鷺宮咲前神社 5月の御朱印(群馬県安中市鷺宮) | まほろば御朱印紀行

まほろば御朱印紀行

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。


 群馬県安中市の旧安中市の市街地から西へ行った所に神社は鎮座していました。

 最寄り駅は、JR信越本線「安中駅」or「磯部駅」になります。徒歩で神社まではかなりかかりそうです。できれば自動車で行かれた方が宜しいかと思われます。

 駐車場は、境内の右側にありました。自動車は、十数台位は停められそうです。


 こちらの神社の由緒は以下の通りです(由緒書きより)。
「咲前神社の御由緒について
 咲前神社は、社伝によると、経津主命が建御名方命を追って上野国・ 信濃国国境の荒船山に出陣した際の行在地とされています。
 この社伝は、日本神話のいわゆる 『国譲り神話』に由来するものです。『国譲り神話』では、葦原中国を平定するために、天照大神の命令で高天原の使者として経津主命と武甕槌命が遣わされました。出雲国の大己貴命に国譲りを迫ったとき、大己貴命と子の事代主命は服従を誓い、大己貴命は自らがこの国を平定したときに杖にしていた『広鉾』使者の二神に授け、『私がこの鉾を用いて国を平定したように、天孫がこの絆を用いて国を治めれば必ず平安になるでしょう』と言い終えて迷に隠れられました。そこでこの二柱の神は従わない神たちを征伐し、平定を終えて高天原の天照大神に報告し、遂に天孫が降臨されることになったとされています。
 また、大己貴命の子の建御名方命は、当初、服従を拒んで力比べを挑んだところが敗れて、信濃国の諏訪湖まで逃げ、最後に服従を誓ったとされています。
 よって、逃げる武御名方命を追って、信濃との国境に聳える巨大な船のように見える荒船山を望むこの地に、経津主命が陣を構えた記念の場所として、祖先たちが語り伝えたものと思われます。
 その後、第二十七代安閑天皇元年甲寅六月初申の日、当地に経津主命(神石『雷斧石』三個)が御出現なされました。これを奇瑞として時の守護職が天皇に申し上げてそのお耳に入れたところ、正三位宰相より礒部の姓を賜った小倉季氏は、高椅貞長、峯越旧敬を伴い奉幣使として上野国へ下向し、祭礼が始まったとされています。これが、当三社の創建であり、現在の『一ノ宮貫前神社』の創建ともなります。当初、当社は『抜鉾大神』または『抜鉾神社』と呼ばれていました、これは恐らく建経津主命が大己貴命より授けられ、国を平定するときに用いた『広鉾』に因んで名付けられたと思われます。その後、磯部朝臣が祭祀を司りました。敏達天皇元年(572)第三代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎(尾崎)を名乗りました。しかし、『抜鉾神社』は、第十一代小崎邦平のとき、神託により白雉(白鳳)元年(650)または天武天皇二年(673)3月15日現在の進ヶ丘菖蒲谷に遷座したため、当地では改めて下総国の香取神宮から経津主命に併せて大己貴命と保食命を勧請しました。よって、以来、祭祀は藤原姓和太(和田)氏が司っています。
 この抜神社の遷座によって、当社は抜鉾神社の旧鎮座地を意味する『先宮』または『前宮』と呼ばれたことから、村の名ともなり、その後『鷺宮』と記されるようになったといわれています。
 この『先宮』または『前宮』が、なぜ『さき』の音を重ねる『さきさき』となったかは不明です。しかし、平安時代中期の『延喜式』神名帳には当社の記載はないものの、これに準じて上野国の国司が管轄した神社を記した『上野国神名帳』には、碓氷郡の部に『従五位上咲前明神』(『群書類従』では『従五位』のみ)と絞り、すでに現在の『咲前』の表記が見られます。
 応永八年(1401)1月7日には、第三代鎌倉公方の足利満兼により 新田庄平塚郷一町が寄進されています。」


 鳥居。
 手水舎。
 神楽殿。
 社殿。
 授与所。
 新しい授与所になっていた。御朱印や授与品はこちらで頂ける。
 御朱印は、片面(300円)と見開き(500円)があり、見開きを頂いた。



神社名:鷺宮咲前神社
鎮座地:群馬県安中市鷺宮3308番地
祭 神:健経津主命 大己貴命 保食命 建御名方神 火産霊神 菅原道真 猿田彦命 倉稲魂命
社格等:旧村社 神饌幣帛料供進神社