川越style「鶴川座の調査結果報告及び現地見学会」NPO法人川越蔵の会 2019年6月30日 | 「小江戸川越STYLE」

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川越の連雀町にある蓮馨寺(れんけいじ)。

蓮馨寺から真っ直ぐ伸びる立門前通りは、昔の川越の雰囲気を感じさせるお店に、最近できた新しいお店もあり、最近話題に上がる事が多い通りです。

立門前通りは、蓮馨寺から大正浪漫夢通りを交差して、さらに真っ直ぐ進んで川越街道と交わる。通りには、昔から続く老舗に新店も続々とオープンし、ディープな川越を感じられる通りでもある。。

この通りにあるのが・・・芝居小屋「鶴川座」。

 

鶴川座は、明治33年の芝居小屋開場以来映画館になった時期や、展示場になったり、ライブハウスになったり、はたまた「仮面ライダーW」の舞台に使われたりと、使われ方は時代により様々ですが120年近く使われてきた建物です。

近年では消防法に適合していないということから、イベント等での使用もできなくなり、建物自体も相当傷んで危険な状態になっていました。
その折、宿泊施設+店舗を用途とする施設に建替えるという計画が民間事業者から提案され、所有者である蓮馨寺も危険な状態の建物を放置することもできないということから、計画案が了承されました。

開発計画の進捗により、2019年7月には現在の建物が解体される見込みです。


首都圏で唯一残る芝居小屋の建物として、歴史的な価値も高く、取り壊し前に記録だけでも後世に残したいと、これまで、NPO法人川越蔵の会が中心となり、木造劇場研究会の賀古唯義さんの協力を得ながら調査を行ってきました。
その調査結果の報告と現場見学会を、蓮馨寺の了解を得て開催。

市民にとって鶴川座内部最後の見学、最後にもう一度鶴川座の見納めの機会として、取り壊しの寸前、2019年6月30日(日)鶴川座で開催されたのが、「鶴川座の調査結果の報告及び現場見学会」です。

(芝居小屋として使われていた頃の鶴川座の様子。もともとは土蔵造りである)

「鶴川座の調査結果の報告及び現場見学会」

・日時:6月30日(日曜日)
  1回目:10時~11時半 
  2回目:13時~14時半
  (予約制ではありません)

・場所:旧鶴川座 川越市連雀町8-3 

・講師:賀古唯義さん

(木造劇場研究会、全国の多くの芝居小屋の再生を手がけてこられた方で今回の調査の中心になってくださいました)

・主催:NPO法人川越蔵の会、木造劇場研究会
※内部はあまり明るくありません。汚れてもいい服装で、懐中電灯、ヘルメットをお持ちの方はご持参ください。

 

芝居小屋「鶴川座」

『鶴川座の前身は、同地区にあった芝居小屋「松連座」が明治26年(1893)の川越大火で焼失し、その後有志によって「川越座」として再建された。
明治33年(1900)に「鶴川座」と改称され、旅芝居の興業や活弁を中心に上演された。
大正時代に入ると活動写真が上映され、弁士や楽団が活躍。
当時は近隣のすし店が小屋内に出店し、お寿司を食べながら映画や芝居を観ることができた。
鶴川座は小屋の利益で芝居専用劇場「舞鶴館」を約200m程離れた場所に建設。
劇場運営の全盛期を迎える。
舞鶴館は芝居小屋として歌舞伎座を模し建築されスタートするが、昭和40 年頃に解体された。
活動写真を中心とした鶴川座は、戦後になると映画より興業のほうが多くなり、
水の江滝子と松竹歌劇団をはじめ三波春夫もこの舞台に立ち、立門前はいつも夜遅くまで賑わっていた。
その後、再び日活系の映画館として歩むが、平成12年頃(2000)を最後に映画が上映されることが無くなった。店舗やライブハウスとして活用されたが、現在は未活用の状態。』

 

市民が、保存・再生・復活の望みを抱いてきた鶴川座。

最後の姿を目に焼き付けようと、市民が数多く鶴川座を訪れていました。

主催者も想定した以上の参加者数で、改めて、川越で鶴川座が親しまれてきた歴史を思わせる。

参加者は川越市民のみならず、富山県や山形県など遠方からの来場もあり、多くの人が鶴川座のことを気に留め続けてきました。

内部に入れるのはこれが最後、それぞれ写真を撮り思い出話に花を咲かせと、最後の鶴川座で時を過ごしていた。


保存のために採取した部材の数々や「奈落」の回り舞台の機構、花道下の役者が通る地下通路なども見ることができ、参加者は改めて鶴川座の歴史的価値を再認識していました。

 

鶴川座はこれまで、NPO法人川越蔵の会を中心に、鶴川座復活のための模索、活動が続けてきました。
2008年2月には、川越鶴川座復原にむけJATET木造劇場研究会が川越で開催。JATETメンバー、川越蔵の会、近隣住民を交えて川越で行われました。鶴川座の現状見学と、復原のための調査をしている伝統技法研究会の大平さんと文化財建造物保存技術協会の賀古さんより、調査の途中報告がされました。

以前、映画館のために改装が施されていますが、その仕上げの裏には、江戸時代からの伝統的な様式を持つ芝居小屋の様子が分かるとのこと。

このような劇場は関東ではここしかなくなっているようで、大変価値がある。

鶴川座は映画館の時代の意匠に復原する方法と、芝居小屋に戻す方向と二通りがありましたが、江戸時代の雰囲気を持つ芝居小屋は現在ほとんど無く、鶴川座の存在が非常に貴重であり、また、その芝居小屋の音響的な空間が日本の伝統的な歌舞伎などの芸能文化の音響的な特徴を育てたのではないかという研究を実証する意味で、さらに貴重なものだという。
復原できた暁には、歌舞伎などの伝統芸能だけでなく、様々なジャンルの芸能、現代演劇や音楽などが活発に公演され、街おこしに大きく役に立つと期待されていました。

 

他にも、鶴川座を活用して提案しようと、閉館後も様々な催しで使用されてきました。

 

特に、再生の機運を高めようと、川越蔵の会では2013年に鶴川座内の掃除会を企画し、同年、「映画中村勘三郎」の上映会を開催したこともありました。

川越style

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(川越style「旧鶴川座」市民有志のお掃除会&映画上映会 再び人の集まる場所へ・・・

https://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11619510522.html

映画中村勘三郎上映会の際に、多くの市民から保存のための募金の協力が寄せられた。
募金については、3年ほど前の大雪で大屋根の桁梁が折れた際に、応急手当として土間から支えの柱を追加して立てた時の工事及び今回の調査で、花道下にあった役者用の地下通路の発掘のための解体工事、土工事の費用に充てた。

 

その後、鶴川座の取り壊しが決まり、商業施設が新たに建つことが発表される。

鶴川座の調査は2018年の秋から始まり、以降続けてきました。

取り壊しが始まる前にできる限り調査して後世に遺そうと、木造劇場研究会の賀古さんが中心となり、蔵の会のメンバーも協力し寸暇を惜しんで行われてきました。

「取り壊すにしてはあまりに惜しい芝居小屋」と語る賀古さん。

資金は乏しく、みな手弁当で休みの日にコツコツと調査してきたものでした。

「調査報告会」当日の朝も最後のぎりぎりまで調査を行っていた。


2019年6月30日、市民にとって鶴川座最終日。

この日の調査結果報告会では、主催のNPO法人川越蔵の会秋山氏の挨拶の後、賀古さんから鶴川座のこれまでの歴史や調査の細かい報告がパワーポイントを使って約1時間に亘り説明されました。

「調べれば調べるほど、この建物を取り壊すのは勿体無い」

芝居小屋として使われていた上の当時の写真を見ると、鶴川座はもともと「土蔵造り」だった。

花道も回り舞台もあり、本格的な歌舞伎が上演できる芝居小屋でした。

明治時代に開館した鶴川座の少し前、明治26年には川越大火がありました。

川越の街が壊滅的な被害を受けた時に、土蔵造りだけが焼け残ったことから、土蔵造りを建てるようになり川越は蔵の街になっていった。

川越大火からほどなくしてという経緯から土蔵造りになっただろうという鶴川座。

川越の街にふさわしい蔵の姿をしているのが鶴川座の本来。

こうした芝居小屋は、全盛期には日本全国で6000~8000はあったと言われている。

(現在、残されている・復活途上の芝居小屋は全国にありますが、劇場として使われている芝居小屋は全国で10座もない。その中で、鶴川座の価値は最高ランクに位置するものだという)

 
「最も素晴らしい芝居小屋だと思います」

 

その後、時代の流れと共に鶴川座は洋風に衣替えされ、現在の姿へと変わっていきました。

(鶴川座正面両側にタワーが建っていた時代があった)

今でもタワーの根っこの部分は残っているという。当時は劇場として使われていた。

洋風に改築された時に回り舞台は潰されたそう。その時におそらく花道も撤去されただろう。

 

「もう歌舞伎をやる時代ではなく、これからは西洋式演劇、活動大写真、浪花節だとそちらに移っていったんだろう」

 

昭和時代の鶴川座は主に映画館。

映写室のために燃えないコンクリートで増築部分があるのも鶴川座の特徴。

戦後、娯楽に乏しかった当時は映画館に人が押し寄せ、昭和30年代に映画の絶頂期を迎える。映画館に衣替えする芝居小屋が多く見られる中、鶴川座も地域の映画館として娯楽の中心地となっていきました。

ところが、昭和40年代になりテレビが普及すると、映画館の観客数が激減する。

興行が成り立たなくなると、閉館する芝居小屋が全国的に増えていき姿を消していった。

 

「昭和の終わりまでに、日本の芝居小屋の90数パーセントは失われました」

 

最後に行き着くのはポルノ映画館やパチンコ屋などになり、それも立ち行かなくなって取り壊されるパターンが良く見られる。鶴川座も川越プラザ劇場に。

ここで、もし・・・という話しが持ち上がる。

鶴川座というと、今の洋風建物の姿が市民の記憶に共有されていますが、もし、開館当初の土蔵造りで今に遺っていたら、市民の意識はもっと違っていたのではないか。この建物を遺そうと運動したのではないか。。。

洋風の衣の下の本当の姿が忘れられている、伝わっていない、ここに鶴川座の不幸と悲劇がある。

 

実際の調査の内容の詳細は、いずれ調査結果報告書としてまとめられますが、話しの要点は以下の通り。


①江戸時代に花開いた歌舞伎芝居の小屋は、享保時代には町の防火のため屋根や壁の防火措置が幕府から指導されてきたが、商業的な要素の強い芝居小屋はお金と時間がかかることが出来ず、簡略化した土蔵造り(擬似土蔵造り)で対応してきたことが文献等の記録から判断される。(火災の後数ヶ月で再開していたりするため、本格的な土蔵造りは不可能)

②そのような江戸の芝居小屋はすでに全て取り壊され、江戸の系譜の擬似土蔵造りが確認できる建物は残っていない。
 

③そういう意味で鶴川座は江戸と文化的につながりの深かった川越に残された芝居小屋建物で、明治33年開場ではあるが、江戸の系譜を汲む芝居小屋で、擬似土蔵造りを確認できる歴史的に貴重な建物である。

④今回の調査で、当初の表側外壁が漆喰塗りであったことを確認するため2階の通り側外壁を調査したが、大正期に洋風に改造した時に下地の木ずりから撤去されていて外壁では確認できなかった。その外壁に取り付いている1階屋根部分も大正期の増築で、この屋根の鉄板を剥がすと野地板が現れるが、野地板としてはあるはずのない漆喰を塗った後が確認され、転用材であることが分かる。現在使われていない釘穴痕などから、当初外壁の下地として使われていたものを転用したと推察される。板にはノコで網目状に傷を入れて漆喰が食いつきやすいようにしていた痕も確認された。本格的な土蔵造りの下塗りの土壁があるのではなく、木ずり板を目荒らしして直接砂漆喰を付けていく、擬似土蔵造りと言える痕跡が確認された。

⑤芝居小屋時代の写真を見ると、大屋根は道路に近い妻側から一間程度は瓦葺きだがそれより奥は瓦葺きには見えない。妻側の柱が並ぶ 部分は瓦の荷重にも耐えられるが、柱がない客席や舞台上部はトラス構造で大きな梁間を飛ばしているが、土葺きの瓦荷重には耐えられない。このため、妻側から一間程度だけ瓦葺きとして、残りは鉄板葺きの屋根で軽くしたものと考えられる。これも江戸の系譜の擬似土蔵造りと言える。

⑥当初の建設時の客席部分天井はどのようなものであったか?今回小屋裏に登り、小屋組構造材を確認したところ、目に触れる部分は全てカンナ仕上げとなっていることがわかった。天井があれば必要のない手間がかけられていることから、当初は小屋裏が現しになっていたことが分かる。
舞台の上部はぶどう棚や幕、釣り物などの機構が確認された。

⑦花道下に役者用の通路があることは以前の調査で分かっていたが、今回の調査で地下通路がどのように花道につながっていたかが確認された。レンガで通路の壁や花道端から降りてくる階段を作り、コンパクトに役者動線を確保していたことが分かった。

⑧回り舞台の機構の詳細を確認、軸部から役者が乗る盆までの全てのパーツの一部を切り取り保存のために確保した。良く考えられた機構で、川越祭りの山車が台車上部が回転する機構と似ており、そのような機構に慣れた大工が手がけたのではないかと想像される。

熱気溢れる館内、盛り沢山の話しでしたが、詳細はまた後日の報告書で説明されます。

 

鶴川座は貴重な建物資産であるとともに、明治以降の川越におけるエンターテインメントの中心として、様々に姿を変え、それぞれの時代を彩ってきた歴史文化資産でもある、と結論づけられていました。

5年、10年・・・時間が経つごとに、鶴川座の記憶が風化していくことになるだろう。

 

川越に貴重な芝居小屋、鶴川座があったことを、ここに永遠に留めておく。