新選組壬生屯所と花街島原と池田屋 京都市内 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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ブログ(史跡/幕末2)
局長近藤勇像           壬生寺

 

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前川邸            長州藩士を匿った古高俊太郎が拷問を受けた土蔵

 

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新撰組最初の屯所となった八木邸  八木邸で近藤一派に敵対していた局長 芹沢鴨は殺害された。

 

壬生屯所から南へ数百メートル行くとある花街島原  輪違屋

 

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高級料亭であった角屋 新撰組の幹部クラスが通っていた



古高俊太郎邸跡 木屋町通りの飲み屋街あたりです


古高俊太郎邸跡石碑

 

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木屋町三条の池田屋騒動の碑
新撰組により肥後藩宮部鼎蔵、長州藩吉田稔麿、土佐藩望月亀弥太、北添佶摩ら有能な人物が殺害された。
現在は居酒屋になっている。


御陵衛士屯所跡

新撰組幹部の伊藤甲子太郎一派は新撰組を離脱して、御陵衛士を立ち上げた。薩摩藩と組んで尊皇攘夷活動していたと伝わる。これを気に食わない近藤や土方により油小路の変にて討たれた。場所は東山の高台寺付近であるから高台寺党とも呼ばれた。


御陵衛士屯所跡の石碑

 

2010年10月24日嫁と共に壬生界隈を訪れました。八木邸では入場料を払うと新撰組の簡単なお話を聞かせてもらえ、内部を見学させてもらいました。土方らが芹沢を襲ったときの柱に残る刀傷を見ました。壮絶な戦いを想像させるものでした。新撰組が名を世に示したのはやはり池田屋事件による活躍でしょう。新撰組といえば長州、土佐の尊皇攘夷志士からして見れば、非常に恐るべきものであったと言われています。特に土方、沖田、斉藤はとても強かったようですね。司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」や「新撰組血風録」によく書かれています。竜馬や桂も時々遭遇しては、命からがら逃げ切っていたようです。そんな新撰組ですが、切った不逞浪士よりも、実は粛清で内部殺害した人間の方が多かったようです。まさに鬼の副長と言われるように土方ににらまれると命を落としている人が多いように思います。200人近く膨れ上がった隊士の規律を守るには鉄の掟を持ってしないと隊の規律が守れなかったようですね。また、近藤を表の太陽のような大将とするために、土方は自ら憎まれ役の裏方をかって出たのでしょう。現代から見れば、時代遅れの人切り集団と揶揄されることもありますが、もとは農村の一道場から出てきた農民の若者達が武士へとあこがれて、徳川家へと変わりない忠誠を働いた結果とも言えるかもしれないですね。

 

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧のための警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った非常警察・軍事組織である。幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保(黒谷金戒光明寺)の支配下にあった京都の治安部隊。隊員数、約60~200名。京都の治安部隊としては、他に旗本、御家人で構成された京都見廻組があり、浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される新撰組は会津藩預かりという非正規部隊であった(後年、近藤ら幹部は幕臣となった)。新選組はいわば“佐幕派”であり、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派・尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締まりにあたった。その一方で、局長の近藤勇らは新選組内部で凄惨な権力闘争を行い、内部の敵対勢力とみなせば容赦なく粛清した。