「田中博之 川越人物ストーリー」株式会社タナカ 田中博之さん | 「小江戸川越STYLE」

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「時が人を結ぶまち川越」
川越のヒト・コト・モノ、川越物語りメディア、小江戸川越STYLE。
川越の現場で様々なまちづくり活動にも従事しています。
「小江戸川越STYLE」代表:石川真

新しいこと、楽しいことを常に頭の中で考えていることが彼にとっては自然なことで、

それはもう生きることと等しいくらい、自然な状態。

その生き方はこれまでもこれからも、きっと変わらないもの。

大体いつも言い出しっぺで、
率先して動き出すのも早くて、
周りをまとめるのが上手いから結果周りをどんどん巻き込んでいて、
いつの間に大きな出来事になっていた。
辿った道を振り返って、
あの小さな一言からこんな遠くまでやって来るような壮大なストーリーになるなんて、と

大体いつも周りはあっけにとられるように圧倒されている。
彼が次に何を言うのか、周りは期待しているところがあって、やっぱりいつも頼られてしまうのだ。

柔らかな日差しが店内に注ぎ込む。
静かな時間が流れ、落ち着いたBGMが時間をさらにゆったりとさせる、

明るい店内に溶け込むように、彼がいた。
道具をテーブルの上に並べていく淀みないその所作は、

型ともいうべきもののようにその人の身体に染み付いているようで、

無駄のない動きだった。

豆を挽き、丁寧に温度を計りながら、一滴、湯を粉の上に落とす瞬間から、

香りの花が満開に広がった。

「はい、どうぞ」
テーブルを挟んで向き合いながら、今日も暑いですね、と彼は言った。
自分のこれまでと、自分のこれからを、
一つ一つのことを大事な宝物を拾い集めるように話しながら、
時に話しは母校の高校での講演のこと、大学時代のカメラマンの仕事、

芸能人のマネージャー時代、25歳で起業したこと、お店を始めたこと、

川越のこと、

うらかわのこと、

いろんな方向に話しは跳ねながら
でも全てはこの人から生まれたものだと感じさせるような一貫性があり、
そしてまた、楽しいアイディアが尽きない。


なぜそんなにいつも考えているのか?
なぜそんなに次々と行動できるのか?

その起源を振り返ってもらうと、
淹れ立てのグァテマラを注いだカップを口に運び、キリッとした味わいに目を細め、
田中さんの話は幼少時代に遡っていきました。
「小さい時はいつも何か新しい遊びを考えたり、自分なりの実験に没頭しているような子でしたね」
様々な事業で人を笑顔にし、楽しいを作り出し、感動を創出してきた田中博之さん、
30歳という若さですでに濃密な多くの体験をしてきた軌跡は、

川越の同世代の中で際立っています。
今回その人物像に迫ってみたいと思います。


川越人物シリーズ第一弾「田中博之 」。


思えば、感慨なんて浸るような老境ではありませんが、

二年前にここでじっくりお店のことを聴いたことを思い出す。

あれから二年経って、まさかその人物像を掘り下げようというくらいの関係になっているなんて。

やはり、感慨を感じずにはいられなかった。


歩調を合わせるように揃って珈琲カップを口に運ぶと、話しは深く進んでいった。

川越の新富町にある暮らしのセレクトショップ

「cotofog」さんで迎えてくれた田中さんは、このお店のオーナー。







cotofogは2013年5月のオープンから2年が経過し、今も感度の高い発信を続けているお店。
オープンしたばかりの時、いや、正確にはオープン前の情報から、
これは今までの川越にないお店が誕生することを予感した。

事実オープン後の街の反応は、

「川越じゃないみたい」という声が多く上がっていたことが懐かしい。
川越じゃないみたい、

それまでの川越にはないどこか都内のお店を思わせる雰囲気は当時衝撃的で、
今でこそ川越には都内に負けないような洗練されたお店は次々と生まれていますが、
その流れの第一歩目はcotofogだったと断言できます。


オープン直後に取材に向かい、もちろん始めはcotofogのオーナーとして出会い、
彼の熱意にこれからの展開が楽しみだと記したように、

わずか二年でcotofogは、田中さんの動きは、広がっていきました。
川越の人にとってはcotofogの人、というイメージが定着している今日ですが、
実はcotofogは株式会社タナカの事業の一つ。
他にもブライダル事業、イベント事業、デザイン事業、店舗運営事業という
4つの仕事を同時進行で進めている田中さん。
それぞれの現場では、結婚式場に行けばカメラマンとして見られ、

ホームページのデザインの打ち合わせをしている時はデザイナーとして見られ、

イベントでダンボール迷路で子どもたちを喜ばせていればダンボール屋さんとして見られ、

このようにお店にいればcotofogの人と見られる。

行く先々の場所によって違う田中さんがあり、でも全ては同じ田中さんで、
普通の人からしたら、そういう仕事の仕方はこんがらがってしまいそうになるけれど、
「そういう自分を楽しんでいるんですよね」
と穏やかに笑みをたたえながら話す。
それこそ田中さんにとって自然体の在り方なのだ。


田中がタナカになった日。
株式会社タナカにとって、発端であり田中さんにとって今でも引き続いていて

これまで長い時間携わっている仕事がブライダル事業です。

専属カメラマンとして結婚式場の様子を最初から最後まで密着し

ビデオ撮影で記録に残していく仕事に携わっている。

現場は一つではなく、週末ごとに各地の式場を飛び回っている田中さんとタナカのカメラマンたち。

タナカは結婚式場に映像を卸している会社で、卸価格で一般のお客様からも受けている為、

会場に頼むより、撮影の技術は同じレベルまたはそれ以上なのに、

撮影金額は会場価格のおよそ半額で依頼できてしまう。

カメラマンと直に繋がるメリットは大きいのです。




(カメラマンとして働く田中さん)
「自分にも肝に銘じていて自分のところのカメラマンにもよく言うのは、

主役は新郎新婦様なのだということ。

カメラマンがこう撮りたいから合わせてもらうのではなく、

あくまでカメラマンはサブ的な役割で新郎新婦様が第一」
あとは足を動かすことが大事と、例えば・・・と話したのが、

ケーキ入刀のシーン。

それまで三脚に乗せていたカメラをすぐに外し、

ケーキの前に一番先に行っていい場所を確保するためには、足を動かさないといけない。

うちにはそういうカメラマンしかいない、と自信を持って各地に派遣しています。

さらに、田中さんの撮影の仕方は、

カメラを持ちながら披露宴が終わった後に新郎新婦にインタビューするのも毎回の定番。

今披露宴が終わりましたが率直なお気持ちは??などの映像を収め、

いくつか訊いていった後に、最後に大事な質問を用意しているのだという。


「では、最後にお伺いします。10年後のご自分たちにメッセージをお願いします」


その質問に新郎新婦は、

『今子どもと一緒に見てるか??』

『もし喧嘩してたらこのビデオ見てもう一回あの時の気持ち思い出せよー!』

などそれぞれのコメントをくれるのだと言い、そのシーンを収めて映像は終了となるパターンが多い。

これは、数回しか見ないビデオで終わるのではなく、 10年後にも見てもらう為の仕掛けなんだという。


ブライダルから始まって多方面に活躍が広がっているタナカの田中さん、
その人物を読み解くキーワードは、 この3つとなるでしょう。

発想と行動力、そして展開力。

次々と生まれる発想は、一体どこから来るのか?

小さい頃からいろいろと考える子だったのか?

始めのキーワードである発想力は、実はすでに小さい頃から芽生えていたらしい。

「小さい頃からダンボールで車を作ったり、自分で作ったもので天気予報をやってみたり、

自分の世界を大事にするような子でしたね」

と振り返る。

それは単なる遊びのようで、本人にとっては真面目な実験であり、

思いついたことをとことんまでやるようなところは、その時から始まっていた。

「自分の名前に『博』という文字があって、昔から自分はいつか研究者になるものだと思っていた」

中学生になると自分で詩集を作るような子で、

自作したのは簡単な紙に書いてホッチキスで止めただけのような詩集でしたが、

これが本人の予想に反して評判良く、先生たちにも「欲しい」と言われて渡していたら

増刷が必要になるくらいの人気ぶりだった。

発想とそれを実現する行動力、

二つ目のキーワードの行動力の発露もこの頃にはすでに見てとれる。

マンガやゲームと無縁の生活で、「それ以上に楽しいことはいっぱいあった」。

楽しいことを思いついては周りを巻き込んで盛り上がり、

クリエイティブな遊びの実験が何より楽しいものだった。

川越東高校に進学すると、「ブレイクダンスをやりたい」と思ったが部活にはなく、

先生とかけ合っても部活を作るのは難しいと分かっても熱は冷めるどころか熱くなり、

先輩と教室で練習し、学園祭で披露するまでになっていたという。
卒業後の進路を考えた時に、

「CMプランナーになりたい。あの限られた短い時間の中に表現が詰まっているCMというものは凄い」

という想いから広告論を学べる大学を受験するもことごとく失敗。。。

失意に沈みながら浪人、池袋の予備校に通う日々を送ることになった。

そして、この浪人時代が、今振り返れば人生のターニングポイント。

自分が本当にやりたいことはなんなのか突き詰めて考えることができ、


「そうだ、本当は広告論ではなく、カメラを使った現場を経験する、人と何かを物作りをしたいんだ」


という自分の中の気持ちに気付いた。人生の道が定まった瞬間だった。

翌春に入学したのが東京工芸大学芸術学部映像学科。

やっぱりあの時浪人したからこそ、この道に気付くことができたんですよね、と

またグァテマラを一口含みながら、遠い目で話す田中さんがいた。

小さい頃のあの実験君が、

自分の中の世界が自分だけのものでなくなって、その境界が溶け出し、

人の世界と交わっていくことになった。

いよいよ話しは大きくなり本格的なものになろうとしていた。


大学入学後はカメラを使いこなし、まるでスポンジのように体験を吸収して創作活動に没頭していく日々。

授業以外にも、ここでも周りを巻き込むところは相変わらずで、

自身がテレビ局のADのアルバイトをやっていたことから、

テレビ局にADやエキストラを送るサークルを大学内に作った。

学校には授業だけでなくテレビ局などの現場を見たいという仲間がたくさんいて、

仲介役として現場に送る橋渡しをしていったら、

サークルは最大で80人にまで膨らんでいったという。

そして、この時季、ついにブライダルの世界に足を踏み入れることになる。

田中さんが大学時代カメラマンとして働いていたのが、ホテル椿山荘東京。

すぐにその仕事にやりがいを感じてのめり込むことになった。

「ブライダルの世界は、結婚式参列者の方に本当に喜んでもらえる。

カメラという技術でこんなに人に喜んでもらえるなんて」


ここでの経験が衝撃的だったと話し、ブライダルで働いていこうと心に決めた。
やりがいと同時にプレッシャーも相当なもの。

撮り直しが許されない現場は終始緊張の連続で、
毎回会場を頭に思い描きながら、こう動いてこうカメラを向け、と動線のプランは綿密に決めていた。
大学卒業後は、

ハワイやグアムなどの海外の結婚式場でフリーカメラマンとして働く道も考えた時期もあったが、
イベントの撮影を頼まれて撮影していた会場で、

ある人から突然声をかれられたことから別の道へ歩んでいくことになる。

うちで働かないかとスカウトしたのが、
某テレビ局のプロデューサーとして活躍し、その後独立して自分の会社を立ち上げていた方だった。
就職先がまだ決まっていなかった田中さんは、

「ベンチャー精神溢れる会社で働くのもいい経験になるはず」と入社することになった。
その会社のメイン事業はブライダル関連でしたが、芸能人の派遣も事業の一つで

田中さんはいろんな芸能人のマネージャーを務め、

有名芸能人たちとの食事の場での会話も大きな人生勉強になったと話す。


その会社に数年勤務したのち、いよいよ自分の事業で独立しようと思うようになる。

仕事はもちろんブライダルで。2010年、25歳の時でした。
もちろん独立したばかりの時は仕事は全くない、

ゼロからの始まりで生活するために仕事をとってこなくてはならない。


「独立後に初めて営業に行った地元のホテルのことは今でも忘れられないですよ。

担当者の方に会いに行って話した時に、

ちょうどブライダルのカメラマンが空いているタイミングだったので、

毎月安定して仕事をもらえるようになったんです」


結婚式場のカメラマンというと、当時から若手が少ない状況で、
ホテルとしても田中さんのように新郎新婦に近い年代で、

フットワーク軽い若手カメラマンの存在はとてもかってくれていた部分だった。
地元のホテルの仕事をしていた2年弱の間に、

田中さんは結婚式の

プロフィールムービー、
エンディングムービー、
ウェルカムボード、
スナップ撮影、
ビデオ撮影などを頼みたい人向けに
「オモイデノコス」というサイトを立ち上げ、ネット発信にも力を入れるようになる。





(上記写真オモイデノコスより http://www.kktanaka.net/omoidenocosu/
またリアルでは、各地のホテルで専属カメラマンを請け負い、

レストランやゲストハウスなどにも撮影に赴いて仕事が軌道に乗っていった。
需要が高いことからカメラマンを派遣するようにもなっていき、
現在タナカで派遣しているカメラマンは数十人以上。
毎週土日ともなればフル稼働でそれぞれ各地へ撮影に行くカメラマンは、
みな熱意溢れるカメラマンで、だからこそアクティブに撮影し、会場にも溶け込むことができる。

ぜひタナカさんにお願いしたいと、新郎新婦に引っ張りだこのようになっています。


そしてブライダル事業が中心にありながら、田中さんの発想、行動力、展開力、
3つ目のキーワード、展開力がいよいよ本領発揮となっていく。
川越の隣、鶴ヶ島の街を盛り上げようと町おこしとして開催されている

優勝賞金100万円のお笑いイベント「G-1グランプリinつるがしま」は、
実行委員長との繋がりから田中さんも関わっていて、

ステージのシナリオを書き、オリジナルTシャツのデザインなどを行っています。


さらにこの時期には、今会社にとって大事な事業として育てていきたいと話す

ダンボール迷路「だんだん君」が始まる時期とも重なる。
今から3年ほど前にスタートした経緯も

なんとも田中さんらしい発想と行動力からだった。
ダンボール迷路とはその名の通り、ダンボールで迷路を作って子どもたちに楽しんでもらう遊びで、

全国どこへでも出張し、設置・運営までしています。

(保育園の夏祭りイベントに出張)



(大学の学園祭に出張)

「ダンボール迷路だんだん君公式サイト http://www.dandankun.com/

常に新しい楽しいことを考えている田中さんならではの始まりで、

東武東上線若葉駅前にあるショッピングモール「ワカバウォーク」、

2012年、田中さんがワカバウォークに何気なく訪れた時のことでした。

ふと、開放的な広場が目に入り。。。あ!とピンと閃くものがあった。


「ここで何かできるんじゃないか」


思い立ったらすぐ行動、ワカバウォークの担当者と会い、

「ここで楽しいことできると思います」と熱心に語り、

ステージショー、キャラクターショーなど数多くのアイディアを出した一つにダンボール迷路があり、

ワカバウォーク側がぜひこれを広場で開催して欲しいと

思いがけないほどトントン拍子で話しが進んでいった。

田中さんのダンボール迷路は、実はここにも田中さんならではの行動力があり、

同じ埼玉県内のダンボール制作会社に作ってもらっているもの。

これも同じ県内の人達とモノづくりし、地元を盛り上げたいとの思いから。


100箱ほどのダンボールを使用した迷路をワカバウォークの広場に設置すると

数百人の子どもたちが集まって大盛況。

手応えを掴んだ田中さんは、

ダンボール迷路のオリジナルキャラクターである「だんだん君」を制作し、

公式サイトを作り、動画も制作し展開を広げていった。

さらにはだんだん君のテーマソングも作ろうと、川越で活躍しているミュージシャン

LiLoさんに楽曲制作を依頼。これは現在制作進行中です。

田中さんとLiLoさんの繋がりも触れないわけにはいかないもの。

少し時計の針を速めてLiLoさんがここに登場しましたが、

田中さんとLiLoさんの出会いはまだまだ後になってから。

テーマソング作りは、のちにLiLoさんと出会ってから進んだ話しでした。


またここで、ダンボール迷路初期の頃、3年ほど前に時計を戻します。


田中さんは当時、自身の結婚式を挙げることになり、引き出物を探して回っていたが、

いろんな式場を見てもどれも同じに見えて納得できるものがなかったという経験をしていた。

その時の経験から、

「自分たちのように引き出物に悩んでいる人はきっと多いはず」

店舗事業のアイディアが浮かび、同時にブライダルの事務所としても機能を持たせ

始まったのが「cotofog」だったのです。

2013年5月オープン、その時取材で伺い初めて田中さんと会ったのが、同じこの空間でした。

川越style


川越style


川越style

(2013年6月cotofog ゆっくり本当にいいものを探している人に

http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11548571463.html


その後、2014年春に川越駅で田中さんの引き合わせで

ミュージシャンのLiLoさんと出会ったことは以前の記事にも記しました。

一年前のあの夜、田中さんから連絡があって、

「今川越駅にいるんだけど、LiLoさんが路上LIVEやってますよ」と。

当時LiLoさんは定期的に川越駅東口で路上LIVEを行っていて、

以前からLiLoさんの歌声のファンだった田中さんは、
その日も川越駅で立ち止まり、LiLoさんがLiVEを始めたことを電話で知らせてくれたのでした。

川越駅に駆け付けてみると、東口デッキの植え込みの端に腰掛け、

ギターをしっとりと弾きながら歌い上げていたLiLoさんの姿が。そして・・・田中さんの姿も。

(2014年4月川越駅東口より)

この日がLiLoさんの歌声を聴いた初めてのことでした。

LIVEを終えた後冷めやらぬ熱気に包まれながら、

LiLoさんや田中さんと東口近くにある宙坊に場所を移して、

蕎麦をすすりながら川越のこと、音楽のこと、音楽で川越を盛り上げたい思い、など

みなで語り合った夜となりました。

今、こうして振り返ってみて、あの日のことからまだ一年足らずしか経っていないことに驚きます。


その後、cotofogが中心となって主導している「うらかわ」の広報にLiLoさんが指名されて、

テーマソングをLiLoさんが制作することになりました。

そもそも、川越のうらかわカルチャーがこれだけ街に浸透するようになったのは

田中さんの功績が大きい。

自店だけの運営だけでなく、せっかく裏道に素敵な個人店が多い川越なのだから、

みんなでまとまってPRすればいいじゃないか、

そこからマップやサイトを作って発信を始めたのが彼だった。

2014年5月にはうらかわのお店を巡る「うらかわスタンプラリー」を開催。

「うらかわスタンプラリーVol.1 http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11846363876.html

スタンプラリーの一ヶ月が終了して、閉店後のcotofogで当選者発表の電話をして無事に終わると、

その後のうらかわ店懇親会で交流を深める中にLiLoさんもやって来て、

最後に歌を披露してくれ、みんな聴き入って涙を流す人もいたほどだった。







ちなみに、うらかわの懇親会の会場となる事が多いのが、

これもまたうらかわテイストなご飯屋さん、

「tobibako http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11935719225.html 」です。


うらかわスタンプラリーは2014年10月にも開催し、

これにもたくさんの方がうらかわ巡りに参加していました。




(うらかわスタンプラリー第二弾 http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11949511765.html


そして2015年4月には、cotofogは昨年から引き続き

川越ハンドメイドの雑貨市にスタンプラリー協力店として参加。

(2015年4月川越ハンドメイドの雑貨市より http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-12021490126.html


そして同時進行として展開していたダンボール迷路のだんだん君も

当初はショッピングモールや住宅展示場などのイベント、

企業イベントなどに出張していたものでしたが、

「小さいところでももっと出張していってダンボール迷路を広めたい」

と保育園や大学の学園祭、地域のお祭りなどの依頼にも応えるようになっていった。

その様子がさきほどのだんだん君の写真です。


また、本川越駅PePeのエスカレーター降りた地下一階の広場で

だんだん君イベントを開催したのが2015年5月のことです。


(2015年5月本川越PePeだんだん君開催)

この時の経緯もまた、田中さんらしい始まりで、

子どもとよくPePeに来ていた田中さんは、

「この広場でだんだん君ができるんじゃないか」とPePeの担当者にプレゼン、

見事にイベント開催に繋げていくという行動があった。

つい最近は、車にダンボールを積んで川越から滋賀県のお祭りまで出張したのだという。

これからも北海道~沖縄まで、全国どこへでも伺いますと、とにかくやる気満々!


20代という10年間を、他の人の何倍も濃密な体験に、いろんな世界を見て、

その稀有な人生の話しを聞かせて欲しいという依頼も多くなっている。

母校の川越東高校の先生に請われて生徒の前で話した講演では、
タイトルを「バナナを食べたかったら食べなさい」とし、
自分の中でふとした時にバナナを食べたいと思ったら、

『買いに行くのが面倒だな』なんて考えずに、食べたかったら食べなという話しをし、
「直感」を信じ、発想を行動に移す大切さを後輩に語りました。

また、大学の就職部の先生から
ビジネスクリエイターとしての講演会を頼まれたりもしている。

いろんな仕事を立ち上げて進行させる田中さんのような生き方は一見すると楽しそうで、

あんな風に生きてみたいと思わせるようなところがある。

だが、0から1を生み出すということは並大抵のエネルギーではできないことで、

新しいことを考え口にすることは、相応の責任を伴うものでもある。


「やっぱり言いだしっぺになったら責任も負わなくちゃならない。

いろんな仕事をしていても、

物作りの先には人に喜んでもらうことを念頭に置かなければならないんですよ。

自営業というのは、自分の思うように仕事ができるので不満がない、

しかし明日どうなるか分からないという不安がある。

会社勤めをしていたら不安はないけれど不満はあるかもしれない。

どちらを選ぶかといったら自分は、

不安なら自分自身の力でなんとかなると思うから自営業を選んだ」

発想と行動力、そして展開力、というキーワードから田中博之さんという人物を掘り下げてきましたが、

いよいよこのお話しも結ぶ時がやって来たようです。

それでは。

田中さんが、カメラを持ちながら披露宴が終わった後の新郎新婦にインタビューしているように、

最後にここでも彼にカメラを向けて問うてみたいと思います。


「では、最後にお伺いします、10年後のご自分にメッセージをお願いします」

まだまだこれからも楽しいことはいろいろやりたいと思っているし、

まだスタート地点にも立っていない、と前置きをしながら、


『10年後も自分らしくいられていますか??

やりたいと思ったことを形にしてますか??

やり続けていますか??

面白いことをやっていますか??

常に挑戦していますか??

安定志向に走っていませんか??

人の目を気にし過ぎて無難な人生歩んでいませんか??

今以上にクリエイティブな活動やっていますか??

人生楽しいって思ってますか??』


これからも田中さんの活動は広がっていく。

10年後、一体どんなことをしているでしょう。

10年後の彼の話しも聞いてみたいと思います。


☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*


慌しい日々を送りながらも、私生活を大事にし、

子どもとの朝の散歩はかけがえのないの時間でもある。

子どもとの時間で英気を養ったらまた、あの激動の仕事に戻っていく。


多方面に疾走しながら、でも自分を自分たらしめているブライダルの仕事は大事にし、

新郎新婦が打ち合わせにブライダルサロンにやって来た際には、親身に話しを聞いている。

その時はcotofogはブライダルサロンとして新郎新婦の打ち合わせの場所にもなります。


(cotofogで新郎新婦と打ち合わせを重ねてきました)

一組の新郎新婦に寄り添い、打ち合わせを重ね、

無事に結婚式を迎えた時の田中さんのコメントが、

『当店まで何度も足を運んで頂いていた新郎新婦さん
ついに本日結婚式!
朝から二次会終了まで、
ミッチリ密着撮影をしてきましたよ。。
何度もお打ち合わせを重ねてきた分、いろいろ思い出して、感動しちゃいましたよ。。。
結婚式ってイイものですね』


彼は今日も人を笑顔にするため、各地を駆け回っている。

「川越人物ストーリー」株式会社タナカ 田中博之さんでした。