[国立公園鉄道の探索]
埼玉県平和資料館にて
埼玉平和資料館を訪ねました。
緑豊かな丘陵地帯に開設された物見山公園内にある埼玉県立の資料館です。
最寄り駅は、東武東上線高坂駅(池袋起点46.2km)で、当駅の西側約3kmのところにあります。
資料館自体は森の中に隠されるように佇んでおりますが、館内に設置された高さ41メートルの展望タワーは遠くからもよく見え、
ランドマークとなっています。
埼玉県平和資料館は埼玉ピースミュージアムとも呼ばれています。
展示されている資料は原則撮影できないようですが、
今回は許可を得て、可能なものだけ撮影させて頂きました。
私が惹きつけられたのが1924(大正13)「アサヒグラフ」夏季増刊号に掲載された特集記事「世界の涼味」というコラムです。
「国土の風光に強い愛着を感じると同時に異国の風物、情調に対しても強く惹きつけられます。」
と記されているこの一文、「日本人もまた世界人である」というコスモポリタニズム的な感覚が横溢しています。
こうした考え方も反映され、日本の国立公園は成立することになります。
1924年といえば、関東大震災の翌年にあたり、米国では「排日移民法」とも呼ばれる1924年移民法が成立した年です。
偏狭なナショナリズムの暗雲が世界を覆い始めようとしていたこの時期、日本ではまだ国際相互理解の精神を生かしていこう、
と試みられていたようです。
こちらは漫画家・北沢楽天の「時事漫画」です。
埼玉県大宮の名家を出自とする北沢楽天は数多くの政治風刺漫画を手掛けてきました。
「睨みの利く新党の党首」と題されたこの作品、
面白いですね。
軍部や威勢のよいことをいう連中に迎合する政治家が多い中で、
ライオンのように怖い顔をした立憲民政党の党首が平和の守護神になってほしい、
という庶民の願望を代筆しているような感じがします。
こちらは、1936(昭和11)年の陸軍若手将校による反乱、二・二六事件に関する展示です。
「動員された兵士の多くは徴兵区域の関係から埼玉県出身者でした」と解説されています。
1400名を超す反乱兵士の中には、その後弁護士、政治家そして埼玉県知事として活躍する畑和氏も一兵卒として動員されていました。
畑和氏は、1972(昭和47)年7月から1992(平成4)年7月まで5期20年に渡り、
「憲法を暮らしに生かそう」
というスローガンを掲げて埼玉県政を執り行いました。
二・二六事件の後、軍部による統制が進み、国策事業として満蒙開拓移民政策が展開されることになります。
因みに、二・二六事件が発生した、1936年は、観光収入が国際収支面で生糸についで第二位までになった時期でもありましたが、そちらの方面の振興策よりも対外進出の方向にシフトされていくことになります。
埼玉県は、その当時殊に平野部中心として経済的に比較的豊かな県であったはずですが、それでも開拓団、義勇兵併せて
4300人が参加したようです。
その多くは大戦末期、ソ連参戦後悲惨な境遇下に置かれることになりました。
埼玉県内から徴兵、徴用された人々が送り出された戦場に関する資料も展示されています。
こちらは「風船爆弾」の模型です。
実物の風船爆弾は直径10mだったそうですから、約1/7程度のレプリカとなるようです。
これも埼玉県と関係があります。
埼玉県には、小川町のように名だたる和紙の産地があります。
その和紙が風船爆弾の材料に使用されたそうです。
和紙といえば、平和で文化的な産物のような感じもしますが、時と場合によっては、武器に変貌することもあったのです。
和紙をコンニャク糊で張り合わせ水素が注入された風船は、15㎏の爆弾と4㎏の焼夷弾を吊るして、強い偏西風に乗って太平洋を渡っていきました。
「9000発以上発射されその約一割が北アメリカへ到達、小規模な被害を与えた」と解説されています。
埼玉県内の戦災の記録、従軍した兵士が所持した武器などの展示もみられます。
先の大戦の時期、この地でもまた、徴兵、徴用、戦災、満蒙開拓団への参加、食料不足などで、庶民は少なからぬ影響を受けていたことが資料からわかりました。
ここで思い起こしたことがあります。
大戦後、日本国民も戦争責任を負わなければならないという「一億総懺悔」という考え方が論じられたことがありました。
この考えを明確に否定したのが、戦後日本進歩党を結成して政治活動を再開した斎藤隆夫議員です。
斎藤隆夫議員は、戦後1945(昭和20)年11月に招集された第89回帝国議会で日本進歩党を代表して質問、その時に
戦争の責任は、日中戦争を引き起こして、それを終息させることなく拡大した当時の為政者にある、と断言します。
そして、
「・・・・・苟も軍の代表者たるものは、我が国に於きましどうしてこういう軍国主義が生まれ出たのであるか、又どうして未然に防ぐことが出来なかったのであるか、どうしてこれを抑圧することが出来なかったのであるか、そうして、どうして今回の戦争を導いたのであるか、凡そこれらのことにつきまして全国民の理解を求むるがために一切の真情を説明せらるる必要があると思うのであります。・・・・・」
と問いかけます。
これは当時の最後の陸軍大臣となった下村定氏に向けての質問でしたが、斎藤隆夫議員が発した根源的な命題は、
七十数年を経た今日も、為政者、国家上層部の指導的立場にある人達に問い続けられなければならないことと思いました。
埼玉県平和資料館では、「平和の創造」というコーナーもあります。
環境破壊による、災害、食料不足が新たな紛争要因となっている昨今、医療、良質な水源の確保などの国際協力活動を通して
「平和の創造」が試みられていることが紹介されています。
次回は、埼玉県平和資料館の展望タワーからあたりの風景を眺めてみたいと思います。