農夫山泉 不買運動の経緯 | 現在中国雑貨店長の運営ブログ

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農夫山泉 不買運動の経緯

 各サイトで言っていることが全然違っていて、分からないのですが、まず2月25日に娃哈哈集団の会長宗慶後が亡くなったことから話が始まっております。

 

 娃哈哈集団の会長宗慶後が亡くなり、各界の人物がお葬式に来たり、弔辞を述べたりしました。

 

 鍾睒睒は実際来たのか、それとも文章だけだったのか不明なのですが、弔辞を送ったそうです。その内容に娃哈哈の関係者が激怒したようなのです。

 

 鍾睒睒は炎上しその後、3月3日頃釈明文を書いたそうなのです。「私は娃哈哈から給料をもらったこともなく、解雇されたこともない(記事には鍾睒睒は30代の頃、広東や広西あたりの娃哈哈の代理店をしており、不正行為をして首になったと書かれています)」

 

 その釈明文も炎上し、農夫山泉のボイコット運動に発展しました。

 

 その途中に起こったことが、鍾睒睒の売国奴疑惑です。

 

 ボトルが上から見ると日の丸に見え、また玄米茶のボトルのイラストに日本の鯉登りが書いてあったり、緑茶のイラストに、浅草寺が描いてあるとか言われています。

 

 息子の名前が〇子なのですが、それが日本人の名前みたいで売国奴だというのです。でも息子は男なので、日本の名前とは関係ないと思うのです。(確か娘も2人いると書いてあった気がしますが、娘は〇子ではなかったです)

 

 さらに息子は、アメリカ国籍を取得済で、アメリカにたくさんお金を移しているとか。

いろいなサイトを見ていて下のようなことが書いてありました。

  • 中年になると、リストラされる。一方の娃哈哈集団の会長の宗慶後はそんなことはなく、非常に面倒見がいいそうです。
  • 下請け企業に、非常に厳しいそう。鬼のような対応をするみたいです。

 

娃哈哈集団の会長宗慶後の人物像

 話によると、まず共産党員で温厚であり、面倒見がよい人だったそうです。たぶん三国志の劉備みたいな人だったのでしょう。

娃哈哈と農夫山泉の争いなんて、今まで全く考えたことがなかったのですが、よくよく考えてみると、農夫山泉の鍾睒睒は、相当な謀略家なのではないかと思えてきました。三国志で言えば、董卓と李儒の一味みたいなものでしょうか。曹操よりもっと嫌らしい謀略です。

鍾睒睒の経歴

 これは、非常に重要な話なのですが、祖父は共産党幹部だったそうで、父親はラジオ局の部長だったそうです。たぶん当時テレビ局はなかったのでしょう。

 

 鍾睒睒本人は、文革に遭い、小学校5年で学校が停止し、7年前後学校に行っていなかったようです。そして何年か後に、浙江広播電視大学へ入学し、卒業後は、新聞社「浙江日報」に就職し、何年か働いていたそうです。

 

 その後、1988年に、海南島が海南省へと昇格したのを契機に海南島へ引っ越しし、1989年に「太平洋郵報(Pacific Post)」を発刊します。ただし、すぐに事業に失敗したそうです。

 

 その後、様々な事業をした後、娃哈哈の代理店の仕事を始めたそうなのです。

 

 ここで確認したかったことは、この人物はメディアが本業で、過去に世論操作したのではないかという疑惑です。個人的にこのように思いました。

 

 続きは次回書きます。