栄光の釣鐘 | 大学應援團に関する考察を支援するブログ

大学應援團に関する考察を支援するブログ

かつて地方都市に実在した應援團の赤裸々な日常を通じ、大学應援團とは何を考えるブログです。

創成期の我が應援團の状況、或いは当時の時代背景、神戸の風景を読み解くキーワードの一つが本多仁介翁、本多会であると思っております。
時が時なら執筆にあたって憚らざるを得ないテーマでありますが、既に60年以上前の出来事である上に、本多会は昭和40年に解散、本多仁介翁も既に鬼籍に入っておられます。
既に現在進行形でなくなった出来事でありまして、関係者の多くも故人となられ、歴史学に分類されるべき事象になっていると判断されますので、少しご紹介したいと思った次第であります。

本多一門は事業で成功を収め早い時期に斯界から引退されましたので、盛時の勢威から思えば、今現在、確認できる足跡の少なさに驚きを禁じ得ません。
ただ映画ではその事績が垣間見る事が出来たりもします。かつての東映のヒット映画「仁義なき戦い」において本多仁介翁は神代巳之吉という役名で登場したり、菅原文太主演の「日本の仁義」という作品は本多会がモデルであるとされております。

我が團の本多團長が在籍した当時、現在でも高名な、神戸に本拠を置く山口組も既に勢威を誇っておりましたが、神戸の中心地 三宮は本多会の勢力圏であるとされておりました。

昭和35年頃の警察庁の資料を見ますと山口組は全国に9450名の配下を抱えているとなっておりますが、本多会は4090名となっておりまして、山口組の約半分程度の勢力だった訳でありますが、本拠地である兵庫県に限って申せば山口組1359名に対し本多会1823名と本多会が優勢だった訳であります。

この両陣営の勢力は全国的に見ても突出しておりまして、日本最大手と二番手の仁侠団体の本拠が神戸市内で隣接しているという奇妙な事態が起こっていた訳であります。

そんな背景を背負った神戸の街で、甲南大学に應援團が結成された事を本多仁介会長も随分と喜んで下さり、支援頂きました。下宿生の團員が、家賃まで酒代にして飲んでしまう生活を続け、遂に下宿を放り出された時も、須磨の本多邸に住まわせて下さったり、底知れぬ度量の大きさに團員達は度肝を抜かれたものであります。

山口組は今日に至るまで存続し、様々なメディアに取り上げられ、"裏"の神戸名物の第1位と言っても差し支えない存在になりました。そしてそのシンボルである山菱の代紋は日本全土に睨みを利かせる一大ブランドと言えましょう。

昭和30年代、その山口組と鎬を削っていた本多会の代紋は先日の記事で紹介した通りでありますが、その形から通称「釣鐘」と呼ばれておりました。
この釣鐘代紋は我が團の初代團バッジであると同時に、大東亜戦争の戦災から復興に向かって、煮えたぎる大釜の様な熱気に満ち満ちた当時の神戸の街のもう一つの側面を象徴する紋章である訳であります。
【本多仁介会長】


甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会