内裏塚下古墳〜千葉県匝瑳市。遥々千葉の果てで想う。 | 徒然コオロギ庵~旅する似顔絵師~

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一年の半分を旅に過ごす似顔絵師コオロギの日々の雑記。趣味の古墳巡り&地質巡り&車中泊アレコレetc徒然とだらだらと書き尽くします

夏の関東滞在中に訪れた

千葉の海沿いの古墳。

壬申の乱で敗れた大友皇子の妃の伝承が残る

旭市の大塚原古墳を訪れたあと



いつも参考にさせていただいている

古墳ブロガー、ふっき〜さんのブログを見たら
 


近くにも同じ伝承の古墳があるとのことで

車を走らせてみました車キラキラキラキラ



匝瑳市にある内裏下古墳。

※匝瑳市、、初めてこの界隈を車で走ったとき、こんなにも読めない、読む手がかりすらも分からない地名があるのか!とビックリしました。「タコ(凧)サ」?とか読んでましたから(笑)
加須市と並ぶワタシ的関東衝撃地名ツートップです。


田んぼの端に佇むひっそりした古墳、、


いや、墳丘はなく石碑だけで

立派な鳥居が建てられております神社キラキラ


先に訪れた大塚原古墳よりも詳しい説明が。

簡単にまとめると

壬申の乱で敗れた大友皇子の妃、耳面刀自妃は従者18名と海路東国を目指しました。
20歳の姫は疲労から病にかかり、この地に漂着しました。
熱田重郎兵衛、忠兵衛などの里人が姫を世話しましたが、その甲斐もなく亡くなり、この地に葬ったとのこと。
従者の中臣英勝は墓を守りながらこの地に暮らし、その子孫が1094年に大塚原に移葬しました。
大塚原古墳のある旭市の内裏神社は、1329年以来33年ごとに妃の霊を慰めるため内裏塚を訪れているとのこと。


姫、、20歳だったのかショボーン

熱田重朗兵衛、忠兵衛、、壬申の乱の頃には無さそうな名前びっくり!?

リアルなような、

他の流離譚と重なってるような伝承ですね。。

墓も移設されてるようですし。。

でも


この海路船ギザギザギザギザ

まして【淀川を下って】なんて表記をみたら

やっぱ胸がジーーーーンとしてしまいます不安


近江と千葉、、古代と現代、

近いような、遠いような、

なんで私はここにいるんだろう、、なんて

時空酔いで頭がフワフワと無気力スター


さらに、

いよいよ収穫を待つ実った稲たちといい、


海岸っぽい砂質の畑といい、



遥々、千葉の果てまで来たんだなぁと

頭の中で地図がグルグルしたのでした。

真顔うずまきうずまき地球


この近くにも


内裏神社というのがありまして

あとで調べたらここも古墳なんだとかスマホうずまき

気になって車から写真撮ったけど

ちゃんと訪れたらよかったなガーン