【妄想】演技と彼女② | 恋心、お借りします

恋心、お借りします

(自称)水原千鶴を応援する会の会長。
頑張りますので、イイね下さい。

演技と彼女②/甲楽わん

 

 

演技と彼女①

演技と彼女③

演技と彼女④

演技と彼女⑤

 

 

演技と彼女②/甲楽わん

 

「付き合わせて悪いわね」

水原が俺の前を歩きながら、そう答える。

今日の水原は、大きめのフリルが付いたブラウスにジーンズ。レンカノの時のガーリーさとは違うのだが、品のある美女のオーラが半端ない。

病院のエントランスを抜け、受付で手続きを済ませると、俺たちは階段を上った。

水原が左右に腰を揺らしながら、階段を上っていく。タイトなジーンズでお尻のシルエットがはっきり見える。

…ぐっ。エロい。病院に来て何考えてんだよ、俺は。落ち着け。

「えっと、301号室だっけ?」

「そうね」

和ばーちゃんも入院していた病院だ。何度か来たことがあるから、病棟のおおよその構造は理解している。

F3と書かれた踊り場から、通りを抜けていくと、『一ノ瀬小百合』と書かれた表札を見つけた。

小百合さんの見舞いに来るのは、久しぶりだ。

何度か俺に会わせて欲しいと水原に強請って来たらしい。先月倒れた後、小百合さんの様態は決して良くない。水原としても小百合さんの願いはできるだけ聞いてあげたいんだろう。

俺にできる事なら何でもやってあげたい。

水原がノックをして扉を開けると、凛とした澄んだ声が響いた。

「待ってたわっ☆和也君」

ベッドに座る小百合さんは、俺を見つけるとぱっちりと瞳を開いて両手を上げた。毎回ながらめっちゃ歓迎されてるな、俺。

「さあっ、さあっ、ふたりとも座って。ゆっくりして行ってちょうだい」

俺は小百合さんに呼ばれて腕を掴まれると、そのまま引っ張られ半ば無理やりベッドに座らされる。そういや、小百合さん俺にはこのテンションだった。小百合さんは自分の腕を俺の腕に絡めて、にっこり笑う。

「和也君、夏休みはどう?楽しめてる?」

「ああ、まぁ…」

「そうだ。2人で映画撮るそうじゃないの!うふふ。私も楽しみだわ☆」

「あ、はい。すいません、いろいろ協力してもらって」

「いいのよ、全然。私のことなら好きなように書いてくれて。むしろ和也君の力になれて、すっごく嬉しいわっ」

小百合さんは小さな子供みたいに目をキラキラさせている。孫の彼氏大好きの圧がすごい。

「あ、ありがとうございます。すげぇ助かりました」

そのハイテンションに戸惑いつつも、俺は小百合さんに調子を合わせる。喜んでくれるなら、邪険にする理由もない。

花瓶の花を換えていた水原がこちらを振り向く。俺と小百合さんのやり取りを聞いて、あきれ顔だ。

「おばあちゃん、あんまり和也さんに迷惑かけないでね。最近忙しくて疲れてるみたいだから」

「あら、そう…?」

水原がそう言うと、小百合さんは残念そうな顔をして、俺の腕を引く力を緩めた。

「そうよ。企画立ち上げただけで、まだ準備してるところなんだからっ。結構忙しいのよ」

「ふふふ。なら、ちづるが何か作ってあげるといいわー。そうだっ、ちづるの得意なオムライスなんかどうかしらっ」

!?俺と水原は顔を見合わせた。ちょっと前にオムライスを作ってもらったばかりだ。

「そ、そ、それは一度作ってもらいました。すげー美味かったです」

「そーお!?ちづる、良かったじゃないっ」

俺がふたりの会話に感想を投げると、小百合さんが歓声を上げた。

それを聞いた水原は、俺の方を振り向いて納得がいかない顔をしている。そのままジト目で睨んできた。水原、分かってるって、深い意味はないって。勘違いしたりしてねーから。

俺が申し訳ない顔をして『変なこと言って、ごめん』と伝えると、水原は小百合さんの方へ向き直った。

「そうね。なら、またつくるわ。体調崩されたら、困るし」

「ちづる、素直じゃないのね」

体調壊されたら困るなんてわざわざ理屈をつけたせいか、小百合さんは眉をひそめて不満そうな顔だ。

まぁ、本物の恋人だと思ってる小百合さんからしたら、水原が俺に手料理つくりたいって思ってるように見えるんだろうな。

「…じゃあ、私、受け付けに用があるから」

水原はそう言って話を終わらせると、踵を返して病室の外に出て行った。

病室に小百合さんと2人きりになったのだが、何を話せばイイんだろうか。共通の話題なら、水原のことか、和ばーちゃんのことだろうか。

考えていると小百合さんが話を始めた。

「ちづる出て行ったわね。和也君、ちょっといいかしら」

「…?」

確かに、今日わざわざ俺を呼んだわけだし、何か用があったのかもしれない。でも、改まって何だろう。

「映画のこと…心から感謝するわ」

小百合さんは、俺に深く頭を下げた。

突然のことに驚く。

ココまで感謝されてしまうと、逆に戸惑う。まだ完成したわけじゃねーし、むしろ逆にプレッシャーになるって言うか、俺はそんな大したことしてないつーか。

「え、映画のことは俺がやりたいって始めたことで。そんな風にしてもらわなくても」

「うんん。祖母として、ちゃんとお礼を言っておきたかったの。ありがとう、和也君。ふふっ。やっぱり和也君はビッグな男ね☆女の子の夢のために映画作っちゃうなんて、映画の主人公みたいだわ」

ニコニコと小百合さんは笑う。

コレ、映画できなかったじゃ、マジで済まされねぇな。あはは。何て答えたらいいんだろ。

その後小百合さんは、身体を返して、何やら枕元を探り始めた。こちらに向き直る。

「それと、和也君、ひとつお願い良いかしら?」

「…はい」

「これ、ちづるに渡して欲しいの」

何だろう?枕元から取り出した何かは、かなり分厚い冊子だった。劣化して少し黄ばんでいる。表紙には、タイトルらしき何かが印刷されている。

「…『せんばづる』、ですか?」

「あら?ちづるから聞いてないかしら?」

「あ、はい。全く」

「そう。じゃ、少しお話しなくちゃね。ちづるが生まれる前のこと…わたしも映画に出てたのよ」

「…え?」

小百合さんも女優だったということだろう。確かに、言われてみたら納得してしまう。ぱちりと大きな瞳と端正な顔立ちは、美しく可愛げがあり、それでいて声も明るくて良く通る。少し浮世離れしたと言っていいくらい、華があるおばあちゃんなのだ。

「ふふふ。ちづるが中学生のときに、その映画を見てね。私も、なんとなくちづるは女優に興味があるんだろうとは気づいてはいたんだけれど、それから急に『女優になりたい』って口にするようになってね。きっかけになったのが、その『せんばづる』という映画なの」

「千鶴さんが、ですか…?」

「そうよ。あの子の名前も『せんばづる』から取ったのよ」

俺は視線を落とすと、手元にある冊子をまじまじと見つめた。

「それは、その映画の台本。和也君からちづるに渡して欲しいの」

ページをめくってみると、シーンごとに場所や時刻の指示だったり、セリフだったりが並んでいる。本格的な映画の台本なんて初めて見た。

おそらく小百合さんの文字だろう。ところどころ書き込みがされている。

「…どうして俺に?」

「ふふふ。サプライズよっ、サプライズ。その方がちづるも喜ぶでしょっ」

「分かりました。お預かりします。」

そう答えると、さっきまでニコニコと笑っていた小百合さんが、視線を落として急に真剣な顔になる。

「それに私の人生ももう長くないの…」

「え?そ、そんな…?」

「うんん…聞いてちょうだい?祖母として、孫にしてあげられることは、あまり多くない。してあげられることは、してあげたいの。ふふっ。でも、和也君が傍にいてくれるから、きっと大丈夫ねっ」

小百合さんにとってもたったひとりの家族で、大切な孫で、小さいころからずっと面倒見てきて、きっと宝物みたいなものだ。

俺は彼氏じゃない。『幸せにする』だなんて言えない。でも、

「はい。俺もずっと千鶴さんの傍にいたいと思ってます」

でも、コレが今俺の言える精一杯の気持ちだと思う。

そう言うと、小百合さんはほっとしたように目を細めた。

「ちづるのこと…どうかよろしくお願いします」

小百合さんが俺の手を掴み、また頭を下げる。強く握られたその手は、水原への思いの強さのように思えた。

「…はい」

「そう。もう安心ね…心残すことは何も…ない…わ…」

言い終わるか否か、小百合さんの手から力が抜け、その身体がゆっくり傾き始める。

え?そう思った瞬間、小百合さんの首からガクンと力が抜け、へたっとベッドに倒れ込んだ。

嘘だろ…?

恐る恐るその肩に手をかけて揺すってみる。

反応がない。

バクバクと心臓が鳴り出した。手から汗が噴き出す。

「…!?小百合さん!?小百合さん!?」

何度も身体をゆすってみるが、反応がない。

なんでこんな急に!早すぎるだろ!

俺は辺りを見回す。看護師はいない。

誰か呼ばねぇと!ナースコール。俺は枕元を探す。

つかんだ俺の手が震える。

そのとき肩越しで何かがごそごそっと動いた。

「なーんちゃって☆」

「…っ?」

「ふふふ。まだ私の演技も錆びてないわね」

小百合さんは元気に胸元で拳を握りしめる。勝利のガッツポーズ。

途端に肩の力が抜け、俺はふーと大きく息を吐き出した。まだ心臓が高鳴ってるのが分かる。マジで騙された。女優怖ぇ。

「うふふふ」

「お元気そうで、良かったです…」

すると、扉がガラッと開いた。水原だ。

「もうっ、おばあちゃん、またそうやって。私の彼氏をあんまり揶揄わないでくれる?」

不満の色を出して、病室へと入って来る。

「あら、ちづる、おかえりなさい。いいじゃやない。たまにしか会わせてもらえないんだから」

「和也さんだって忙しい時に来てくれてるんだから、我慢して」

俺を気遣って水原はそう言うんだろうけど、いつでも誘って欲しい。実質無課金レンタルだし、水原の頼みなら聞いてあげたい。小百合さんが喜んでくれるなら、顔出すくらいやぶさかではない。

「俺は、呼んでもらえたら、いつでも」

「あらっ。和也くん本当?」

水原は少し不満げだ。俺のこと気遣ってくれたのに、小百合さんの肩を持つようなことを言ってしまったからか。

しかし、水原の顔からすぐに不満の色は消えた。ため息をひとつ落とすと、

「じゃあ、映画がひと段落したら、また和也さんと一緒に来るわ」

きっと水原だって小百合さんが喜んでくれるなら嬉しいに決まってる。俺が力になれるなら嬉しい。ただ…、

ただ同時に俺の胸はちくっと傷んだ。水原との恋人関係は嘘なんだから。

水原が俺に背を向けたすきに、小百合さんが隠していた台本を枕元から取り出した。俺に近づくと耳元でささやく。

「和也君っ。台本、よろしくね☆」

「…はい」

俺は水原に気づかれないように小声で答える。見つからないように台本を自分のバッグの中に入れた。

水原は、俺たちの様子に何か感づいたのか、訝しげに見てくる。

「何?ふたりとも…」

「ふふふ。ちづるには内緒よ。和也君と私のヒミツ♡」

「何それ…」

ははは。ふふふ。俺と小百合さんは笑って誤魔化した。

 

「それじゃぁね、おばあちゃん。あんまり無理しないでね」

「あら!私はまだまだ元気よっ。ちづるこそ、身体には気を付けなさい。和也君も、身体に気を付けてね。映画楽しみにしてるわ」

「はい」

「じゃぁ、和也さん、行きましょ」

水原はそう言うと、病室を出て扉を閉めた。

俺たちは、病室を後にして廊下を歩く。

「今日は、助かったわ」

前を行く水原が、背中越しに俺に話しかける。

「これくらいなら、全然」

「……それに、ああやって言ってもらって、おばあちゃんも喜んでた」

「え?」

「あなた、おばあちゃんと話してたでしょ?」

『傍にいたいと思ってる』って俺が言ったこと、水原聞いてたのか!?

「あ、あれは、話の流れでっ!」

「分かってる」

「え?」

「たとえ『演技』でも、おばあちゃん幸せだったと思う」

「…なら、良かったけど…」

水原と俺の間では、『嘘』を隠し通すことになっている。水原が小百合さんを悲しませたくないのは分かる。けど、本当にコレでいいのか、俺は迷ったままだ。

「…でも、水原は、それでいいのか」

「またその話?結論は出たじゃない。それでいい」

はっきりそう言われると、俺は何も言えなくなってしまった。

俺は小百合さんから預かっていた台本をカバンから取り出すと、水原の前に差し出した。

「水原、コレ。小百合ばーちゃんから」

「え?」

水原は俺の手元に目を向けると、立ち止まった。

「小百合ばーちゃんから、渡すように頼まれた。サプライズだってさ」

「…これ」

水原は表紙に『せんばづる』と書かれているの見つけると、まじまじとそれを見つめた。台本を開くと、ぱらぱらとページをめくり始める。

しばらくの間、水原は何かに取りつかれたように台本に釘付けになっていた。

本を閉じると、目を細めて視線を下げる。なんだか寂しそうに見える。

「ごめん。行きましょ」

そう言ってまた水原は前を歩きだした。

水原の両腕には台本が抱えられている。

『せんばづる』は、きっと水原にとっても大切な映画だ。小百合さんからのサプライズは、きっと嬉しい。でも、こんなタイミングで渡されたら、まるで置き土産みたいで、迫り来る小百合さんの『死』を感じざるを得ないんだろう。

 

病院の入り口を出た途端、真夏の蒸し暑い風が俺の肌に触れる。額にじんわりと汗が噴き出してくる。

曇天の空が広がり、湿気を含んだ空気が重い。

俺と水原は、駅から病院までの元来た道を歩く。

駅に向かいながら、俺の頭の中で『それでいい』と言った水原が何度もリフレインする。本当にこのままでいいんだろうか。

俺が見栄張って始めた嘘のせいで、ずっと水原も小百合さんも巻き込み続けている。俺だって、ばーちゃんに本当の事を言うのは辛い。だから水原が小百合さんを悲しませたくないという気持ちはとても分かる。

でも、本当は俺と水原は恋人じゃない。客とレンカノだ。

お互いのばーちゃんに嘘をついて、ぬか喜びさせているだけだ。ばーちゃんたちが夢見ているような、俺と水原の幸せな未来なんてない。

大切な人の最期のときまで嘘をつき続けて、それで水原に罪悪感は残らないのか。一生その十字架を背負って生きていくことにはならないのか。

だったら早いうちに真実を打ち明けた方がマシじゃないのか。

じめじめと暑い7月の空の下、そんなことをぐるぐると考えていた。

すると、横を歩く水原が俺に話しかけて来た。

「田臥先輩、いい人そうね」

午前中、俺と水原は映研の田臥先輩に会っていた。『顔合わせ』とかいうやつだ。

「ははっ。そうだな。タイミングが良かったとはいえ、俺みたいな良く分からない奴と映画撮ってくれるって言うんだから」

「…」

水原がチラチラっとこちらの様子を伺って来る。何?俺なんか変なこと言った?

「そ、そうねっ。私たちもちゃんとしなくちゃ」

水原が顔を背けるのでその表情は読み取れない。何?何なの水原?

「ど、どうかした?」

「別にっ」

水原はそう言うのだが…いったい何だったのか。俺は不思議に思いながら、会話を繋ぐ。

「あー、そうだ。『群青の星座』、台本が書きあがったら、『本読み』?したいって」

「そう。分かったわ。うちの映研、しっかりしてるわね」

「確かに、うちの映研、有名みたいだしっ」

「そうね。本読みやらせてもらえるんだし」

『本読み』が何なのか良く分からない俺には、水原の言っていることが良く分からない。

「…?本読みって、何するんだ?」

「うーん。大きいところで言えば映画のテーマの確認とか?役者さんたちが台本を読んで、監督さんとイメージのすり合わせをするって感じだと思う」

「へー」

分かったような、分からないような。

「舞台は役者のもの。でも、映画は監督のものなのよ」

「監督のもの…」

「そっ。映画の場合は、一つ一つのカットをどう撮ってどう繋いでいくかが大事なの。監督さんによっては役者の演技に細かく駄目出さない人もいる。とりあえず撮影進めちゃえーみたいな?だから、ちゃんと『本読み』させてもらえるのは、役者としてはありがたいことなのよ」

「そ、そうなんだ。なるほどね」

田臥先輩と水原で打合せするってことでいいのかな?俺は良く分からいまま、わかったフリをしてしまった。

「私も初めての事だし。助かるわ」

水原は、映画とか演技の事になると、ものすごく饒舌になる。普段はお喋りして騒ぎたいタイプには見えないのだが、これに限ってはまるで新し遊びを見つけた子供みたいに次から次に話を続ける。

「少し不安なこともあるし」

「水原でも、不安なこと、あるのか?」

「まぁね。舞台に出ることが多くて、映画の演技は経験ないからね」

確かに、水原にとってこれが初めての映画撮影。当たり前だが、舞台に出てるところは見たことはあるが、映画に出てるところは見たことがない。

「でも、演技は演技だろ?」

「それが、そうでもないのよねー」

「…?」

「うーんと…たとえば…。舞台だと、お客さんとの距離が離れてるでしょ?客さんからしたら役者の表情なんて分からないし、細かな演技をしても伝わらない。だから、声の演技が重要になるし、身体の動きも大きいのよね。でも逆に映画の場合は、役者の近くまでカメラが寄ってくれるから、細かな演技とか表情が生かせるし、もっと普段のリアルな表現が求められるの。それにカメラのフレームに収まるように演じなきゃいけないしね。一言で演技って言っても、全然違うのよ」

「すげぇな。水原って『女優』なんだな」

「まっ、駆けだしたけどねっ。映画は初めてだけど、何とかして見せる。不安もあるけど、それより楽しみかな?」

水原が振り返って白い歯を見せた。そうやって笑う水原は、どこまでも抜けた青空のように、純粋で、美しくて、輝いていた。

俺なんかには全然手の届かない世界に生きてるって感じがする。

「…映画、絶対成功させるから」

「あなた、そればっかりじゃない」

「…マジ、ごめん」

「やることはたくさんあるわよ」

「そうだなっ」

小百合さんに真実を言うべきか。それには答えがないのかもしない。でも、今俺ができることははっきりしている。水原が主演の映画を撮ることだ。

今度は俺が水原の力になる番だ。とにかく今は前に進まねーと。

そのとき俺の肩に何か生暖かいものが当たる。頭上を見上げると、夕方の曇り空からぽつぽつと雨が降って来た。

「…雨!?」

降り始めた夕立は、途端に雨脚を速め、大粒の雨が俺たちを襲う。マジで運が悪い。

すぐさま俺は肩に掛けたバッグから折りたたみ傘を取り出した。

「ごめんっ、あなた傘ある!?」

その声に振り返ると、水原が胸元に台本を抱えて丸くなっている。

俺は傘を開いて、水原の上に広げる。くっそっ、水原も台本も濡れちまう。

「ちょ、ちょっと!あなた濡れちゃうでしょ!?」

そう言って水原が傘を持った俺の腕を掴んでくる。

一緒に入れって言うのか!?水原濡らすわけにはいかないだろっ!

俺は降って来る雨音に掻き消されないように、必死に叫ぶ。

「バ、バカ!水原濡れちゃうだろ!?」

「あなたこそ、濡れちゃうじゃない!!!」

「んなこと言ったって、ひとりしか無理だろ!」

「あー、もうっ!傘、ちょうだい!あなたは、先行って!」

「わ!分かった!」

俺は屈んで丸くなった水原に傘を握らせ、その場から駆け出した。視界を遮る雨を振り払い、夕立をしのげそうな場所を探す。

水溜まりをはじきながらしばらく進むと、適当な建物が見えた。

入り口の屋根の下に駆け込む。会社のオフィスか何かだろうか。

肩で息をしながら、両手で髪に溜まった雨粒を振り落とす。

俺は上から下までビショ濡れだ。

「くそっ。水原大丈夫か?」

今日の天気予報は晴れで、こんな大雨予想してなかった。ゲリラ豪雨ってやつか。

しばらく雨が上がるのを待つしかなさそうだ。

雨で霞んだ景色の向こうに、小さく水原の姿が見える。傘は渡したものの、この大雨じゃ結構濡れてしまったかもしれない。

降りしきる雨の中、台本を抱えた水原がこちらに近づいて来た。少しずつその姿が大きくなる。

到着すると、屋根の下に入って来た。傘を閉じる。

「ごめん」

「いいって。濡れなかった?」

「結構濡れちゃったけど、大丈夫」

「そっか、良かった」

「あなたビショ濡れじゃない…」

「へいき、へいきっ」

「悪かったわね。傘…はい」

水原が濡れて顔に絡みついた髪の毛を払いながら、俺に傘を差しだす。

受け取ると、俺はふーと息をついた。水原が無事でよかった。

夕立はゴーゴーと激しく音を立てる。時よりゴロゴロと雷鳴が混じって凄みを増す。

コレは本格的だな。マジ運が悪い。

視線の端で、水原は何やらバッグの中を探り始め、俺に背中を向ける。

その瞬間、俺の心臓はドクッと跳ね上がった!視線が一点に引き寄せられる。

「…っ」

ブラジャーが透けてる!?

雨で濡れたせいで、水原の背中でブラが透けてるのだ!?淡いラベンダーのブラウスの上に、ブラのシルエットがはっきり浮かび上がっている。

濡れた背中から水が胸元まで伝わっていて、膨らんだ胸の形を映し出すようにブラジャーが透けて見える。胸を包み込むようにあしらわれたレース模様。色はピンクか紫か!?

こ、これは、見てはいけないものでは!?

俺は水原に背を向けた。

俺の背中の先には、雨に濡れてブラジャーがスケスケの水原。水着のエロさとはまた違う。見てはいけないものが、チラチラと見えるチラリズム。

それに加え濡れているというのがシンプルにエロい。

見せることが前提の水着は言わば作られた人工のエロス。下着透けは天然ものだ。生身の水原が透けて見えているんだ。

ぐおおお。何語ってんだ俺は!?

ぶっちゃけ気になる。めっちゃ気になる。ってか、チラチラ見ちゃってるしっ。

でも、見てたなんて知られたら、変態扱い決定じゃねーか!?

 

「和也さん、私、雨に濡れちゃって」

「大変だったね。じゃ、部屋にあがってくれ」

「嬉しいわ。…私ずっとあなたのこと好きだったの…」

「え?」

「コレ…あなたのために着けて来たの。今夜は帰りたくない…」

妄想の中の水原が、俺の腕を掴むとそのまま胸元へと手繰り寄せる。触れたブラから生温かい体温が伝わってくる…。

「抱いて…」

「水原ああああ!」

「チュッ♡チュッ♡チュッ♡」

「アーン♡」

 

ぐおおおおおおおお。なに妄想してるんだよっ。

くそっ、もうタっちまってるしっ!? こんなことなら昼間のうちに一発ヌいておきゃよかった。

俺は自分の股間を両手で抑える。見られたら処刑だ!確実に俺が死ぬ。

隣の水原が、ブラジャーの透けた胸元をこちら向ける。

「…っ」

「台本、ビニル袋に入れておけば、だいぶマシね」

「そ、そうだなっ」

「え?何?」

ヤバいっ。急に背を向け出したら怪しむに決まってる。でも、なんて答えたらイイんだコレ!?

「どうしたの?」

「…いや、別に何も」

「そう?」

「うん、全然!」

問いかけてくる水原。

くーーーーーっ!もうコレ、ブラ透けてるコト言わねぇと埒が明かねぇ。でも、ブラ透けてるよなんて言ったら、俺が見たってことバレちまうしっ。じろじろ見てたなんて思われたら、最悪じゃねーか。やっぱ水原が自分で気づくの待った方がいいのか!?

俺は肩越から、恐る恐る水原の様子を伺う。

水原は訝しげにこちらの様子を伺った後、膨らんだ胸元に視線を落とすと、

「…な!?」

「…っ」

気づいた瞬間、俺も水原も互いに背を向けた。

「…そういうこと…?」

「…あ、ああ」

「あーもうっ、最悪。こっち見ないでっ」

気まずい。とても気まずい。

背中越しには、ブラジャーを露わにした水原。意識しすぎて、まともに会話できる気がしねえ。頼むから嫌われてませんように。

雨が上がるのを待ちながら、お互い長い沈黙が続いた。

雷鳴も幾分遠くなった気がする。激しい夕立も収まって来ただろうか。時より雨の中を、傘を差した人たちが通り過ぎていく。

気まずい空気を打ち破ったのは、水原の方だった。

「台本…助かったわ」

「え?」

…まぁ、そりゃそうだ。女優の夢を持つきっかけで、小百合さんが持っていたものなら、水原にとって大切なものに決まってる。

「…そっか。良かった。『せんばづる』だよな。女優目指したきっかけだって…」

「えぇ?あなた知ってたの?」

「ああ、それ小百合ばーちゃんに渡されたときに、聞いた」

「もうっ。おばあちゃんったら…」

「小百合ばーちゃん、あんまり水原にしてあげられることはないからって」

「…」

「だからホント、濡れなくて良かった」

「うん…あ…がと」

「え?」

「ありがとって言ったのっ」

水原は早口にそう言った。

こんなことで、いちいち俺の胸は高鳴る。『せんばづる』の台本が濡れなくてホント良かった。

「水原の大切なもん守れるんなら、雨くらい代わりに打たれてやるさっ」

「…そっ、そう」

その後、俺たちは背を向けたまま無言だった。

そのうちに雨脚は弱まり、しとしととした雨に変わり始めた。しばらくすると、また夏の蝉が鳴き始めるのが分かった。

屋根の外には、夕立が来る前の平穏な景色が広がっている。俺は外に出て空を見上げた。どきどき小さな雨粒が降って来るが、既に夕立は過ぎ去ったようだ。

「雨、上がったな」

「そうみたいね」

その声に振り返ると、俺に気づいた水原が台本で胸元を隠す。キーッと俺を睨んでくる。マズった!

「こっち見ないでって言ったでしょ!」

「ご、ごめんっ」

今ので嫌われちまったかも…。

もうコレどうにもなんねーな。水原をこのまま電車に乗せるわけにもいかねーし。俺だけでもいったん帰って、タオルとか上着とか持って来るしか…。

「じゃ、じゃぁ俺いったん帰るわ!タオルとか上着とか、取って来るからさっ」

「え?ちょ、ちょっと!」

いけね!振り返らない。振り返らない。

「いや、だって水原そのまま電車乗せるわけには行かないだろっ?俺がいったん帰って、いろいろ持ってくるしか…」

「勝手に決めないでよ」

「え?」

「一緒に帰りましょっ」

「なっ!?」

は!?一緒に帰る!?ブラジャーがスケスケの水原と!?水原、いま自分が世の野郎どもにどう見られてるか分かってんのか!?『対男性理性破壊兵器』でしかねぇ!!!

「だって、あなた歩いてアパートまで行くつもりなんでしょ?だったら、私も歩いて帰れば済む話じゃない?」

「で、でもっ、結構距離あるし。足痛くならないか!?」

「今日はヒールそんなに高くないし。履き慣れてるから平気よ。時間は無駄にしないっ」

ぐ…っ。これ大丈夫か!?振り返ったらブラが透けた水原がいるんだぞ!

俺のアレ、全然収まる感じじゃねーしっ。アパートまではたぶん1時間以上かかるし。その間ずっとこの状態なんて…っ

これはラッキーなのか!?それともピンチなのか!?

俺たちは自宅のアパートに向かって歩き出した。水原を人目にさらすわけには行かない。少し遠回りになるが、人通りの多い大通りは避けて行く。

俺の後ろでコツコツと水原のヒールがアスファルトを叩く。

振り返れば濡れてブラジャーが露わになった水原が…。ピンク色のレースに包まれた胸元が歩くたびにゆっさゆっさと揺れている…(妄想)。ぐおおおお!想像するだけでドキドキしてくるっ。

めっちゃ気になるんだが、振り返ったら確実に嫌われる。振り返らない、振り返らないっ。自制!自制!自制!

とりあえず、会話、会話っ。自然な感じで。

「み、水原っ、明後日で今の舞台終わりだよな?」

「そうね。無事」

「今回のはどんな感じ?」

「うーん。奇麗だけど、ちょっぴり切ない感じかな」

「へー」

「それに、セリフがとっても素敵なのよねー」

「セ、セリフ?」

「そうねー。ありきたりな言葉なのに、この子にしか言えないって言うか。説得力があるって言うか」

「そうなんだ、すげーな」

「あなた、本当に分かってるの?」

「いや、…ごめん」

「明後日観に来たらわかるわよ」

「そうだなっ。すげー楽しみにしてる」

明後日の水原の舞台はすげー楽しみなんだが、俺の意識はほとんどブラが透けた水原に行っている。振り返らない、振り返らない。

「え、えっと。水原って、なんでそんなに演技に夢中になれるんだ?シンプルな疑問」

緊張して、いつもより声が上ずってしまっている気がする。俺はなんとか水原との会話を繋いでいく。

「うーん、何だろうね。…1%の真実かな」

「1%の真実?」

「そう。たとえば、響子って女の子は、作り物でしょ?」

「え?まぁ、そうだな。実際にはいないし」

「物語はね、99%が嘘なのよ。響子って女の子も、響子の友達も、恋人も、家族も、面接を受けた会社もぜーんぶウソ。でもね、最後響子が星空を見上げた瞬間、あの子の心に流れているものは『真実』だと思わない?」

「心に流れている…響子の気持ちってことか?」

「ま、そういうこと。あなただって、あるでしょ?響子みたいに自信なくしちゃうコトとか」

「確かに。響子の気持ちわかる部分多いかもしんねー」

小説『群青の星座』の主人公である響子は、短大卒業に合わせて就活をする。しかし、第一志望の面接に通らず自信を失ってしまう。挫折をきっかけに、彼女は自分の幸せや家族の愛に気づいて行く。ラストは響子が星空を見上げるシーンで終わる。響子が辛いとき、思わず母親に泣きついてしまうシーンでは、『家族』ってそう言う存在だよなって思った。

「響子が前向きになれていなかったら、きっとあの子の目には星空はあんなに美しく映らなかった。夜空を見上げる事すらしなかったかもしれない」

水原が少し声を低め、ゆくっりとした口調で、しみじみと語る。

「そっ、そーかもな。そんな気がする」

「満天の星空の中に『星座』を見つけられるか、下を向いて見逃してしまうか…それは響子の気持ち次第」

「なるほどな」

「そういう響子の想いを、表現したいっていうこと」

「ちょっと水原のこと分かったかも」

「これ以上は、あなたには難しいかもね」

「ははっ。そうだな」

水原は深イイ話をしているんだが、俺はしんみり考えられるほど余裕はない。なんせ背中越しの水原はブラが透けているのだ。

「あ?見てっ、空」

その声に空を見上げると、厚い曇の切れ間から光が差し込んでいた。幾方向にも広がるそれは、神々しく輝いていた。空から神様でも降りて来そうな雰囲気がある。

「お、おうっ。すげーな」

「天使のはしごね」

後ろを歩く水原が、声を弾ませる。レンタルしてるわけでもないのに、『彼女』やってるときっぽい。災難続きだった割に、機嫌が良さそう。

正直、景色なんかより後ろの水原の方が気になって仕方がない。相変わらずコツコツとヒールの音が鳴っている。

帰ったら、とりあえずヌくか…。

俺は背中に水原を感じながら、心の中で呟いた。

 

演技と彼女③へ続く)

 

演技と彼女①

演技と彼女③

演技と彼女④

演技と彼女⑤

 

 

【あとがき】

やっと千鶴書けました。時系列としては、その①の前のお話です。

千鶴に女優らしいことたくさん言わせたかったので、ずいぶんお喋りにしてしまいましたね。海くんには小さな子供みたいに舞台のことを喋っていたし、励ましデートで和也と映画みたときもそんな感じでしたね。なんで、キャラブレではないと信じてます。

「1%の真実」のくだりは、千鶴だったらこんな解釈してるんじゃねーかなという想像です。いや、ほとんど僕の解釈です笑。

『せんばづる』の台本は、映画製作をしているときしか使えないネタかな。

千鶴の下着はたーぷり妄想してね笑。

もともと和也の頑張る姿を描きたいと書き始めたお話ですが、結局バカな和也になってしまいましたね。でも、千鶴にはかっこよく映ってるハズ。では!