「大東図鑑2013」 | 「小江戸川越STYLE」

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「時が人を結ぶまち川越」
川越のヒト・コト・モノ、川越物語りメディア、小江戸川越STYLE。
川越の現場で様々なまちづくり活動にも従事しています。
「小江戸川越STYLE」代表:石川真

ここに一枚のCDがあります。

「大東図鑑2013」とラベルが貼られたCDは、川越の大東地区の情報を網羅した図鑑で、

実は父など数人が集まって制作したものです。

なんと3年の歳月をかけて作り上げました。

以下写真全て父撮影。

川越の大東地区というのは、分かりやすく言うと、西武新宿線南大塚駅南北に広がる地域で、

北は入間川にかかる八瀬大橋から尚美学園大学、

南は荒幡農園さんのさつま芋畑、

東は山王塚古墳、

西は川越総合卸売市場裏手まで、とかなり広範囲に広がる地区です。

このCDをパソコンに挿入すると、画面にたち現れるメニューは、
・大東百年のあゆみ(PDF)
・大護先生が残してくれたもの
・寺院
・神社
・板碑
・古墳めぐり
・石仏を訪ねて
・古文書を読もう
・地域行事 まつりを調べる
・餅つき踊り
・大塚新田の山車

・年中行事
・戦争の記憶 戦火を越えてⅡ
・大東かるた かるた2004
・公民館について さようなら大東公民館(南大塚)
・産業 味覚マップ
・かわごえいも
・工業団地見学
・散歩道 赤間川をたどる
・私の歴史散歩
・私のさくら散歩
・公園めぐり
・富士山名所めぐり
・安比奈線を訪ねて
・建物めぐり
・伝説めぐり
・自然 さくらMAP2012春

そしてそれぞれの項目で詳しい情報へと入っていきます。


例えば大東地区の古墳をクリックするとマップが現れ、

「大東地区には、約20以上もの古墳があったことが知られています」

という説明の後に、一つ一つの現場の写真と詳細が紹介されていく。


・富士山名所めぐりというページでは、

南大塚駅階上改札口

関越道 豊田本橋付近

川越卸売市場裏通り

などなどが紹介されている。



・地域行事 まつりを調べるというページでは、

大東地区で昔から続く地域行事を全て紹介しています。
1.西福寺と「餅つき踊り」
2.池辺稲荷の初午まつり
3.豊田本の「観音さま」と「弁天さま」の縁日
4.白山神社の夏まつり
5.八坂神社の「居囃子」
6.豊田本の薬師さま
7.八坂神社の天王さま
8.大袋の庚申さま
9.山城神社の神楽と仏像
10.白髭神社の秋まつり
11.増形白山神社の秋まつり
12.愛宕神社の弁天講
13.大袋の地蔵様まつり


面白いのは大東地区に伝わる伝説というページ。

夜泣き地蔵さん
コガン坊さま
とんがらし地蔵さん
泣く子もだまるぶんぞうえもん
弁天の池
増形の白山さま
増形のいわれ
セタガヤのお地蔵さん

その他

東陽時の黒へび
オッポリ池

伝承として伝わる妖怪伝説を紹介するだけでなく、

これも現場の写真などを撮影して詳しく紹介しているところが面白い。


廃線となった西武安比奈線を辿る旅も掲載。

南大塚駅から八瀬大橋まで線路を進んでいきました。


『この鉄橋は、畑の中の水路を跨ぐ大きなものです
赤間川は鉄橋手前を流れてます』


マニアックなページとしては、大東地区の建物めぐり。

古い建物を次々と紹介するページですが、

大東自警消防団第五分團器具置場(豊田本)、

大東村消防団第七分団 (大袋)、などチョイスがさすがです。



押さえるところは外さない、大東地区で外せないのが田んぼの風景。

さつま芋畑が広く知られる大東ですが、北方面は昔から田んぼが広がっています。
そんな一枚、池辺の地下水の汲み上げている写真はまさに大東地区そのもの。


個人的な嗜好がかなり入っているように思うのが、

栗原造園近くの大田街道(南大塚3丁目)道路改良工事の変遷。

平成21年1月から平成21年3月まで行われた工事を、

改良工事前から完了後まで追いかけた様子の写真も入っていて、

今となっては貴重な資料になっています。




そして、CD完成に寄せたコメントとして父が書いているのが、
「2011年から3年間図鑑作りに参加し、見識を深めることができました。

この図鑑を、多くの人に見ていただき、地域のことについて知るキッカケになればと思います。 」

ひいき目なしに見てこの図鑑は凄い。

自分達の力で足を使って探し回り、一覧化するのは相当の苦労だったと思います。

しかし、これだけの図鑑が出来上がってから数年経ちますが、

活用されている話しはあまり聞かない。。。

大東地区の小・中学校にも寄付されているとのことですが、あれからどうなったでしょう。

身内のことなので紹介するのは憚られて、今までどうしようかと迷っていたのですが、

この図鑑が少しでも日の目を見て、大東地区の理解や愛情が深まることを願って、

父了解のもと、掲載させてもらうことになりました。

父の生まれは埼玉県秩父市、養蚕農家の三男に生まれました。

蚕の話しを聞くのは個人的に昔から好きで、

「学校行くまでに桑の葉をあげて、学校から帰ってくればまた桑の葉をあげる。

蚕は一日中桑の葉を食べ続けるんだよ」

そして、繭ができて蚕が死んでいく話しに差しかかると毎回胸が締め付けられるような感覚になりました。

蚕って健気で可愛い、今でもそう思います。

都内に就職した際居を構えたのが川越で、以来ずっと川越の大東地区に今も住み続けています。

川越の様々な地域活動にも参加している人で、

その知的好奇心の矛先はもっぱら地域史、郷土史に向けられているように思います。

自分が住んでいる地域のことを知りたいという思いが強く、

それが大東地区に特化していることで、集大成として大東図鑑の話しが持ち上がっていった。

数人で制作したといっても、話しを聞く限りほとんど父が駆け回っているような形で、

その姿は川越style。いや、父が初代で、自分はあくまで二代目でしかないように思う。


という大東図鑑の触り部分を紹介した後で、ぜひ見てもらいたいものがあります。
大東図鑑で特に苦労したというのが、石仏探しだといいます。

大東地区に点在している全ての石仏を探し出しマップ化。

川越には地区ごとに石仏は数多く残されていますが、

大東地区に特化したものとしては初のマップとなりました。

(他の地区でもマップにした人はいないのではないかと。。。)

自転車で走り回り、地域の人に聞き込みをし、一つ一つ見つけていった。

「その地域の人に聞くのが一番だけど、最終的には全ての道を走って見つけ出した」

と振り返ります。

図鑑の中でも一番の労作となった石仏さがしを、ここに掲載したいと思います。

この項目だけ見ても圧倒されると思います。以下ももちろん父の文章、写真です。

見逃せないのは、当時もそうですが、今でも

石仏にそえられる花が絶えないところが数多くあること。


石仏さがし     
江戸時代庶民に親しまれた石仏さがしです(江戸時代 西暦1603-1868)

観音さま      
庚申さま        
地蔵さま


■観音菩薩とは

観音様はどういう菩薩かというと、心から「観世音菩薩」と唱えれば、その苦悩の声を感じて、ありとあらゆる困った事を救って下さる。この世の人々の苦しみの音を観じて自由自在に救ってくださるので現世利益の菩薩さまとして信仰されてきた。
(1) 聖観音

観音の基本的な形を聖観音と呼ぶ。顔がひとつ、手が2本と、普通の人間の形をとっている。

頭には宝冠をかぶり、冠の正面に仏化(小さい阿弥陀如来像)をつけている。

胸には瓔珞(ヨウラク)(鎖状の胸飾り)を飾るものもあり、

水瓶(スイビョウ)(けがれを浄める水)や蓮華の蕾(蕾は人の心にある仏性を表わす)を持っていることが多い。人気がある菩薩だけに、様々な形の観音が生まれ、

それらと区別する意味で聖(正)観音と言われるようになった。
(2) 十一面観音

本面と合わせて11個の顔がある。

菩薩の顔、怒りを表した顔、牙を出している顔、あざけり笑っている顔、そして如来の顔があり、

像によって数が若干違う。顔が全方向に向き、

世のすみずみまで見通して我々を救ってくださるという観音の徳性を表現している。

腕は2本だが、4本のものあり、蓮華や錫杖(棒の先に環がいくつも付いた杖)を持つことも有る。
(3) 千手観音

全身に無数の手と眼を持ち、千の慈眼で衆生をみつめ、千の手で衆生を救うという。

千というのは無数にあるという抽象的な意味で、必ずしも千本という事ではない。

千手千眼観音といわれるように、てのひらに目がある事になっている。千手観音を口にしただけで、

迷いをはらい、病気も治すと、慈悲は無限である事を表現。平安時代後期から強大な人気が出た。
(4) 如意輪観音

手に宝珠(願いが叶う宝石玉)と法輪(車の輪のように回転して仏教が広まることをイメージしたもの)を持ち、右膝を立てて座っている。一面六臂(手が6本)像なので、他の手で蓮華や念珠なども持っている。

この観音様は、如意宝珠を使って、苦悩をはらい、富や力や知恵を思いのままに授けてくれるという。

二臂や四臂もある。
(5) 馬頭観音

頭上に馬の頭を戴き、顔は分怒の形相。ほかの観音様と随分違い、

三面二臂、三面八臂、四面八臂などがある。馬は魔を下す威力を象徴しているといい、

病魔退散など悪趣を断つ事を本願とする。

馬は武士の乗り物として大切だったから鎌倉時代には武士の信仰があつく、

江戸になると民間信仰と結びつき、農耕の為の馬の守護尊、さらには家畜の守り本尊となった。
(6) 准胝観音(ジュンテイ)

インドのチュンディーからきているといわれ、チュンディーはインドの女神、

もしくは巫女が起源と考えられている。姿は一面三眼十八臂が普通。

顔は優しく、心の清らかさを表現して仏母と呼ばれる。過去の無数の仏を生んだといわれる。

安産や子授けの観音さまとして信仰を礼状が三十四カ所になった。

准胝観音は33変化する観音の一つの姿で、百観音霊場中これを本尊とする寺は

西国11番京都伏見の上醍醐寺と、この秩父5番語歌堂の2ヶ所だけです。?


■庚申(こうしん)信仰とは
中国の道教では「人間には三尸(サンシ)という虫が住み着いていて、

庚申にあたる日(60日間の周期でやってくる)の夜になると抜けだし、

天帝にその人の罪悪を報告しに行く。そして天帝はその報告に基づいて罰をきめる」という信仰がありなす。

この思想は、日本に入ってきて平安時代になると貴族の間で信仰されるようになりました。

しかし、何かしら悪いことをしてしまうのが人間の常です。

時代が進むと、三尸を封じ込めて出られないように、

その夜には謹慎し眠らないで夜明かししようという形態に変わってきました。

さらに、江戸時代になると庚申信仰は民間にも広まり

庚申の日は隣近所の人と一緒に話し(飲み?)明かすという交流の場になったふしがあります。

これが庚申講とよばれるものです。

そして、悪いことは「見ざる」「言わざる」「聞かざる」を守って謹慎することを誓い庚申塔を奉納し

善行の証としていたようです。

庚申塔は通常、角柱の石の主部に「庚申塔」「庚申塚」などと文字を陰刻(インコク)したもの、

またはインドのバラモン教(ヒンズー教)の神、青面金剛像を陽刻(ヨウコク)したものが多く、

その下の台座に三猿の像「見ざる」「言わざる」「聞かざる」があるにが特徴です。


■地蔵菩薩とは
釈迦が亡くなって弥勒菩薩が現れるまでの仏のいない時期に

この世のすべての生き物を助ける為に現れたといわれています。

他の仏像と違ってツルツルの円い頭で袈裟をまとい、

右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持ったお坊さんの姿をしている。

子育てから安産、病気平癒はもちろん、死んだ人をも救済してくれると信じられています。
また、お寺や墓地の入口には六地蔵をよく見かけます。

これは死者が六道(りくどう)で苦しんでいるのを、生きている人達の供養によって救おうというものです。 このように現世の人たちと亡き人たちを結びつける仏様として地蔵はなくてはならない存在なのです。


■六地蔵とは

お寺やあ墓地の入口にはよく見かけます。

これは死者が六道で苦しんでいるのを生きている人達の供養によって救おうというものです。

現世では、 1.天界 2.人間界 3.修羅界(怒れる魔物の世界)

4.畜生界(動物の世界) 5.餓鬼界(飢えの世界) 6.地獄界(地下の牢獄のように苦しみが多い世界)


南大塚六丁目       
大田街道と江戸街道に分かれるY字路にあります
右手が大田街道で、この先荒幡農園のさつまいも畑が広がっています

馬頭観音(三面八腎)
頭上に馬の頭を戴き、顔は三面、手は8本あります
三面八腎のものは、ここのみです
年代不詳


大塚一丁目       

八坂神社境内右手にあります
正面の建物は、大塚新田公民館です

右 馬頭観音(三面六腎)
寛政八年(1796)江戸後期
「武州入間郡大塚新田」
「願主:講拾六人」と刻まれてます
左 石地蔵

享保六年(1721)江戸中期

「施主:入間郡大塚新田村中」と刻まれてます

また、子育地蔵尊として親しまれてます


大塚一丁目 山王塚

上円下方墳の山王塚の上にあります

庚申塔            

三猿の上の中央に「奉造立庚申塔」とあり、

右がわに「寛文十二年壬子夫十二月吉日 」、

左がわに「施主 武州日東郡今福村 牛久保左右衛門」と彫ってあります

寛文十二年は江戸時代前期の四代将軍家綱のころで庚申塔 しては古い方て゜す

寛文十二年(1672)江戸前期

*庚申塔としては、最も古いものです


寿町 白山神社境内      

入間川街道沿いにあります

馬頭観音

石の角柱に馬頭観世音と陰刻されてます

文化十四年(1817)江戸後期


寿町

入間川街道三叉路にあります

右が豊田本方面、左が南大塚方面です

地蔵菩薩

享保十五年(1730)江戸中期


豊田一丁目         

寿町より豊田本に向う街道沿いの右手です
M家の敷地内にあります

石地蔵
云われについて、M家尋ねましたが留守でした



豊田一丁目

寿町より豊田本に向う街道沿いの左手です
豊田町集会所の裏手にあります
昭和54年 豊田新田集会所(建設)にあたり、

既存地に鎮座されてありました地蔵尊を現在地に移転することになりました。

又、この敷地につきにましては田中武百氏の御好意を戴きました。                  

昭和54年建設委員会

右 地蔵尊

宝暦二年(1752)江戸中期 

「天下和順武州入間郡」
「奉納大乗妙典六十六部日本○國」
「日月清明  豊田新田」 と刻まれています

中 地蔵尊

享保四年(1719)江戸中期
「武州入間郡豊田新田念佛講中」
「奉造立地蔵菩薩」 と刻まれています

左 地蔵尊

安政五年(1858)江戸後期

「備後 尾之道   俗名 平裕」 と刻まれています



大東東小学校前            

三基の石像が並んでいますが、それぞれ種類が違います

右 青面金剛像

元禄十一年(1698)江戸前期

中 馬頭観音
寛政九年(1797)江戸中期

「入間郡三芳野里」と刻まれてます
左 石地蔵

年代不詳 
青面金剛像の拡大写真です

顔がひとつ、手が6本、台座に三猿が刻まれているのが特徴です



豊田本 尚美学園大付近            

広大な水田が広がっています

左後方に薬師堂、右後方は西郵便局です


中央 石地蔵

絵馬が納められていました

年代不詳

右 聖観音

観音の基本的な形を聖観音と呼ぶ。

顔がひとつ、手が2本と普通の人間の形をとっています

年代不詳



大袋新田                   

旧県道 川越越生線沿いにあります
右手が南大塚、左手が池辺方面です 

左 馬頭観音

寛政十二年(1800)江戸後期

右 石地蔵

夜泣き地蔵と呼ばれています

年代不詳


池辺 

旧県道 川越越生線沿いにあります     

右手が南大塚、左手が三明院方面です

石地蔵

安永七年(1778)江戸中期

入間郡池辺村・・・・

老若男女中・・・・と刻まれてます


池辺

(三明院の門前)

馬頭観音

寛政七年(1795)江戸後期

入間郡池辺村.....と刻まれてます


大袋                               

三叉路にあります

右手が大袋新田、左手が白髭神社方面です

庚申塔

上部中央に二重丸をほり、その下に蓮(はす)の花らしいものがあります。

台には三猿があり、そのすぐ上に雌雄(めすおす)二羽のにわとりが向いあっています。

庚申塔に、にわとりの彫ってあるものはよくみかけます
享保十三年(1728)江戸中期



大袋

三叉路にあります
右手が東陽寺方面、左手が卸売市場方面になりま す

石地蔵
元禄年間(江戸前期)のもので、石地蔵としては最も古いものです

参考 元禄年間は、(西暦1688-1704)


大袋           
三叉路にあります

右手が白髭神社、左が東陽寺方面です

馬頭観音

頭上に馬の頭を載せ、顔が三面、手で6本あるのが判ります

寛政十年(1798)江戸中期



増形
三叉路にあります
この地域は山田家が多く、敷地の一角にまとまってあります

右 庚申塔

三猿の上の方に雲のかかった日、月が刻まれてます

延宝八年(1680)江戸前期

左 石地蔵

年代不詳



増形

石地蔵

道端にある石地蔵です

昔、洪水で流れ着いた地蔵で、山田家で今も供養していると聞いた

とんがらし地蔵とも言われています
年代不詳



大袋新田

(猪鼻地区)

狭山市との境で、以前は二階坂とよばれた高台にあります


聖観音

観音の基本的な形を聖観音と呼ぶ
顔がひとつ、手が2本と普通の人間の形をとっています

寛永年間(江戸前期)のものです

参考 寛永元年間は、(西暦1624-1644)

*聖観音としては、この地域で最も古いものです


藤倉

藤倉地区の三叉路で、電柱の右端にあります

顔がひとつ、手が6本あります
(青面金剛か、馬頭観音か、はっきりしません)

寛政十一年(1799)江戸後期

「藤倉村、猪花村・・・」と刻まれてます


藤倉

藤倉地区の三叉路で、電柱の左端にあります

右手が天神社方面です

聖観音

観音の基本的な形を聖観音と呼ぶ
顔がひとつ、手が2本と、普通の人間の形をとっている

年代不詳



藤倉

天神社の境内にあります

右 青面金剛像

元文二年(1737)江戸中期

左 青面金剛像

年代不詳


また別のページも折を見て追加したいと思います。