岩屋城址 福岡県太宰府市 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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岩屋城址碑

 

岩屋城址から見渡せる太宰府市街

 

平成22年年8月10日帰省したときに一人で行ってきました。童門冬二氏の「立花宗茂」を読んで、ぜひ1度行ってみたいと思い、行ってきました。日本最古の城大野城の一角にあります。写真上は昭和30年に立花宗茂の父である高橋紹運の家臣の子孫が建てた石碑です。写真下は岩屋城本丸から見下ろす太宰府市の景色です。これを島津軍2万がとりかこんでいたのだな~と思うと感慨深いものがありました。紹運は大友家に忠義を尽くすためよく戦ったな~と思いました。宗茂はこのような立派な父の意思をよく受け継いだのだと思いました。立花城祉、柳川城にも行ってみたい。

 

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく2万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。
岩屋城の戦いでは勝機はないにも関わらず、紹運の軍才は冴え、その猛将ぶりを遺憾なく発揮することになる。篭城軍763人は2万の島津軍に立ち向かい、鉄砲、石、弓などを島津軍に猛烈に浴びせかけ時には門を開けて打って出て、遊撃戦術を駆使し甚大な被害を与えた。篭城戦も半月が経過し高橋軍も疲労困憊となり手傷を負わないものは誰一人いない状況に陥った。島津軍も降伏勧告を諦め最後は総攻撃に転じた。島津軍との兵力差が埋めがたく、さらに水の手を切られたことにより紹運以下全員玉砕することになる。しかし島津軍にも戦死傷者3000人とも言われる甚大な被害を与えた。島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまう。
全員玉砕したが紹運の命を賭した徹底抗戦は結果的に島津軍の九州制覇の夢を見事に打ち砕くことに成功した。
1587年、秀吉は薩摩に入り島津氏を降伏させる。帰途太宰府の観世音寺、後の山王の社に統虎を呼び、父紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を心から惜しんだと伝わっている。


御城印

太宰府館で購入できました。


御城印