生きるって…わからない( ; ; ) | koma3232のブログ

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私たちは生物である。人と云う生物である。でも、他にも生物はたくさんいる。その生物には実に多くの生物が存在している。植物も生物である。動物も生物である。無機物でさえもが非生物と云う生物である。

 

☆蜜柑を食べ、炬燵に潜り込み、わけの分からない夢をみて、今私は確かに寝てはいるが生きている!

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 この生物たちとともに私たちは、この地球と云う惑星で生活している。この地球の構成要素の一員であると云える。私たちが日々生活し、経験し、触れるものもの全てが、私たちの世界であり私たちが生きていることの証明となっている。私たちの記憶・意識にあるものは、生きているからこそ実感できるものとなっている。記憶・意識にないものは、もう死んだものかもしれない。過去ももう死んだものかも知れない。それは、生きているものではなくて思い出と云うものなのだろう。このように、生きている時でさえ私たちの過去は既に死んでしまっている。ただ、過去の記憶・意識が薄れても今生きているからこそ、社会によって周囲の人たちによって、その連続性は確保・確認されているだけに過ぎない。人は生きている間中は、確かに記憶・意識の連続性は確保できることが確認できる。
 私たちの世界は、時間と空間で構成されている。これが生きていることの全てなのだろう。空間的即時間的な世界、これが生きていると云うことなのだろう。空間があるからこそ私たちは私たちの身体をもつことができると云える。空間がなければ私たちの居場所はどこにもないことになる。時間があるからこそ私たちは動き考えることができると云える。時間がなければ私たちは動くことも考えることもできないことになる。
 空間のない世界は存在しないし、時間のない世界も存在しない。空間もなければ時間もない世界は何もない世界である。世界という言葉さえもないであろう。

 

☆2月のお寺の空間と時間、空間の桜は今は葉もなき桜だが春になると葉もなき桜から花が咲く!

 空間のない世界は存在しないし、時間のない世界も存在しない!

 時と区間は動き働く!

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 このように考えるならば、生きていると云うことは、空間と時間のある世界、その中で考えながら動き働いていく世界と云うことになるのではなかろうか?それは,生きていることが私たちに現状維持を許さない世界だと云うことだ。これが生きた世界である。私たちは生きている限り、絶対的に現状維持が許されない世界にいるのだと自覚するべきであろう。
 私たちは死んだら生きていることをやめなければいけない。人はほとんどの人が死を恐れる。それは、死と云うものがまだ経験したことのない未体験のゾ-ンだからなのだろう。だからこそ、そこに宗教が生まれたのだろう。ほとんどの宗教は、死後の世界を認定する。まだ、一度も死んだことがないのに宗教指導者たちは、死後の世界の極楽浄土を認める。まだ、死んでもいないのに死後を認めるなんてことは、あってはならないことなのではなかろうか?自分が実際に経験もしていないことを人々に神と云う存在を介して死後の世界を説く。これは実際はいけないことではないだろうか?だれであろうと、死後の世界について聞かれたら、死後の世界は生きている私たちにはわからないこと、それは死んでみなければわからないことと云うことが、本当のことではなかろうか?
 だから、私たちは何も宗教にのめり込む必要はない。宗教とはある意味、物語である。メタファ-なものなのだ。物語や喩えにのめり込んで現実の自分を失うことがあってはいけない。だから、宗教のよしあしと云うものは、その宗教指導者たちの心持ちによって決まってくるのではなかろうか?世の中はお金で動いていると思っているいる人が大半となってしまった現代において、多くの人が生きるとは何か?に迷いつまずいている。そして、生きることの楽しさを知らずして、死んでいく。そう云う人が今は多くなっているような気がする。 そこに、宗教に名を借りて一儲けしようとする人たちが続出する要素があるのではないでしょうか?
 私自身は、肉体の現世と魂の来世と云う二元論は認めてはいない。それについて、私なりの解釈をしておこう。生命は確かに始めに無生物から生物に変態した瞬間があったのだろう。この地球は確かに46億年前は無生物の世界であったことは間違いのないことだ。そして38数億年前にこの地球に生命が誕生した。これは無生物から生物への大進化だ。奇跡の大進化だ。この問題に科学は屁理屈をつけてもっともらしく解釈するが、そんなもの誰もわかっちゃいない。事実は、生命が出現したことだ。これは神秘だ。神秘は神秘のままでいいのではないだろうか?

生命は神秘性を出発とする!