浮島神社を出た一行は、喜多院にある松平大和守家廟所を参拝し、
川越藩主松平斉典公の墓前に、
これから出陣する旨を報告し無事行列が終わるよう見守って下さるようお願いした。
それから仙波東照宮へ移動して、行列の中の限られた者だけが階段を上がり、
家康公ゆかりの仙波東照宮を前にして、現代の家康公も少々緊張した面持ちでした。
儀式を済ませた一行は、静かに歩を進め、いよいよ本川越駅へと到着しようとしていました。
これから始まる。。。駅周辺の建物が遠くに見えてくると、一行の表情はさらに引き締まり、
目付き、姿勢がまるで別人のように変わっていった。気持ちがどんどん没入していき、
江戸時代の空気を漂わせながら、一歩進むごとに濃厚さを増し、
川越にとって大事な行事を始める決意をみなぎらせていました。
2015年7月26日(日)、川越百万灯夏まつり最終日。
恒例となっている川越藩火縄銃鉄砲隊演武は、
川越では3月の小江戸川越春まつり以来の登場となりました。
行列はここ本川越駅で演武を行って出発し、真っ直ぐ北に進みながら各所で演武を披露し
一番街の川越まつり会館まで行くという行程。
お祭りに来場された方にとっては本川越駅がスタートとして見ていた行列も、
実はその前に喜多院と仙波東照宮を参拝していたことは特に記しておきたいこと。
川越百万灯夏まつりは、その昔
川越藩主松平斉典の生前の功徳を称え、七夕の日に軒先に提灯を下げていたという話しを、
現代に復活させ、現代的に解釈して始まったのが始まりといわれています。
なので、川越藩の鉄砲隊が主君をお参りするという意味だけでなく、本質を大事にするためにも、この日に斉典公の墓をお参りするのは川越人にとって自然なことでもあります。
事実、墓前には花々や酒が多く供えられていました。
加えて今年は川越にとっても特別な節目の年であり、
例年以上に鉄砲隊演武も力が入っていました。
春まつりは全員甲冑に身を包み、男だけのまさに行軍パレードという様相でしたが、
(春まつりでは川越城を参拝してから市街地に向かいました)
夏まつりは女性も含め華やかな着物を着て行列するという大名行列で、
その年ごとにテーマが変わります。
昨年の川越百万灯夏まつりの行列は、
江戸時代に溜池山王にあった川越藩の上屋敷から江戸城へ将軍謁見の行列を再現したものでした。
(2014年7月川越百万灯夏まつりより。着物姿が特徴的な夏の行列)
装いの違いを見てください。
鉄砲隊の演武自体は春も夏も変わりませんが、また、
やはり演武が最も注文される部分でありつつも、この行列の変化は見て欲しいところです。
鉄砲隊の寺田会長も本物を再現したいと、行列には特に情熱を注いでいます。
鉄砲隊演武は日頃から練習を積んだ者が行っていますが、行列は市民参加を受け入れていて、
市民一体となって全体を作り上げているものといえます。
行列の中には、お馴染みとなった川越のミュージシャン、TAKE COLORSのケンヤさん。
(ケンヤ ナンツカ降臨祭LIVEin案山子より http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11994645824.html )
他にも、カゴ&帽子と雑貨のお店「KIKONO」の旦那さん。
(KIKONO http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-12011070379.html )
さらに若手ミュージシャン、川越商業経営研究所、川越市青少年相談員、大学生、
また、寺田会長も関わっている茶あそび彩茶会で繋がった人など初参加も多く
集まったのは総勢50人。
(2015年6月14日「第五回茶あそび彩茶会」では、
陽気づくめ川越教会にて甲冑茶席でもてなす寺田会長)
そして、今年の行列のテーマは「徳川家康公の鷹狩り行列」。
今年は徳川家康公没後400年目という節目の年を迎え、川越で長く鉄砲隊演武が続けられている中でも鉄砲隊史上初、徳川家康の鷹狩り行列を再現したものとなりました。
なので行列の中心にいる今回の主役は川越藩主ではなく、徳川家康です。
川越の徳川家との繋がりは、家康の次男の結城秀康の流れに川越藩主、松平大和守家があり、喜多院には松平大和守家五代のお墓が現存します。
だから鉄砲隊ののぼり旗には徳川家の三つ葉葵紋が刻印されているのです。
大和守家は川越城主の中でも最も格が高く、また、最も長く続いた家で100年続きました。
幕末にペリー来航時にお台場を守ったのも大和守で、
よく見るペリー来航の錦絵に描かれている葵紋の旗が、まさに松平大和守家のものです。
今年は家康の没後400年目ということで、全国の家康ゆかりの地では
イベントが多数開催されていますが、
ここ川越の最大の400年祭はこの行列になりそうです。
次は100年後、、、と考えたら、
川越で家康の鷹狩り行列を再現するのはこれが最初で最後になるかもしれません。
家康が亡くなったのは、1616年4月17日。
そして、家康が川越に鷹狩りに来たのは、亡くなるわずか半年ほど前のことで、1615年11月から12月といわれています。慎重の上にも慎重を期す家康が寝泊まりしていたのはもちろん川越城内です。
鷹狩りというのは、狩場で鷹を放し、飛び立った鷹は獲物を見つけ出すと鳴き声や羽ばたきで場所を知らせる、それを目印に駆けつけて弓で獲物を射るというもの。
鷹狩りの場所は記録に残さなかった家康ですが、おそらく今の落合橋(当時は防衛上橋は架かっていません)を渡った辺りで鷹を離し、シカやイノシン、ウサギなどを捕っていただろうとのこと。
家康の鷹狩りに同行したのは江戸から引き連れた300人に加え、川越藩も300人ほど警護が出て600人規模だったと言われています。
当時の川越藩主は二代目酒井忠利。
(本来の鉄砲隊の行列では川越藩主が主役ですが、今回は酒井忠利は家康のお付きとして参加します)
捕った獲物はすぐさま連れてきた料理人にその場で調理させ、同行させたお坊さんにお茶を点てさせて、陣幕を張り、草原の上で豪勢で盛大な野点を楽しんでいた。鷹狩りは当時大名にとって格式あるもので、最大の娯楽でありスポーツでもありました。
ちなみに、家康が川越に来た同年1615年は、大坂夏の陣があったばかりで家康も出陣しています。
最晩年といいつつ夏の陣終結から数ヶ月後に駿府城から江戸へ来て、川越に鷹狩りに遊びに来ているという精力ぶりに驚かされます。
川越街道の道中、夏の陣の激戦の記憶が頭にこびりついていたか、はたまた、鷹狩りの期待に胸躍らせていたのか。
初雁城(川越城)では、シベリアから伊佐沼へ飛来してきた雁を眺めて目を細めていたかもしれません。
鷹狩り行列では、本物を再現するために当時の陣容、当時の服装で、さらに刀の鞘は熊の毛(本物)で覆うなどディテールにこだわっています。毛で覆うのは狩りの最中に鞘を傷付けないためでした。なぜ熊かというと、熊は自然界の頂点の生物として考えられていて、
戦場で大将の位置を周りに知らせる「馬印」にも、熊の毛が大量に使われています。
鷹狩りの装いは、川越の人にとっては実は普段から馴染みあるものだと思います。
現川越市役所前にある太田道灌像を目にしたことはあるでしょうか。
あの装いがまさに鷹狩りで、太田道灌像を建造する際に鷹狩りの装いをさせたことに、川越と鷹狩りの根深さが伝わってきます。
行列の真ん中にいるのが今回の主役。
徳川家康役は川越商工会議所の方、
家康の家来の堀田正信は小江戸川越観光協会副会長、
川越藩主の酒井忠利は川越市教育長、
それに弓持や鷹匠と行列は続きます。
鷹狩りで鷹を放すのは5、6羽ほど。
つまり、上記のような身分の高い者しかできなかったのです。
今回の鷹狩り行列で使用するタカとオオワシは、
発泡スチロールアートでお馴染みのヤジマキミオさんに特別に制作してもらったもの。
巨大アートも迫力ありますが、このような小さいサイズの精緻な作品になると、
ヤジマさんの高い技術力がよく分かります。
全てにおいて当時の川越で行われた 家康の鷹狩り行列の様子を再現しているので、
ぜひ川越で最初で最後になるであろう行列を多くの方に見てもらいたいと願っていました。
ちなみに鉄砲隊の寺田会長は今年、家康公の命日である4月17日に、川越市民会館大ホールにて「川越能」を主催していました。
400年祭に並々ならぬ熱意を注いでいた会長の、総決算ともいえるものがこの鷹狩り行列でありました。
川越の一番街は古い町並みとして知られていますが、そこにあるのは明治時代の建物。
蔵造りの建物が川越人のアイデンティティーになっていますが、
いやしかし、川越にはもっと古くからの歴史があり、
特に江戸時代を振り返らないと川越の本当の価値が分からない。
江戸時代の川越をフィーチャーし、川越藩の鉄砲隊演武を続けてきた一同。
以前と比べたらだんだんと街の意識も変わってきたように感じます。
本川越駅に着いた行列は、演武する場の邪気を払う砲術、礼射演武を行う。寺田会長が
「まず始めにこの場の邪気を祓い、川越百万灯夏まつりの盛況とこの場に参集せし方々のご多幸を合わせ祈り礼射の儀を行う。礼射」
と口上を述べ礼射演武が行われることにより、家康公の鷹狩り行列が始まりました。
本川越駅を出発した一行は、ゆっくりと北上を始める。
演武の場所と時間の予定は以下のようになっていました。
15:40 本川越駅交差点
16:00 連雀町交差点
16:15 中央通り
16:50 一番街 埼玉りそな銀行前
17:10 一番街 川越まつり会館前
春まつりの時は、暑くて大変だったと言ってもまだ気温は20度くらいで、
この夏まつりは35度以上になっている中、誰も表情には出しませんが、この厚着は本当に大変でした。
ただ、鷹狩りというのは本来は真冬に行うものなので実際にはもっと厚着だったのです。
若干軽装となっていても、よく見てもらうと分かったかと思いますが、
厚着の上に動物の毛で作ったまるでダウンジャケットのような防寒具を身に付けている者もいました。
みんな根性と忍耐だけで乗り切りました。
なんとか川越にとって大事な400年祭を無事に終わらせたい、
「川越という街の先祖供養」のようなこの行列を成功させようと必死でした。
火縄銃の撃ち方は、三段撃ち(1番隊→2番隊→3番隊と撃つ砲術)、
逆三段(3番隊→2番隊→1番隊と撃つ砲術)、
つるべ(1番隊銃士の鉄砲組頭から順に1名ずつ撃つ砲術)
と趣向を凝らして魅せています。
現代の火縄銃は空砲ではありますが火薬を詰めて引き金を引いている。
仮に銃口に鉛の弾を込めたら、もう戦国の世そのものです。
藩の石高により鉄砲の所持数が決められていた江戸時代は、
川越藩は1000丁ほどは所持・管理していただろうとのこと。
江戸の初期の頃はまだ戦国時代のムードが残り騒乱としていた。
お城が残る地域で鉄砲隊が復元される例は多く、
彦根城、名古屋城、熊本城、静岡城、岡山城などでも鉄砲隊演武は行われています。
中でも20年前から続けている川越は最古参。
他の地域の鉄砲隊演武は、一ヵ所、その場で留まって撃つのがほとんどですが、
街の中を歩きながら五ヵ所で撃つなんていう快挙は、全国で川越だけです。
そして、鉄砲隊が実は位はそんなに高くないことをご存知でしょうか。
春まつりでも夏まつりでも鉄砲隊演武では火縄銃の射撃が一番の華で見所ですが、
行列で歩く時は最後尾につき、演武を披露する場所で止まると、
先頭に歩み出て射撃を行うという形をとります。
演武が終われば鉄砲隊はその場に佇み、
行列を先に行かせてから自分たちはその後ろについてまた歩き始める。
これはどのヵ所でも同じ手順を踏んでいます。
こうしたことからも、演武だけでなく行列もじっくり見てもらいたいという思いがありました。
幸いにも、最近の火縄銃鉄砲隊演武は沿道で本当にたくさんの方が見ていることを感じます。
以前であれば、歩いている最中に途中沿道の人が途切れることもあったのですが、
最近の行列は最初から最後まで人が途切れません。
表情を変えず真っ直ぐ前だけを見て歩いていても、
実は周囲の様子は意外にも分かり、沿道の熱気は伝わってきます。
鉄砲隊の演武が始まろうとするとそちらに人がどどっと移動していきますが、
演武が終了して行列が歩んでいく時のたくさんの視線が注がれるところから、
行列を見ようとしてくれているのを感じます。
主役は家康公で、最も注目される存在ですが、
でも行列は上から下まで全ての身分が揃って初めて、本物の行列を再現できるんです。
下の身分の役であっても、役を全うしようと歩いていた人がいることを
ちらっと覚えておいて貰えると嬉しいです。
川越百万灯夏まつりの川越藩火縄銃鉄砲隊演武、
今年は最初で最後であろう徳川家康の鷹狩り行列を無事に終わらせることができました。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
最後に。恒例ともなっている?行列のメイキングです。
15時40分から本川越駅から始まった演武も、
浮島神社に集合したのは11時。そこからずっと夕方まで着物を着ていたんです。
感情を表に出さず役になりきって歩いていた人たちも、
みんな川越愛溢れる気さくな人たち。
そして、今回の鷹狩り行列の意味を噛み締めていつも以上に気合いが入っていました。
行列ではじっくり見られなかったかもしれませんが、鷹狩りの装いはどういうものだったのか、ぜひ写真で確かめてください。これはもう川越では見られない永久保存版の装いです。
川越藩火縄銃鉄砲隊演武、
川越では次回は2016年3月、小江戸川越春まつりのオープニングイベントに登場します。
どうぞお楽しみに。