと思いきや、夜の部になって俄然町衆達の掛け声が大きくなる。

川越まつりの本番は夜。

そう、みなこの瞬間を待ち望んでいたのだ。

ご存知のように拡幅された連雀町交差点~本川越駅前交差点の中央通りは、今では山車曳く行をゆったり鑑賞しやすい通りとなっている。

今後の川越まつりでも観客にとっては大事な通りでしょう。

ちなみに提灯は、山車に設置されるばかりでなく、曳き手である町衆達でも手にしています。

自身の名前を書き入れた特注品を手にしている人も多い。

片手に提灯を持ちながら綱を曳くというのも夜の部ならでは。

 

中央通りで出合ったのが新富町一丁目の家光の山車。

連雀町とは隣接する町内で、夜の部は連雀町がスタートから南進、新富町一丁目がスタートから北進というルートを設定していたため、夜の部に最初に出合う山車はここだろうと想定されていた。

お互いの山車がゆっくりと近づきながら、さらに寄せていく。

中央通り上で連雀町の太田道灌の山車と新富町一丁目の家光の山車の曳っかわせ。

丁度、両町内とも天狐の舞の競演となっていました。

山車の間に町衆達が入り込み、提灯を乱舞させて曳っかわせを盛り上げます。

 

この後は、お互い逆方向に進みますが、行った先でUターンしてくるのは変わらないので、必然的にまたこの通り上で曳っかわせが行われるでしょう。

同じ中央通り沿いに会所があるという関係、川越まつりにおいては密接な関係の町内なのでした。

中央通りにある大塚新田囃子連の居囃子に山車の正面を向けて挨拶。

大塚新田は、最寄り駅は西武新宿線南大塚駅、国道16号が走り、関越自動車道川越ICが近くにある地域です。

山車を保有しており、源頼朝の山車。

ちなみに源義経(牛若丸)の山車を保有しているのは元町一丁目です。

(さらにちなみにですが、義経の正妻は、河越重頼(中原町の山車)の娘です)

大塚新田の山車は町内曳きが主で中心市街地に曳いてくることはありませんが、こうして居囃子で祭りに参加しています。

 

さらに通りを進んで先ほどの新富町一丁目の会所にも挨拶。

相手町内に対しては、山車と会所共にこうして山車の正面を向けて挨拶するのが川越まつりの礼儀。

そして、礼儀を大事にするからこそ、無礼講が成り立ちます。

(山車と会所の間に人が入らないよう、相手町内が紅白の綱で境界を作っている。素晴らしい対応)

 

中央通り上で中原町の重頼の山車と曳っかわせ。

その後中原町は北方面へ。新富町一丁目と同じく、序盤は北進するルートをとっていました。

 

本川越駅前交差点は複数台山車による曳っかわせのメッカになっている。川越まつりでは大きな注目を集めるポイントである。

山車の先に本川越駅前交差点が見えてくると、町衆達も一気にテンションが上がっていく。

複数台の山車による曳っかわせが行われるのではないか。

例年のような華やかな複数台曳っかわせを期待したのは当然。

が、しかし。。。

先触れが駆けて本川越駅前交差点を確認に行くと、なんと、、、山車が見当たらない。。。

交差点から東西南北を見渡してもどこにも山車の姿が見えないのです。

午後6時半、本川越駅前交差点で他の町内の山車に合えないというのは実に珍しいこと。。。

交差点中央で山車を待機させつつ状況を見守る。

先触れが周辺確認に行っても他町内のいる様子が窺えなかったため、宰領の判断で連雀町はここでUターンして来た道を戻っていくことに。

なぜ、他町内の山車がこの時間に本川越駅前交差点にいなかったのか?

運行ルートを確認すると、南側エリアにある参加町内、脇田町の家康の山車、新富町二丁目の鏡獅子の山車は午後6時半会所出発で(連雀町は午後6時出発で早く着いた)本川越駅前交差点にまた辿り着いておらず、南通町の納曾利の山車は川越街道を北進するルートをとっており本川越駅前には来ない。

夜の部の早い時間で、交差点に詰めかけた観客は複数台による曳っかわせを待ち望んでいたでいたでしょうが、曳行ルートの上では早い時間ではここで複数台集まるのは見られないことは想像できることでもありました。

ただ、連雀町がUターンした後、脇田町の家康の山車と新富二丁目の鏡獅子の山車が本川越駅前交差点に来るのは確実なので、待っていれば山車は見れたことでしょう。

(さらに突っ込んだことを言うと、早い時間に本川越駅前交差点をルートに入れていない町内は、帰りに本川越駅前交差点を通るルートとなっているところが多く、川越まつり夜の部最終盤午後9時頃にここで山車の集結が見られるだろう可能性が高まると考えられます)

 

本川越駅前交差点をUターンした連雀町の太田道灌の山車は、今度は中央通りを北進していく。

ここでも先ほどの新富町一丁目の会所や中原町の大塚新田囃子連の居囃子に山車の正面を向けて挨拶していくことは変わらず。

前を横切る度に挨拶していくのが川越まつりの礼儀です。

そして、こちらもUターンしてきた新富町一丁目の家光の山車と曳っかわせ。

 

新富町一丁目は連雀町交差点まで行って本川越に戻って来るというルートになっており、当然ながら再び合うことが想像できました。

さらに中原町の会所にも正面を向けて挨拶。

中原町の重頼の山車は先ほど合った後は中央通りを北進していて、会所にはいない。

一番街の幸町会所まで行ってUターンするルートを予定いており、戻ってきたところでどこかで連雀町と合うことでしょう。

山車を進め、連雀町交差点が見えてくると、既に別の山車が待機している。

先触れが確認に行くと、中原町の重頼の山車だった。

先に北進して行った中原町だったが、連雀町交差点から先に他町内の山車が密集していてここで待機しているところだった。

両町内の手打ちで連雀町交差点の真ん中で山車を合わせることに。

山車の正面を向け会い、曳っかわせ。

両町内の町衆達も山車の間で盛り上げます。

曳っかわせの最中、と、そこへ・・・

県道川越日高線をこちらに向かってくる町内があることが伝えられた。

末広町の高砂の山車だった。

末広町は連雀町交差点から北進して札の辻まで行くルートを予定していて、連雀町交差点を目指してやって来ていたのだ。

ここで三台による曳っかわせが実現。

 

さらに、これで終わらない。

午後7時過ぎ、中央通りを南進して来た幸町の翁の山車が加わっての四台による曳っかわせ。

連雀町太田道灌の山車、中原町の重頼の山車、末広町の高砂の山車、幸町の翁の山車。


山車同士の曳っかわせは、まさに各町内によるフリーセッション。
その場、そのタイミングで出逢った山車の町内同士が、その時限りのセッションを魅せる。
曳っかわせを勝負と見るのはちょっぴり無粋かも。

複数台の曳っかわせは、自町内・他町内とあうんの呼吸で合わせる必要。

それぞれの町内が一体となって山車の方向を変え、ゆっくりと距離を詰めながら近づけ、絶妙な距離で停める。

複数台の曳っかわせを真ん中から見回すと、それはもう桃源郷として言い表せないような幻想世界が広がっています。

関わる町内合わせれば数百人になるだろう、大勢の人で創り上げるまさに総合芸術。

これを人の力で現実化させていることを思うと、川越まつりの底力を思うのだ。

(ここで、一つの壮大な仮定の話しを。

各町内で山車曳行ルートは事前に決めていますが、午後7時頃のルートとして多くの町内が設定していたのが、連雀町交差点辺りでした。新富町一丁目の山車、野田五町の八幡太郎の山車、宮下町の日本武尊の山車、元町一丁目の牛若丸の山車が、この時間頃に連雀町交差点近辺の予定。タイミングによっては複数台山車の曳っかわせの顔触れが変わっていたし、台数も変わっていた。実際にどうなるかは神のみぞ知ること)

 

連雀町交差点を分岐点として、幸町の翁の山車は本川越方面へ。

中原町の重頼の山車、末広町の高砂の山車は中央通りを北進して行きました。

中央通りが山車が詰まって進めないということから連雀町は交差点でそのまま待機。

午後7時半、この時間、連雀町交差点~仲町交差点に山車が集まって動きにくい状況となっていました。

交差点に居ると、南進してくる元町一丁目の牛若丸の山車、宮下町の日本武尊の山車と曳っかわせ。

両町内とも北から南進してきて、元町一丁目は本川越まで、宮下町は連雀町交差点で折り返すルートとなっていました。

 

その後、中央通りの山車渋滞が緩和すると連雀町も北へ進路を向けてゆっくりと進み始める。

連雀町会所前では仲町の羅陵王の山車、続いて元町二丁目の山王の山車、南通町の納曾利の山車、六軒町の三番叟の山車と曳っかわせ。

連雀町と隣接する仲町、六軒町は午前・午後の部で会所に挨拶はしているが、山車同士の曳っかわせはこれが初でした。

仲町は連雀町交差点でUターン。元町二丁目は連雀町と同じく中央通りを北進していこうとしていた。ということは同じ方向の先でまた合うことになるでしょう。

六軒町は本川越方面に行くのでこの先に合う可能性が低い。

結果として最初で最後の曳っかわせになりました。

ホームである町内を山車を曳くのはやはり町衆達にとっては気持ち良いもの。

掛け声も自然大きくなっていくのだ。

「ソーレイ!!」

「ソーレイ!!」

中央通りから一番街に入り、先行していた中原町の重頼の山車に追いつき曳っかわせ。

先行して一番街の幸町会所まで行ってUターンして来たところに合いました。

先ほど、一時間半前に連雀町交差点で四台の山車による曳っかわせを魅せた中原町。

夜の部序盤でも合わせ、日中の部から続き、今年は各所で幾度となく合わせることが多かったのが、隣接町内の中原町。

一度も曳っかわせが出来ない町内もあれば、一度だけで終わった町内もあり、また何度どなく曳っかわせを行う町内もある。

合う合わないは曳行ルートが大きく関係していますが、それでも、山車同士が合うというのはその時になってみないと分からない偶発性が大きいのだった。

中原町はこのまま南進して本川越近くの会所に戻るルートのため、これが最後の曳っかわせとなりました。

そして、一番街を進んで行く連雀町は、予定としては札の辻までのルートを想定していましたが、前方の道路状況や会所に戻るまでの時間を考えて一番街の途中でUターン。

(自町内の会所に戻る時間は午後9時45分を予定していた。交通規制が解除されるのが午後10時。それまでに山車は会所に戻らなければならず、山車を車道から上げなければならない)

 

午後9時、埼玉りそな銀行前では、元町二丁目の山王の山車と曳っかわせ。

連雀町交差点近くで合わせた両町内は、同じ方向で進んでいて再び合流。

元町二丁目はこのまま一番街を北に進み、札の辻を左折、会所に戻るルートで、連雀町とはこれが最後の曳っかわせ。

 

来た道を南進していく連雀町は、一番街の居囃子の石田囃子連などに挨拶して行き、中央通りへ。

 

仲町の会所、そして午後9時15分頃、連雀町交差点で仲町の羅陵王の山車と曳っかわせを行ったのが、川越まつり最後の曳っかわせとなりました。

 

中央通りを本川越駅方面へ進めながら時間を見て会所に戻る。

連雀町交差点近く、熊野神社横の会所に戻って来たのが午後9時40分。

(道路に刻まれた白い線は、数々の山車が曳行した跡)

予定通りの時間に、川越まつりの全ての山車曳行を終えました。

終わる間際の場面も川越まつりならではで、交通規制が解除されるといっても、まだまだ祭りの熱気は鎮まるところを知らない。

祭り関係者だけでなく観客も名残惜しそうにその現場に留まり、祭りの最後の瞬間を共有していた。

午後9時45分、道路上で山車の向きが変えられ、後ろ向きの状態で職方が一気に山車を敷地内に引き上げる。

もう祭りは終わり。誰の目にも分かる山車収納の場面。

その時、今回もまた、沿道から大きな拍手が沸き起こったのでした。

思えば、山車を曳き始める場面も拍手が起こり、山車を収納する場面も拍手が起こる。

何か人の心に訴えるものがそこにはあり、川越まつりのもう一つのドラマと言えるものがここにあった。

 

山車の前で職方の仕舞いの木遣りが行われ、川越まつりは盛大に、そして静かに祭りが終わりました。

 

川越まつりはみんな自分とこの町内が一番だと思ってる。そう、それは正しい。
自分の町内に誇りを持ちながら、相手の町内を尊重し、お互いに気持ち良く祭りを催行し、盛り上がれればと思ってる。
どこが一番なんてない、川越の街の共存共栄を確かめ合う、それが川越まつりの神髄なのだ。
 

川越まつりが終わると川越全体に燃え尽きた感、一年が終わった感が漂いますが、すぐに次の祭りへの期待が膨らむのも川越。

 

令和二年川越まつりまであと、12ヵ月を切りました。
 

令和元年10月19日、20日川越まつり参加山車一覧
喜多町 秀郷の山車
幸町 翁の山車
幸町 小狐丸(小鍛冶)の山車
志多町 弁慶の山車
新富町一丁目 家光の山車
新富町二丁目 鏡獅子の山車
末広町 髙砂の山車
仲町 羅陵王の山車
中原町 重頼の山車
野田五町 八幡太郎の山車
南通町 納曾利の山車
宮下町 日本武尊の山車
元町一丁目 牛若丸の山車
元町二丁目 山王の山車
連雀町 道灌の山車
六軒町 三番叟の山車
脇田町 徳川家康の山車
川越市 猩猩の山車

「川越まつり公式サイト」
https://www.kawagoematsuri.jp/