桜井の駅址 大阪府三島郡島本町 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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ブログ(史跡/南北朝2)

 

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楠公父子別れの像

 

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手水鉢(ちょうずばち) 屋形のかえる股に正成所要の兜の鍬形を思わせる彫刻がある。

 

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旗立松
旗掛松、子別れ松とも呼んでいます。 西国街道の端にある、枝を広げた老松のもとに駒を止め、楠木父子が訣別をしたと伝えられています。

 

2010年11月13日に嫁の実家に向かう途中に行ってきました。名神自動車道を高槻でおりてしまったので、細い道を探し探し行ったので、すごい時間がかかってしまいました。これならば、いつも通り大山崎で降りたほうがよっぽど近かったです。JR島本駅のまん前にありました。駅のロータリーに車を停めるところがあったので幸いでした。前ページの楠木父子像は明治以降に作られたもので、その他の碑も同様でした。唯一旗立松のみが当時のものと思われます。
太平記における、この辺りの話は戦前は教科書に必ず載っていたようですね。私は当然戦後生まれですから、習ったことがありません。まさにこれから天皇のために戦う、働くといった子供たちにとっては、正成、正行は良いお手本だったんでしょうね。しかし、あの世にいる正成や正行はどう思っているでしょう?そんなことのために自分たちの話を美談化されていると知ったら不本意に違いないと思います。あの時代の軍部もよく考えたものです。それにしても教育て怖いですね。国民の認識をいかようにも操作できるわけですからね。自分の子供が大きくなったら、歴史の教科書だけはチェックしたいですね。

 

桜井の別れ(さくらいのわかれ)とは、1336年(建武3年)の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(旧字体:櫻井の驛)で交わされたという、楠木正成(まさしげ)・正行(まさつら)父子の今生の別れ。桜井の駅の別れ、桜井の訣別とも言う。
古典文学『太平記』の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語、修身、歴史の教科書に必ず載っていた逸話で、昔の日本人には大変有名な話だった。
「駅」(驛)とは宿場のこと。桜井の駅は現在の大阪府三島郡島本町桜井にあたる。
伝承
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞(尊氏追討時は6万であった兵がこの時点では2万に減っていた)を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。