京都御苑(京都御所) 京都市上京区 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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行った史跡や読んだ小説をご紹介

ブログ(史跡/幕末2)
禁門(蛤御門)と今も残る銃弾の痕

 

ブログ(史跡/幕末2)
来島又兵衛の戦死地跡

 

ブログ(史跡/幕末2)
御所内、禁裏の正門、建礼門。この奥に天皇がいた。

 

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猿ヶ辻。禁裏の北東端。攘夷派の先鋒であった公卿、姉小路公知が過激派浪士により暗殺された場所。

 

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梨木神社。御所の東端しにある。三条実美を祀る官幣大社。

 

2010年9月23日に親父と行ってきました。この他にも、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らが戦死した、鷹司邸や、学習院の跡、公武合体政策により徳川家茂に嫁いだ皇女和宮生誕の地跡もありました。その他には、御所のすぐ北に薩摩藩邸跡、北西にはあの薩長攻守秘密同盟が結ばれたと言う小松帯刀邸跡があります。
久坂玄瑞は吉田松陰が松下村塾の中でも、高杉晋作と共に優れていると言い、よく2人を競わせていました。高杉は第2次長州征伐(四境戦争)の後、結核で死んでしまいますが、久坂も若くして死にました。しかし、2人の志は桂を初めとする長州志士にしっかりと受け継がれていきます。2人の死は決して無駄ではなかったと思います。
禁裏以外は自由に歩き回ることができますが、中はとても広いです。禁裏は予約を取ると見学できるようです。
昔、京都に住んでたころは外周をランニングしに来てました。たぶん4キロ弱くらいやったかな。
武士に政権が渡る鎌倉時代までは、政治の中心地だった所。まあ室町幕府は京都だったんですけど。
ここに天皇がいるということで、都と言えば京。京都の町並み、風習、文化が広まり根付いたんでしょうね。
明治に入り、政権も東京、天皇も東京に行ってしまいました。京都の人たちはどう思ったんでしょうね。古い慣習を大切にする京都の人たちにとっては明治政府のやり方は強引に写ったかもしれませんね。

 

1864年(元治元年)7月17日朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が、会津・桑名藩兵と衝突した(最初の写真右上は銃弾の跡)。一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して禁裏(京都御所内)に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛(2番目写真は戦死地跡)、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは戦死した。
当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う。