教師塾13 親との関係特に若い教師に 

 

子供に問題がある場合、親にも原因があることが多い。

 

その為、担任はややもすると親をないがしろにして自分だ

けでその指導に当たろうとする。

 

しかし、多くの場合、親との連携プレーを行って事に当たる方がよい場合が多い。

 

親との連携には色々なケースがあるが、場合によっては担

任が親をリードしながらその関係を育てる必要がある。

 

従って担任はまず信頼を得ることからはじめなければならな

い。

 

 一口に信頼(ラポール)といってもなかなか時間がかかる。

 

そして何でも知っていたり、指導がうまいからといって必ずしも信頼が得られるものでもない。

 

逆説的に聞こえるかもしれないが当てにならないのに信頼されるという担任もいる。

 

要は誠実さと暖かさの問題。

 

当てにならない信頼教師は先ほどのリード型にはたてないがやはり、親との連携を育む。

 

 この場合リードされるのが教師である。

 

しかし、若い教師はこれでよいと思う。

 

勉強になると思う。

 

自我の強い人間にはとても難しいが。

 

そしてかつての私はこのタイプであった。

 

私の場合リードされたくなくて突っ張っていた為、決別し

た関係になってしまったが。

 

こころのとまり木 8ー5横浜市立鶴見工業高校電子科の話 5 最終回 

 

前に書いたように私には中学からの友人がこの学校にいる。

 

彼は中学の時に私と同じに工業高ではトップの神奈川工業高を目指していた。

 

そして担任から私と同じようにランク落ちさせられて鶴見工業高校の電気科に入った。

 

そう、彼も貧乏人の息子。

 

当然、私立なんぞかけられない。

 

私と彼は因縁があった。

 

こうして高校も同じになった。

 

その彼が3年生の春に突然、大学進学をすると言ってきた。

 

私はというと就職のことしか頭になかったので小学校の時の夢、教師になることなど当の昔し消え去っていた。

 

彼は私と同じクラブ、電気研究会に所属していた。

 

二人で屋上に上がってアマチュア無線のアンテナを立てているとすぐに白いワイシャツに黒い埃のような物が付着した。

 

光化学スモッグが発生して炭の粒のようなものが浮遊していた。

 

当時の鶴見工業高校が建っているこの小野地区は最悪の京浜工業地帯。

 

自分の未来のように空はいつもどんよりしていた。

 

束の間の幸せは食堂で食べるカレー定食、小麦粉の味がするカレーに薄いカツが乗っかっていた。

 

この安い食べ物は「定カレ」と呼ばれていた。

 

この定カレとピープルCというジュースを飲むこと、これが当時の私には一番の楽しみだった。

 

ある日、彼とこの「定カレ」を食べていると彼がバイトを探しに行かないかと誘ってくれた。

 

鶴見小野の街のどこからとなく聞こえる機械のけたたましい音の中、我々は町工場を何件も尋ねた。

 

一年生の三学期に卒業生を送る予餞会が生徒会主催で行われた。

 

映画が上映された。

 

吉永小百合と浜田光夫の「キュポラのある街」

 

あの独特の暗さがこの街にはあった。

 

結果、バイトは見つからなかった。

 

高校生がやるような仕事はないと言われた。

 

危険なのだ、この地帯の仕事は。

 

****

 

彼は明治大学を目指しているらしい。

 

私はこの時も大学のことなど考えたこともない。

 

しかし、優柔不断の私は彼の大学進学の話を聞いているうちに自分も行きたくなってしまった。

 

具体的に進学を目指した訳でわないがラジオ講座の雑誌を買ってなんとなく勉強を始めていた。

 

教師への夢がムラムラと湧き上がっていたのである。

 

こうして私はまたもや彼に背中を押された。

 

その後の私の教員生活は彼無しでは語れない。

 

そして私の影響でクラスでも3人ほど大学を目指すやからが出た。

 

一人は相模工業大学、一人は私と同じ学芸大学に二浪して入学した。

 

彼はというと三浪して念願の明治大学に入った。

 

私と違って文系を目指したのでとても難関だったろう。

 

****

 

私はこの鶴見工業高校で多くのことを学んだ。

 

電子科には豊岡先生という後で知ったのだが初期のコンピューターに造詣がある人がいた。

 

先生はのちのY校、横浜商業高校の敷地にある情報処理の研究所に変わられた。

 

先生はよく、よく初期のコンピューターはものすごい量の真空管でできていて、一と教室いっぱいの大きさだったと言われたことが今でも忘れられない。

 

そして、よく真空管がきれるので差し替えだけで1日が終わってしまい計算ができなかたそうだ。

 

私はこの先生から電気の波形を視るオシロスコープ(本当はシンクロスコープ)の扱い方やトランジスタ回路の勉強を教わった。

 

先生から紹介されたシンクロスコープの参考者を大学に入学してから神田の古本屋で購入した。

 

その監修者が日本のUFO・テレパシー研究家の関英夫先生だった。

 

最初は同姓同名だと思った。

 

電子工学の先生がUFOやテレパシーの研究しているはずがないと思ったからだ。

 

しかし、違った。

 

関英夫先生は紛れもなくUHFOや加速学習の研究者だったのだ。

 

このご縁には驚いた。

 

思えば図書室で見たハイゼンベルグの不確定性原理。

 

電子の世界では当たり前な壁をすり抜けるトンネル効果。

 

関先生はこの時代に量子コンピューターのことやテレパシーを量子レベル、素粒子レベルで説明できると予見していた。

 

先生は電子を勉強すると不思議な世界を知りたくなるとどこかの本で書いていらした。

 

******

 

話を戻すと、何せほとんどの人が勉強をしないから、実習室や機材は使い放題。

 

このことは東京学芸大学に入ってからとても有利だった。

 

電子回路の実験は先生の代わりに私が仲間に教えた。

 

電気関係の単位は殆ど訳なく貰えたし、学部生なのに東工大附属電子科から来た奴と研究室も貰えた。

 

全ては横浜市立鶴見工業高校電子科。

 

痛い思いもした。

 

恥も大いに書いた。

 

後輩のアホらしさにも嫌気がさした。

 

空気の悪い暗い高校生活だった。

 

先輩のシメにもあった。

 

応援指導部にも悩んだ。

 

進学で仲間にもハブられた。

 

カバンの中にはよく、タバコを仕込まれた。

 

しかし、

 

今は無い、この学校なくしては以後の自分はない。

 

今、こうしてハンダゴテを握ってアンプを組み立てているのも。

 

           終わり

なぜこんな文章を書くのか?

それは自身の否定的な事象を肯定的なことに変えた道筋を皆様にお示ししたいからです。

あるひとはこれをお前のサクセスストーリーになんか興味ないと言いました。

この見解は違います。

もし、そう捉えるのなら人には必ずサクセスストーリーがあるのです。

ただ、そのことが見えないのかもしれません。

 

こころのとまり木 8−4   横浜市立鶴見工業高校    電子科の話 4 

 

運動会が終わると秋も深まりました。

 

皆んな、就職のことで頭がいっぱいです。

 

この学校から大学進学を考えるものはほとんどいません。

 

学校全体で10名くらいだしょうか。

 

勿論、私も就職組。

 

NHKのADのオファーがありました。

 

ADとは何か?

 

説明を聞いたら電源ケーブルをあちこちに引っ張る仕事だと知りました。

 

何だか未来が暗くなりました。

 

そんな時に中学からきた友達が大学を目指すと言い出したのです。

 

もう、秋です。

 

今から間に合うのか?

 

しかし、何故か自分もやりたくなりました。

 

落ちたら、親父の知り合いの町工場で働こうと思いました。

 

勿論、私立は論外。

 

公・国立を目指しました。

 

小さな進路指導室にあった資料を見たら、20年くらい前の電子科の定時制にいた先輩が横浜国大の工学部に合格していたことを知りました。

 

これが自分の励みになったのです。

 

当時の私は単純でした。

 

この進路指導室にいた老齢の先生は変わり者でした。

 

東大を出ているようです。

 

倫理・社会の先生でしたが、クラスにきて挨拶ができないとエライ勢いで雷を落としたのです。

 

しかし、老人ということもあったのか誰も逆らいません。

 

とにかく怖かった。

 

そんな先生ですが、私が足繁くかよていたので声をかけられました。

 

その声はとても優しかった。

 

あの雷はフェイクなのかな。

 

「君、横浜市立大学の商学部はどうかな」

 

『?』

 

「横浜市の高校に推薦入学の枠があるんだよ。君、A推薦だからいけるんじゃないのかな。』

 

『自分はそろばんが苦手なので商学部は。」

 

「そうか、残念だな。」

 

商学部に情報処理学科があるとはその時、全く知りませんでした。

 

コンピュータだったら電子科から埒外ではなかったのに。

 

とにかく受験勉強。

 

授業が終わると図書室に直行。

 

図書司書のおばあちゃんと図書係の英語の先生と仲良くなりました。

 

帰りは遅くなります。

 

クラスに帰ると早く来た定時制の人がいます。

 

受験を目指していること、定時制の先輩に国大に受かった人がいることなどを話しました。

 

「頑張れよ。牛乳、やるから飲めよ。」

 

働きながら勉強する彼らには頭が下がりました。

 

*****

 

孤独でした。

 

図書室には人がいません。

 

誰も来ません。

 

そして孤独の原因は他にもありました。

 

私はクラスの皆からハブられることになったのです。

 

就職しないということからかな。

 

何故、今まではハブられなっかのか?

 

それはオートバイに関係がありました。

 

私は親父の影響で入学すると早くからバイクの免許をとっていました。

 

そして90ccのCL90というホンダのバイクをいじり回していたのです。

 

そう、バイクを分解する技を親父から教わっていたのです。

 

学校にも内緒で乗ってきました。

 

番長グループの人も乗ってきました。

 

そして互いにバイク談義をしていたのです。

 

このバイクは当時の「オートバイ」という雑誌の「売りたし・買いたし」というコーナーで知らない人から買ったものでした。

 

それとギターを持っていた。

 

バイクとギター。

 

不良の3種の神器の二つを私は持っていたのです。

 

残りの一つは「タバコ」。

 

これはやりませんでしたが、大学生になってからはいけません、ヘビースモーカーになってしまったのです。

 

バイクの分解整備とギターが弾けることが番長グループからある意味で認められていたのでした。

 

しかし、受験組になった瞬間、今まで仲良くしていた人。

 

彼に声を帰ると「ふざけんなよ」

 

びっくりしました。

 

誰も話をしてくれなくなったのです。

 

意地の悪いのは先生にもいました。

 

電気工学の先生は、ことあるごとに「この学校から行ける大学は〇〇大学くらいだ」と近所で最低の大学の名を言って私の方を見てなじりました。

 

皆んなは嬉しそうに笑いました。

 

今でも彼の顔は忘れません。

 

私はこの先生と例の応援指導部の顧問、この二人は許せませんでした。

 

*****

孤独でした。

 

そんな中、担任の国語の先生はやさしかった。

 

この先生、修学旅行で悪が酒を買い込んで飲もうとしている現場に来た時も顔色一つ変えずに私に買ってくれたのかありがとう」と言って持ち帰った。

 

私が国語の授業中に内職をしていると小声で

 

「そんな問題も出るのか?」

 

神奈川新聞に合格の記事が出たときにも朝早く電話をかけてきてくれたのもこの人でした。

 

続く

 

こころのとまり木 8−3    横浜市立鶴見工業高校     電子科の話3 

 

二学期になって、先輩に運動会のハリボテ作りについて聞かされた。

 

各科、毎年、運動会に合わせて人に3倍ほどの高さのハリボテをグランにこしらえる。

 

そして例の応援合戦をするらしい。

 

この行事のための応援指導だったのか。

 

何てばかばか強いのだろうか。

 

最初はそう思っていた。

 

しかし、先輩に小麦粉ノリの作り方やハリボテの芯の竹細工を習うと、徐々にハマっていった自分があった。

 

毎日9時ぐらいまで作業は続いた。

 

遅くなった学校というものは独特の空気感を持っている。

 

7時くらいからは定時制の人たちがやってくる。

 

今まで知らない連中。

 

彼らは仕事を終わってから勉強をしにやってくる。

 

このハリボテ作りのおかげで私は彼らの存在を知った。

 

竹は毎年、近所の農家から分けてもらいに行く。

 

各自持ち寄った新聞紙を巨大な竹籠のようなものに小麦ノリで貼っていく。

 

徐々に巨大なハリボテができる。

 

我々は何を作ったのだろうか、ドラえもんだったかな。

今ではよく覚えていない。

 

*****

 

人とは環境になれるものなのですかね。

 

この運動会のハリボテと応援合戦。

 

あんなに軽蔑していたはずなのに当日は盛り上がっている自分がいました。

 

クラスの応援代表のO君は声も張り裂けんばかりの応援をしていました。

 

我々も彼に合わせて叫びました。

 

O君には三年に兄貴がいます。

 

そんな関係で自ら応援代表を引き受けてくれました。

 

先輩がクラスにきて応援代表を決めるとき、先生に当てられないようにできるだけ体を小さくしてじっとやり過ごす自分がいました。

 

そんな中、O君が手をあげてくれたのです。

 

恐らく兄貴から事前に言われていたのでしょう。

 

こうして一年目の運動会が終わりました。

 

ハリボテは火をつけて焼いたと思います。

 

*****

 

翌年、あれは確か数学の若い先生の授業の時でした。

 

授業を聞くものは皆無。

 

2周目についに小ぶりな彼はキレました。

 

キレた相手は番長グループではありません。

 

比較的、ましな奴でした。

 

しかし、その彼はこの日は何故か虫の居所が悪かったのでしょう。

 

その小ぶりな先生に注意をされると教壇に迫りました。

 

するとその先生、何を思ったのか、いきなり彼を殴ろうとしました。

 

殴られかかった彼はおもむろに小柄な先生の頭を上から押さえ込みました。

 

彼はとても図体が大きいのです。

 

まるで漫画を見ているようでした。

 

頭を押さえられた先生は腕を動かすのですが空振りなのです。

 

勿論笑ってはいけない場面なのですが一同、うわーと笑いました。

 

****

 

次の週から小ぶりな先生は来ませんでした。

 

お辞めになられたと聞きました。

 

この件以来、例の大柄な比較的まともな彼はクラスの議長になりました。

 

私は相変わらず「高等小遣い」、彼は番長グループからも認められて議長に担ぎ上げられたのです。

 

*****

 

この辺りからクラスに新しい風が吹きました。

 

誰ともなく下級生に対するシメや応援団の理不尽なシメに対して不満が吹き出しました。

 

これに番長グループも呼応したのです。

 

ここが少し違った。

 

普通、不良というものは自分より上位組織の言うことは聞くものです。

 

ヒエラルキーを重んじるものなのですが。

 

しかし、違った。

 

彼らは上級生からのシメに対抗したかったみたいです。

 

議長を中心にこのシメ問題が議論されました。

 

私も参道の旨を発言しました。

 

クラスの全員一致でシメを排除しようと議決しました。

 

******

 

そんな矢先に電子科の先輩が2、3人連れ立ってクラスに来ました。

 

番長グループは彼らを取り囲みました。

 

彼らは先輩の胸ぐらを掴みました。

 

クラス全員が先輩を囲みました。

 

するとどうでしょう。

 

今まで我々をシメていた先輩隊は泣き出したのです。

 

*****

 

このことはすぐに3年生に伝わったのでしょう。

 

クラスの例のO君の兄貴達がクラスにやってきました。

 

兄貴はそこで意外なことを喋りました。

 

彼は私と同じクラス委員でした。

 

「実は自分も同じことを考えていた。こんなのはいけないと」

私たちは安堵の思い出兄貴達に会釈をしました。

兄貴は言いました。

 

「俺たちはもう卒業するから、お前ら好きなようにしたら良いい。俺たちがやれなかった分まで。」

 

*****

 

それから先輩達のシメ無くなりました。

 

しかし、まだ応援指導部があります。

 

彼らはすぐにクラスにやってきて2、3人殴りました。

 

それでも我々は負けません。

 

番長グループを中心に彼らを追い返しました。

 

こんな事が何回となく続きました。

 

その頃になると我々電子科の反抗は学内でも有名になってきました。

 

生徒会会長を中心に暴力反対のキャンペーンがおきました。

 

*****

 

それでも他の科とのいざこざを避けるためにシメをなくしても運動会のハリボテは作りました。

 

そして応援合戦もお付き合いしたのです。

 

******

 

我々はついに3年生になりました。

 

すぐに下級生を集めて集会をしました。

 

そこで議長が無意味なシメをもうしないと宣言したのです。

 

その年の電子科にはシメはありません。

 

新入生をいじめることもありません。

 

和気あいあいとハリボテを作りました。

 

ことがこれでハッピーエンドになればよかった。

 

しかし、現実は。

 

2年生の生意気なやつが我々上級生を舐め始めたのです。

 

それでも我々は彼をシメません。

 

すると日に日に彼らは態度が大きくなってきたのです。

 

そして一年生をシメる連中も出てきました。

 

歴史は繰り返される。

 

その時、私はそう感じました。

 

無念です。

 

せっかく勝ち取ったのに。

 

私は考えました。

 

結局、バカは死ななきゃ治らない。

 

死んでも仏の邪魔になる。

 

あー、もっともだ。

 

こんな歌がありましたっけ。

 

続く

 

こころのとまり木 8−2横浜市立鶴見工業高校電子科の話 2 

 

担任の先生は初老のとても穏やかな紳士であった。

 

教科は国語担当。

 

喋り方もとても教養人。

 

一応、私は落ち着くを取り戻した。

 

あるからのこと、授業のこと、色々お話があった。

 

今日はここまで。

 

私は少しこの学校に期待しつつ下校した。

 

 

*****

 

翌日、教科に先生のオリエンテーションがあった。

 

電子科ということで期待が高まる。

 

クラスでは休み時間になると相変わらず小競り合いが続いていた。

 

後で知ったのだがこれはクラスの番長を決めるためのいざこざだった。

 

私の知らないところでそれが徐々に行われていたようだった。

 

何故、自分がそれに関わらなかったのかよくわからない。

 

恐らく自分は弱そうだったから相手にされていなかったのかもしれない。

 

なんとなくクラスの番長は誰と決まったらしい。

 

近くのガラの悪い中学校の人だった。

 

頭はそこそこ良いみたいだ。

 

担任からは私はクラス委員を命じられ。

 

番長らしい人が私を「高等小使い」と言いた。

 

このクラスではクラス委員は「高等小遣いなのか」

 

私はまたまた、不安にさいなまされた。

 

そうこうして放課後を迎えた。

 

そこにいきなり怖い2年生の電子科の上級生が現れた。

 

「お前ら、ここで待て」

 

私は不安で身動きできない。

 

今度はガラの悪い、顔に切り傷のある電気科の先輩らしき人がやってきた。

 

とても強そうな怖そうな人だった。

 

「お前ら、今日から一週間、応援練習をやる。放課後は屋上に集合。帰るなよ。」

 

*****

 

新入生全員、屋上に集合した。

 

例の怖い電気科の先輩が手下のような生徒に顎で指示をした。

 

校歌の練習と応援練習をやるらしい。

 

校歌といってもわたされ紙をみながらいきなり歌うのはしんどい。

 

すると「声が小さい」と怒鳴られた。

 

「明日までに校歌を覚えてこい」

 

私の隣の生徒が歌はない。

 

手下は彼を列から引き摺り出した。

 

彼は屋上のコンクリの床に正座させられた。

 

それでも彼は歌はない。

 

手下は彼の正座している足に竹刀を突っ込んだ。

 

彼の目から涙が溢れた。

 

私はこんな情景を生まれて初めて見た。

 

屋上には一人、先生がいる。

 

彼はこの情景を見てみぬふり。

 

後で知ったのだがこの先生は数学科の人で応援指導部(ダンぶ)の顧問だそうだ。

 

声が枯れた。

 

あちこちでシクシクなく声がかすかに聞こえた。

 

「ふざけるな」

 

手下の声がかぶる。

 

これがこの学校での地獄の始まりだった。

 

******

 

次の日も屋上で応援練習。

 

しかし、私の隣の彼は居なかった。

 

40人定員の電子科はこの日に37人になっていた。

 

放課後の地獄の後、私は何事もなかったように帰宅した。

 

親父にこんなことが知れたらタダでは済まされない。

 

恐らくウチの親父は学校に怒鳴り込んで応援指導部の長と渡りあうに違いない。

 

そんなことになったら私はいたたまれない。

 

私は面倒な親父にことの次第を言わなかった。

 

****

 

次の日、何人か正座竹刀をやられた。

 

私もその一人。

 

痛かった。

 

声が小さいと無差別でやられる。

 

雷にあったようなものだった。

 

 

*****

 

それでも一週間があっという間に過ぎた。

 

もうこれで大丈夫か?

 

しかし、その後がまだあったのだ。

 

今度は2年生の電子科の先輩のシメ!

 

放課後になると2年生が応援練習と称して我々をシメにくる。

 

殴られたやつもいる。

 

廊下で先輩にあったら挨拶をするように強要された。

 

これが結構ねちっこい。

 

こんなことが一学期間続いた。

 

勉強どころではない。

 

続く

 

こころのとまり木 8−1横浜市立鶴見工業高校    電子科の話1 

 

前にもお話しいましたがこの学校は現在、サイエンス・フロンティア、サイフロという学校に変わりました。

 

とても優秀な学校のようです。

 

俗称、鶴工と言います。

 

鶴見には頭の良い学校があります。

 

こちらは鶴高、県立鶴見高校。

 

私の通った方は頭の悪いので有名な方でした。

 

それが今では頭の良いサイフロとはなんという事でしょうか。

 

横浜には工業高校が何校かあります。

 

トップは神奈川工業高校。

 

ここは私にとってそれなりに難しい。

 

特に電子科と産業デザイン科は。

 

私は電子科を目指していたけど、私立を併願していなかったので担任から本命を外されました。

 

当時はそんな時代だったのです。

 

それなりの偏差値の高い公立高校を受ける友達は殆ど法政二高や武相高校をかけました。

 

私は家が貧乏だったので公立一本、そんなわけでランク落ちの鶴工になったのでした。

 

学用品を母親と買いに出かけますと、担任というとても上品な先生が私に近づいてきました。

 

願書で私の顔を知っていたのでしょうか。

 

「明日の入学式の新入生総代をやって下さい。」

 

たまげました。

 

「ああ」とだけ答えました。

 

その後職員室に呼ばれて打ち合わせをした覚えがあります。

 

******

 

入学式。

 

私は壇上に登りました。

 

何を話したのか全く覚えていません。

 

すぐにヤジが飛んできました。

 

物凄いヤジが。

 

「何言ってるのか聞こえねーよ。」

 

「しっかりやれよ。」

 

全身が硬直しました。

 

怖かった。

 

何がなんだか怖くて震えながら壇上を降りようとした時、つまずいて階段を転げ落ちました。

 

ドット笑いの渦。

 

これが私の苦い初日でした。

 

悔しいことに、今でもそのことを鮮明に覚えています。

 

教室に入るとクラスの何人から声をかけられました。

 

「ドジ夫!」

 

変わるがわる私のそばに生徒が来て、「ドジ夫」

 

低い、そしてドスの効いた小さい声で。

 

すでにイジメは始まっていたのです。

 

私は震えながら頭を抱えて机に座りました。

 

そしてそっと目を開けて、あたりを見回すとあちこちで小突き合っている光景が。

 

殴られてメガネが飛んでいた奴もいました。

 

同じ中学からきたおとなしいヤツも殴られていました。

 

何て学校だ!

 

全身に恐怖が走りました。

 

明日から俺はどうしたら良いのだろう。

 

不安と恐怖が込み上げてきました。

 

早く、担任に来て欲しい!

 

 

続く

 

 

学校生活46−2       一学期終業式 続き     目路はるか教室より 

 

これから成績を頂くわけですね。

 

先程本を読んでいて、こんなフレーズが目に止まりました。

 

「袋の中にあるものしか取り出せない」

 

ただこれだけ。

 

たまたま読んでた本にそう書いてありました。これどういうことかわかるかな。

 

諸君の成績も同じ。

 

自分がやったものしか貰えない。

 

宝くじみたいに当たるわけにはいかない。

 

自分が努力した分しか返ってこない。

 

これが先のフレーズ。

 

これ肝に命じて欲しいです。

 夏休みに向けてお手紙が来ています。

 

どこからかというと諸君の「目路はるか教室」の先輩、つまり講師の方からですね。

 

これを紹介してもらうと、今日の終業式にふさわしいですね。

 

「目路はるか教室」の担当の〇〇先生、いらっしゃいますか。

 

どうぞ宜しくお願い致します。

(〇〇先生 談)

 「目路はるか教室」のコースリーダーの諸君、林間・自然学校の前、準備会が終わった後で各講師の方に手紙を書いてもらいました。

 

君たちの熱い思いが伝わったのでしょうか、早速3通のお返事が戻ってまいりました。

 

時間の関係で1枚だけ紹介ます。

 「丁寧なお手紙ありがとうございました。

 

数々の魅力的なプログラムがあったでしょうに私の地味なコースを選んでくださったこと大変うれしく思っています。

 

将来きっと国内外の大きなシーンで活躍する立場に立って行く君たち。

 

だからこそ身近な出来事や小さな命を大切にする人になって欲しいなと思うのです。

 

ちょうど30年前、普通部に入学して教えて頂いた事のごくごく一部かもしれないけど皆と共有できるよう私も全力を尽くす事をお約束します。

 

お会い出来る日を楽しみにしています。

 

○○君、〇▽君、その他21名のメンバーにどうぞ宜しくお伝えください。

 

また意見や希望などの講座に直接関係ないことでも構いません。

 

いつでも気軽に連絡下さい。」

 こういう心温まるお手紙を頂きました。

 

30名の講師の方々、君たちに会えるのを楽しみにしております。

 

長い夏休み、君たちも講師の方々の熱い思いを汲んで一生懸命勉強して、11月の目路はるか教室に望んで欲しいと思います。

 

今年の目路はるか教室は第9回目になるのですが、一つ大きなテーマがありまして、これは講師の方々が希望されていることなのですけど普通部生ともっともっとやりとりをしたい。

 

強い言い方をするとディベートということになりますが、君たちと沢山意見交換したいということ。

 

その為には君たち、一生懸命、夏休みに本を読んだり、新聞を読んだり、自分を磨いて下さい。

 

十分に準備して秋に望んで欲しいと思います。以上です。

 〇〇先生ありがとうございました。

 

では諸君、また来学期元気な顔でお会いしたいと思います。

 

やらなくてはならないと思われる事は自動的に処理、良いことに取り組む時は能動的にね、アクティブにね。


それではまた。   

 

学校生活46−1 一学期終業式 頭の使い方はオートマチックに 

 

おはようございます。


 林間・自然学校も終わって、いよいよ1学期も今日で終わりますね。

 

わたくしも一年生の方にお供して白根の山頂まで登って来ました。

 

さすがにわたくしには少しきつかったですね。

 

今年の一年生中々体力があって、ついて行くのにしんどかったです。

 

2年生は聞いたところによるとプールにいったのかな。

 

岩菅山の登山も無事に終わったのかな。

 

わたくしも過去、岩菅山にも何回も登っていますが、高度からいったら岩菅山の方が高いのですが、実際に登ると白根山の方がきつい感じがしますね。

 

1,2年生は知らないかもしれませんが3年生は今年から飛行機を使用しました。

 

中々良い自然学校が出来たと聞いております。

 

これには天候が特に左右されるから来年のことはまだわからないけどね。

 

今年は3年生の先生方が良い思い出をと大いに骨を折って計画を立ててくださいましたね。

 

1年から3年までの旅行が無事に終了することが出来ました。

 ここで今一度学校の中を振り返って見ましょう。

 

今日は終業式と言うことでお話があります。

 

実は2年生にちょっと嫌な事があったのです。

 

もうやった人達も反省していることだから、ここで今更言うこともないかもしれないけど諸君に少し考えてもらいたいことがあります。

 

そこであえてお話をしたいと思います。

 

ある連中が人の嫌がることをしたのですね。

 

本来なら、やった人達、やられた人を呼んで罪を認めさせるといった個人間の問題ですが。

 

一部の生徒の事で全校生徒の問題ではないかも。

 

先程まで実は悩んでいました。言うまいか、どうか。

 

でも言うべきと決めました。

 

それは、わたくし部長になって常々思うのですが普通部はとても良い学校です。

 

でもどうしても一つだけ諸君に期待したいことがあるのです。

 

せっかく年齢差がある諸君が集まっているのだから最上学年の3年生は色々な面で下級生を見てほしい。

 

下級生の面倒も見ることもふくめてね。

 

例えば今回のことでも意外と諸君の方が先生達よりも先に情報を得ているんだね。

 

学年を超えてね。そんな情報が入ったら「おい、やめろよ」と言ってくれる生徒がいたら。

 

このあたりに関しては普通部は弱い気がします。

 

個々の生徒は素晴らしいと思います。

 

しかしどうも他人のことになると、それこそ他人事、「俺には関係ない」感が強い。

 

それ自体は一概に悪いことではない。

 

他人に干渉しない、個人主義であるといったらその通り。

 

それぞれが自分で生活しているのだから。

 

でも、物事の善悪の場合はそれは成り立たないかもしれない特に。

 

悪いことがあったら「それは俺には関係ないよ」では寂しですね。

 

そう思ったので今回は諸君に事の次第をお知らせしました。

 

1年、2年は注意しない、3年生が注意しろと言っているのではないですよ。

 

3年生が先頭に立ってキリッとすると学内が良い方向になるのではないでしょうか。

 

3年生、宜しく。今わたくしが話した問題は、たまたま発見されたのかもしれません。

 

この中にはもっと問題が隠れているのかもしれません。

 

嫌な事をされている人がもっといたりするかもしれません。

 

その時、周りがそのことを無視しない、そういう学校になってもらいたいですね。

 

常々思うのですが、今この目の前の720名前後の人の中で色々ごちょごちょ起きるのなら、もっと大きな世間あるいは日本の社会で上手く行くわけないよね。

 

こんな小さい世界でだめだったら。

 

だからこれは実験だと思って先ずこの720名の世界で嫌な事は未然に防ぎたいですね。

 

そんな気持ちが終業式にあったて脳裏をかすめました。

 それから勉強の事をお話しましょう。


 今日これから諸君は担任から頂くものを頂くわけですね。

 

人間と言うのは大方の人が勉強、特に暗記は嫌いですけど、これは頭の使い方が下手な人が多いと思います。

 

よく聞く、「俺は勉強が嫌だから嫌なんだ」と言う人いるけど、今の中学の時代に基礎をきちっと築き上げておかないと今後、上級学校に行くとどうにもならない。

 

そこで頭の使い方何ですが、頭というのは興味のないことは特に受け付けない。

 

では興味のないことはやらなくていいのかとはなりませんね。

 

興味のないことをやらなくなったら成績ガタガタですよね。

 

それは分かっているから無理やり自分お尻を叩いて勉強する。

 

そしてもっと勉強が嫌になる。

この繰り返し。

 

そこで提案。頭の構造を上手く利用して人間はこの嫌になるとやらないという思考パターンを一旦休ませてオートマチックにつまり自動的にやるという機能を使う。

 

人間の頭にはこんな機能も備わっているのです。

 

中学の時代にはそれを上手く使い分けて頂きたい。

 

例えば暗記とかやでしょ、勉強しているとこういうことありますよね。

 

どうして嫌な部分、「何でこんな事やらなくてはいけないの」という気持ちになったら自動的な方を使って頂きたい。

 

諸君が朝起きたら歯を磨いて、顔を洗って、食事をして、服を着替えて、電車に乗って普通部に来る。これがオートマチックな行動。

 

これを利用するのです。

 

そうすると辛さが半減される。もう一つの方、つまり「俺は何でこんな事しなくてはいけないの」、この物事に対して疑問を持つ、これはこれで必要なんですね。この思考はどういう所に使うかというと例えば労作展に取り組む時に使うとか。

 

つまり自動的ではなく頭を使う思考なのですね。

 

この時、労作展に対して「何で俺はこんな事やらなければいけないんだ」というのではなく、「俺は何をやりたいのか」とならないと。

 

労作展というのは決まっていても労作展の中身、これは自身が自ら決めるのだから。

 

これに思考を使う。これには疑いの精神、疑問の精神、つまり考える精神を使うと、良い物が出来かもしれません。逆に労作展をオートマチックに取り組んではだめ。

 

このように頭をその都度使い分ける。

 

この話は先ほどの2年生の話と重なってきます。嫌な事する人は殆ど自動的に間違った行動を取る。

 

人に嫌な事をする、最初はドキドキ、でも慣れると今度は楽にまたやる、そして殆ど自動的に嫌な事をする。

 

だから悪いことに自動的な時は自らの気持ちを一つ一つ疑う、これを能動的と言うのですが、この二つ、自動的と能動的が頭の中にあります。

 

うまく切り替えてましょう。きっとうまくいきますよ。

 

 

46−2に続く


 

 

学校生活45        卒業式 本物に出会う 

式辞、慶應義塾普通部長

 今、正に卒業した諸君、おめでとう御座います。その諸君が今、手にしている卒業証書のこの一番上に金色に輝いているているペンマーク。

 

これの重みを心にしっかりと刻み込んで下さい。

 

普通部のこの細いペンマークを。

 

保護者の皆様、本日はおめでとう御座います。

 

ご子息がここまで来るには本当に大変な道のりであったと思います。

 

今、彼らは無事に卒業証書を手にすることが出来ました。

 

本当に心からお祝い申し上げます。

 

さて諸君、今回諸君の同胞、234名が卒業することができました。

 

内訳は219名が慶應義塾高等学校、6名が慶應義塾志木高等学校、9名が慶應義塾湘南藤沢高等部にそれぞれ進学することが出来ました。

 

大変慶びに満ちた瞬間です。

 

普通部卒業生となって旅立つ諸君はこの普通部で何を掴みそして高校に行ってそれをどう花咲かせるか、本当に楽しみです。

 

この学年はわたくしが一年生の時に担任をした学年です。

 

それも影響してか非常に今日は胸に粛々と思いがこみ上げられます。

 

先程、諸君に卒業証書を手渡しした際、最後の○○君で終った時に保護者席の方から掛け声の言葉がありまいしたね。

 

本当に嬉しいばかりです。

 

今、諸君の姿を拝見していると本当に端正という言葉が相応しい。

 

端正な普通部生を久しぶりに拝見します。

 

この端正さを持続しつつ是非、高校に進学しても普通部生活3年間のこの経験を大切にして下さい。

 

卒業にあたってわたくしの方から諸君にお話ししたいことがあります。

 

それは常に本物に出会う機会を多くしなさいということ。

 

この言葉を諸君に送りたい。

 

本物、どんな側面でもいいから本物本物に常に出会っていれば、逆に偽物は寄せ付けない。

 

スポーツでも知識や経験でも芸術でもどんな場面でもいいから常に本物に出会うことを心がけて下さい。そうすると偽物に会った時には違和感を覚えます。

 

本物に出会って下さい。これがわたくしからのお願いです。

 

普通部生諸君は保護者の方の不断の努力の賜物で実は、本物に出会えるチャンスに大変多く恵まれています。

 

また多くの友人を持っている。慶應義塾という社中。

 

これは諸君が持っている大きな宝です、財産です。

 

青春の間はいろんな知識や経験をまだだまだ沢山吸収しなくてはなりません。

 

その中には今は無駄と思はれる物も多くあるかもしれません。

 

恐らく高校に進学しても、まだまだ多くの知識を詰め込めなくてはならない部分もあるでしょう。

 

この先やっと大学を卒業して、徐々に人は逆に不要な知識を精査していく。

 

蓄えた知識の中で自分がこれだと認めた道筋が見えた時に、最後に何かにたどり着く。

 

これが人生なのではないかと今のわたくしは思っております。

 

まだまだそういう意味で諸君は大忙しです。

 

それが少しずつ道が開けた時、諸君自身が正に「本物」になっていく。

 

これがわたくしの言葉です。


 卒業おめでとう。

 

学校生活44−2 3年保護者会 石坂浩二先輩の話 続き
 

 石坂先輩は普通部時代に描いた油絵が今でも美術室にございます。

 

鑑定団に出したらすごいことになりませんかと言いましたら笑っておられました。

 

石坂先輩とは良い一日を過ごせました。


 そして本日は音楽会ですね。

 

私も後ろでずうっと聞いておりました。

 

中々皆、元気があっていいですね。

 

カッコつけていた生徒もいたけど気持ち的には今年の3年生、本当に全般的に気持ちの良い子が多いですね。

 

日頃から普通部では形にうるさいこを言いますが、我々教員の方も服装が少し緩いからと言って悪い生徒と思っているわけではありません。

 

色々な子がいますけど、それはまあ、中学生時代の男の子だからしょうがないと思いつつ、それでも注意しないと完全にはめをはずされていもまずいとこういうことなのです。

 

本来はいわれなくてもきちっとしてくれればいいのだけどもと言う思いは確かにあります。

 

しかし、私としては普通部全体をみれば及第点と思います。

 

今日の音楽会でもパフォーマンスで葉っぱ一枚で踊るというのがありましたが、事前に担当の先生とのやりとりで流石にそれとは言うことでレオタード姿で葉っぱのコピーを貼り付けてやってましたがずいぶん受けていて中々楽しいなと思いました。

 

最後にマスクをとって投げていました。

 

あと男の子ですからエレキギター多いですね。

 

これはもうそういう年頃なのでしょう。

 

傍に軽音楽部の先生がいたので、「どうして皆、つぶれたような音をだいているのですか」とお聞きしましたが、あれはディストーションというらしいのですが「やはり年頃なのでしょう」と言っておられました。

 

クリアーな音ではなく「俺立ち反抗的だぜ」ということでしょうか。

 

この中でもご家庭でそういう音を出している諸君がいるのではないでしょうか。

 

我々の時代はエレキギターを持っていると不良だと言われました。

 

それとオートバイ乗る人も不良。

 

今はそんなこと言われませんね。

 

これぐらいの年代はパワー炸裂のかな。

 

兎も角、良い音楽会でした。


 これから皆様のご子息は高校に行かれますが今日の音楽会を見ていて個人差が随分と見られました。

 

ぽやんとしていた子がいたり、「あれこの子はかなり大人びているな」。

 

この収支決算がつくのは高校時代だと思います。

 

大学になると成長の個人差はなくなります。

 

高校1年が特に精神面、肉体面で気を付けたいところですが、高校は何せ義務教育ではないので普通部に比べて、やや冷ややかな感じがするかもしれんません。

 

私のところにも高校で上手くいかなったり、逆に楽しいといった真逆のことを言う子が来ます。

 

5月6月くらいには、特にこういう報告をする子が多いですね。

 

そういう時には、こちらもメンテナンスを忘れてはいませんのでご心配はいりません。


 この学年はいきなり10月に私、普通部長として登板したわけでかなりやりにくいこともありましたが何とか卒業までこぎつけました。

 

本当にうれいい限りで御座います。