五重塔 足利尊氏も居住した食堂(じきどう)
不開門は老朽化で改修工事のため今年674年ぶりに開かれた
足利尊氏寄進の鐘
2010年11月7日私の息子を初めて見に来た母と行ってきました。営業の頃は、よく近くを通っていたのですごい身近な存在で、いつかは行こういつかは行こうと思いつつ行けてませんでした。今回いい機会だったので、やっと行けました。五重塔はまさに京都の象徴ですね。中に入りましたが、仏像が多くありました。一番上までいけるのかな~と思っていましたが、残念ながら1階だけしか見れないようでした。不開門は残念ながら工事中でカバーがかかっていました。早く見てみたいですね。そりゃ後醍醐天皇の1番の頼みとした新田義貞ですから、湊川での敗戦のこともあり、名誉挽回のために必死だったでしょう。今ちょうど私本太平記をこの辺を読み、楠木正成の提案した作戦を後醍醐が採用して一旦都を尊氏に渡して、周りから糧道を断ち切って、ゲリラ的に攻撃していたら、もしかしたら湊川の敗戦もなかったし、尊氏を討ち取って建武政権がもっと長く続いたかもしれませんね。尊氏の卓越した戦略と当時の武士階級からの人望の高さはもちろんのこと、義貞の軍略のつたなさと義貞、正成の不和が尊氏に勝利をもたらしたといっても過言ではないと思われます。
また東寺の北には観智院という建物があり、あの宮本武蔵が一乗下り松の戦いで吉岡一派を倒したあと、身を隠すために3年ほどここにいたということでした。床の間には武蔵の書いた鷲の図や襖に描かれた竹林の図がありました。絵の薄れ具合が歴史を物語っていました。こんなとこに武蔵の書いた絵があるなんて知らなかったので何だか得した気分になりました。
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺。「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。
東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
足利尊氏に関して
建武3年(1336年)尊氏は5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。この時本陣を東寺においた。新田義貞は圧倒的不利の中、決死の覚悟で尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて、危うく難を逃れることができた。その故事により東寺の東大門を不開門(あかずのもん)と呼ぶようになった。