【母親やめたい】生きづらいのに鬱ではない | 自分で癒やすこと 〜モドルミチ〜

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人とつながるため
自分で癒やしていく。
生きづらさ、苦しみ、不安、焦燥感、罪悪感と一緒に。

こんにちは付けまつげ


実は、長いこと思っていました。


なぜ、私は鬱までいかないんだろう。
鬱までいけないんだろう。


でもそれは
絶対に、口に出してはいけないとも
思ってきました。


うつ病
産後うつ
これは、実際になった人しか分からない
壮絶な苦しみがあるものだと
思うからです。


身体が思い通りにならない
様々な病状。
薬と付き合っていくこと。
経験しないなら、しない方がいいに
決まっているじゃないかと
思うからです。
※経験した人にとっては、それは人生の重みある体験だったとなり得ることも知っている上で。


鬱になりやすい人の特徴らしきものは
兼ね備えているし
実際に、とてもツラかったのです。


・生真面目 とか
・責任感が強い とか
・完璧主義 とか
・人からの評価が高い とか
・道徳観が強い とか


自分で言うのもなんですが

全てYESです。



考えすぎて苦しくて。

人目が気になって。

グルグル思考が終わらなくて。

あっちにもこっちにもいい顔するために時間ばかり費やして。

肝心の家族には不機嫌まき散らして。

自信がなくて。

違う人間になりたくて。



気分のよい期間があったと思えば

生理前にはイライラが止まらない。



こんなにも不安定なのに。

要素そのものはかなり持っているのに。

私は鬱にならない。

なぜだろう?



ずっと、その答えは

・つまり、たいしてツラくないからだろう。

・つまり、それなりにゆとりのある環境で甘えたこと言ってるお子ちゃまなんだろう。

・つまり、もっと大人になって、ちゃんとやれよってことなんだろう。



それは一部、事実かもしれないですが

あまりにも自己への優しさがなかったです。



ただ、自分をディスるもの

自己卑下だけの結論

でした。



だから。



お母さんを、やめたい。



その想いについても



私のような、ただの甘ちゃんが、

ほんと何言っちゃってるんだろう。



という気持ちが

少なからずありました。



本当に、逃げ場がなく

ひたすらに追い込まれ

それでも頑張り続けて

起き上がることも困難になった人たち

たくさんいるのに。



私は寝られるし起きられる。

食べられる。働ける。

それなのに

頭でばっかり考えて

勝手に疲れてて、グチばっかり言ってる

ただの体力なし根性なしのダメなやつなんだ。



その理論から

なかなか、離れられませんでした。



コーヒーコーヒーコーヒー



これも思うんです。


母親 やめたい


って検索するとね。


やっぱり鬱の情報も
目に入ってくるじゃないですか。


もうギリギリ。
お母さんやめたいなんて
絶対に絶対に思いたくもないのに。
張り詰めた糸が今にも切れてしまいそう。
その人たちに
届けなきゃいけないメッセージは
とてもとても、大事ですものね。


大きく目に飛び込んできてほしい
大切な受け止めネットだと思います。


ただ。だからといって
私のような「こっち側」のケースが
・実は大丈夫
・問題ない
・気の持ちよう
なのかというと
そうではないじゃないですか。


張り合う話、ではないのですよね。
これも
実は、別の話
なのですよね。



こっちの話
こっちの情報 が
とにかく少ないというか
見当たらないものだから。


リフレッシュして
気持ちを切り替えて 方面
もしくは
抱え込まずに今すぐ助けを求めて 方面
しか、見つけられないものだから。


もうね、
あるものに当てはめて
納得したくなるんです。


当てはまらないことは恐怖なんです。
もしこの状態に名前があるなら、知りたいんです。
名前を知って、然るべき対処なり、治療をしたいんです。
抜け出したいんです。
変わりたいんです。
終わらせたいんです。
納得したいんです。


だから、探しているのです。


母親やめたい私。
子育て向いてない私。
ママ失格な私。
だけど鬱じゃない私。
そして一過性でもない私。


これって、なんですか??


探しても、探しても
見つからない。


じゃあさ、もうさ、
なにでもない。
そういうことだよね。


・つまり、たいしてツラくないのだろう。

・つまり、それなりにゆとりのある環境で甘えたこと言ってるお子ちゃまなのだろう。

・つまり、もっと大人になって、ちゃんとやれよってことなのだろう。



それで納得など
できてはいなかったはずですが
分からない恐怖よりも
自分ディスリで落ち着く方が
まだマシだったのです。


コーヒーコーヒーコーヒー


これも仮説があります。


言語化
分析
整理


ある種のクセであり
趣味のようでもあり
勝手に繰り広げてしまうソレ。


それらのことは
一種の盾になって
刃止めとなってくれるのではないか。
ということです。


鬱になりやすい要素と合わせて
知られざる、なりにくい要素
一緒に持っているのかもしれないな。
なんて思うのです。


そういう風に
発想の転換をして
仮にでも納得できることは
自分をディスるよりも心地よいです。


「こっち側」以外の名前を
つけてみたいです。


私だけじゃないと思う。
他にもいたと思う。
今も、いると思うから。


5年ほどが経ち。
ぱっと得られる情報の深さは変わってきていると思います。


ただ、私のようなケースについては
それほど情報が見当たらないということで。
割合にしたら
やっぱり少ないのかもしれないけど。


日本に1人、2人じゃ
ないはずです。


「こっち側」の
母親 やめたい と検索するお母さんに。


専用のアイデアを
パッケージを
選択肢を
重たい一歩がスルッと出るきっかけを
私だけじゃなかったんだ、を
届けたいのです。


続き