再掲 「いつ夕」解説 64
六日目 Ⅷ
一矢の、自己愛、欲望、との つきあい方、
それを楽しんでゆく、という生き方にヨシ君は賛同します。
が、はっきり分かったわけではありません。正直な感想でしょう。
一矢が母親から言われた 「あんたね……」のくだりは、
俺の課題でもあります。
母が逝ってしまったので、返答はもらえませんが、
未だに、
「分かったような、偉そうなことばかり言いよる」のだと思いますし、
結婚も子育てもしていないのですから、話にすらならないのでしょう。
では、何故こんなことを性懲りもなく記しているのかとゆーと、
様々な意見があった方が好い、と、思うからです。
「すべては幻想」であり、俺の意見も幻想であり、
俺の主観であり、偏見であります。
様々な立場の人が様々な意見を述べる。
様々な方向から様々な見方で的 (まと) を狙う。
皆さん、偏見ですから、ズレ、誤差がある。
七平さんが述べていたと思いますが、
その偏見、見方の線を的に向かって数々引いてゆくと、
的近くは円に近い多角形となり、おそらく、その円の中に答があるのではないか、
と、ゆーか、その円が答なのではないか、と思うのです。
(平面でなく、立体的に求めれば、球になるのでしょう)
まあ、できれば自己の責任に於いて意見を述べて戴きたいものですが、
そのことを、他人任せでなく、俺が率先してやってみよう、
自らが自らの意志で、自らの意見を、自らの責任に於いて示してゆこう、
自らが示さなければ、はじまらない、(♪ 走り出さなきゃ はじまらない~)
と、ゆーことです。
折角、便利な世の中になったのですから、これを活用しない手はありません。
表現の自由があり、それを簡単に発表できる場があるのですから。
母の苦笑いが目に浮かびますが、きっと、
「あんたの好きなようにおし」
と、言うでしょう。
ヨシ君は、親としての責任を果たしてくれていた、親という役割を、
〝する〟という意志でしてくれていた、母親への想いが、ぐっと込み上げてきて、
一矢へ心情を吐露しかけるのですが、
「アレクサンドラ」の女性 (ひと) が現れたことにより、その言葉を飲み込みます。
(「アレクサンドラ」については、「〈二三九〉 ニコラシカの変」で記していますので、
そちらを参照してください)
これは作者の都合で申し訳ない。もう少し、引っ張らせて戴きます。
ヨシ君が、「友子が燦々と輝く太陽としたら、彼女は冴え冴えと光る三日月だ」
と、喩えた、この女性は何者なのでしょうか。
その涙の理由 (わけ) は。
それは、ご想像にお任せします。(*^_^*)
日日好日
暁をまちながら