高松城 日本100名城 香川県高松市 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

行った史跡や読んだ小説をご紹介

令和6年2月23日に家族と香川県に旅行に行ってきました。高速道路を使って、明石海峡大橋、淡路島、鳴門海峡大橋を通って行きました。京都から3時間かかりました。10時くらいに着いたので、お城の近くの人気店「さか枝手打ちうどん」でうどんをいただきました。こしがあってとても美味しかったです。


旭橋


艮櫓(うしとらやぐら)


高松城はまたの名を玉藻城と呼ばれていますが、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによります。

天正16年(1588)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が香東郡野原庄と呼ばれていた現在地を高松と改めて築城に着手した平城(水城)です。縄張りは当時築城の名手だった黒田孝高とも細川忠興ともいわれている。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城のひとつといわれてます。


旭門(東入り口)


桜の馬場

生駒時代は南端に大手門があったが、松平時代に封鎖され、現在の旭門が大手となった。春には桜が満開になるようです。


桜御門

昭和20年の米軍による高松空襲で焼失しましたが、令和4年に復元された櫓門です。


桜御門の中に入ることができます。石落としもありますね。檜の匂いが心地いいです。


生駒氏の治世は4代続きましたが、生駒騒動といわれる御家騒動により讃岐一国を召し上がられ、出羽国矢島1万石に転封されました。寛永19年(1642)に関東から松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で徳川光圀の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国、四国の監察役を命じられたといわれています。水戸徳川家とは繋がりが深く、また幕末に井伊家と並び幕府内でも重きをなしました。以後松平氏が明治維新まで続きました。


三の丸は庭園になっており、見事な松が多いです。


披雲閣

松平時代に藩の政庁及び藩主の住居として使われていました。明治時代に老朽化を原因に取り壊されましたが、大正6年に再建されました。昭和天皇、皇后両陛下が宿泊されました。



陳列館にある天守にあったとされる鯱


陳列館にある天守の再現模型


月見櫓と水手御門と渡櫓

向こう側は瀬戸内海になっています。水手御門は船着場になっています。月見櫓は出入りする船を監視する役割をもつとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので(着見櫓)ともいわれています。


水門を通して海から内堀に入ってきた鯛にエサをあげることができます。ブラタモリの撮影で来られたタモリさんもやっていたようです。


二の丸跡


鞘橋


本丸跡

松平時代の寛文10年(1670)の天守は三重五階唐造りで四国最大の規模を誇っていました。天守は明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されました。


高松城の案内図


御城印

お城の入り口で購入できます。日本100名城スタンプも同じ場所で押せます。


次は丸亀城のある丸亀市に向かいました。

来月にアップしようと思います。


私の書いた本です。よかったら読んでください↓

ウェブライティングを行っています。良かったらお仕事お申しつけ下さい。↓