こころのとまり木 8ー5横浜市立鶴見工業高校電子科の話 5 最終回 

 

前に書いたように私には中学からの友人がこの学校にいる。

 

彼は中学の時に私と同じに工業高ではトップの神奈川工業高を目指していた。

 

そして担任から私と同じようにランク落ちさせられて鶴見工業高校の電気科に入った。

 

そう、彼も貧乏人の息子。

 

当然、私立なんぞかけられない。

 

私と彼は因縁があった。

 

こうして高校も同じになった。

 

その彼が3年生の春に突然、大学進学をすると言ってきた。

 

私はというと就職のことしか頭になかったので小学校の時の夢、教師になることなど当の昔し消え去っていた。

 

彼は私と同じクラブ、電気研究会に所属していた。

 

二人で屋上に上がってアマチュア無線のアンテナを立てているとすぐに白いワイシャツに黒い埃のような物が付着した。

 

光化学スモッグが発生して炭の粒のようなものが浮遊していた。

 

当時の鶴見工業高校が建っているこの小野地区は最悪の京浜工業地帯。

 

自分の未来のように空はいつもどんよりしていた。

 

束の間の幸せは食堂で食べるカレー定食、小麦粉の味がするカレーに薄いカツが乗っかっていた。

 

この安い食べ物は「定カレ」と呼ばれていた。

 

この定カレとピープルCというジュースを飲むこと、これが当時の私には一番の楽しみだった。

 

ある日、彼とこの「定カレ」を食べていると彼がバイトを探しに行かないかと誘ってくれた。

 

鶴見小野の街のどこからとなく聞こえる機械のけたたましい音の中、我々は町工場を何件も尋ねた。

 

一年生の三学期に卒業生を送る予餞会が生徒会主催で行われた。

 

映画が上映された。

 

吉永小百合と浜田光夫の「キュポラのある街」

 

あの独特の暗さがこの街にはあった。

 

結果、バイトは見つからなかった。

 

高校生がやるような仕事はないと言われた。

 

危険なのだ、この地帯の仕事は。

 

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彼は明治大学を目指しているらしい。

 

私はこの時も大学のことなど考えたこともない。

 

しかし、優柔不断の私は彼の大学進学の話を聞いているうちに自分も行きたくなってしまった。

 

具体的に進学を目指した訳でわないがラジオ講座の雑誌を買ってなんとなく勉強を始めていた。

 

教師への夢がムラムラと湧き上がっていたのである。

 

こうして私はまたもや彼に背中を押された。

 

その後の私の教員生活は彼無しでは語れない。

 

そして私の影響でクラスでも3人ほど大学を目指すやからが出た。

 

一人は相模工業大学、一人は私と同じ学芸大学に二浪して入学した。

 

彼はというと三浪して念願の明治大学に入った。

 

私と違って文系を目指したのでとても難関だったろう。

 

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私はこの鶴見工業高校で多くのことを学んだ。

 

電子科には豊岡先生という後で知ったのだが初期のコンピューターに造詣がある人がいた。

 

先生はのちのY校、横浜商業高校の敷地にある情報処理の研究所に変わられた。

 

先生はよく、よく初期のコンピューターはものすごい量の真空管でできていて、一と教室いっぱいの大きさだったと言われたことが今でも忘れられない。

 

そして、よく真空管がきれるので差し替えだけで1日が終わってしまい計算ができなかたそうだ。

 

私はこの先生から電気の波形を視るオシロスコープ(本当はシンクロスコープ)の扱い方やトランジスタ回路の勉強を教わった。

 

先生から紹介されたシンクロスコープの参考者を大学に入学してから神田の古本屋で購入した。

 

その監修者が日本のUFO・テレパシー研究家の関英夫先生だった。

 

最初は同姓同名だと思った。

 

電子工学の先生がUFOやテレパシーの研究しているはずがないと思ったからだ。

 

しかし、違った。

 

関英夫先生は紛れもなくUHFOや加速学習の研究者だったのだ。

 

このご縁には驚いた。

 

思えば図書室で見たハイゼンベルグの不確定性原理。

 

電子の世界では当たり前な壁をすり抜けるトンネル効果。

 

関先生はこの時代に量子コンピューターのことやテレパシーを量子レベル、素粒子レベルで説明できると予見していた。

 

先生は電子を勉強すると不思議な世界を知りたくなるとどこかの本で書いていらした。

 

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話を戻すと、何せほとんどの人が勉強をしないから、実習室や機材は使い放題。

 

このことは東京学芸大学に入ってからとても有利だった。

 

電子回路の実験は先生の代わりに私が仲間に教えた。

 

電気関係の単位は殆ど訳なく貰えたし、学部生なのに東工大附属電子科から来た奴と研究室も貰えた。

 

全ては横浜市立鶴見工業高校電子科。

 

痛い思いもした。

 

恥も大いに書いた。

 

後輩のアホらしさにも嫌気がさした。

 

空気の悪い暗い高校生活だった。

 

先輩のシメにもあった。

 

応援指導部にも悩んだ。

 

進学で仲間にもハブられた。

 

カバンの中にはよく、タバコを仕込まれた。

 

しかし、

 

今は無い、この学校なくしては以後の自分はない。

 

今、こうしてハンダゴテを握ってアンプを組み立てているのも。

 

           終わり

なぜこんな文章を書くのか?

それは自身の否定的な事象を肯定的なことに変えた道筋を皆様にお示ししたいからです。

あるひとはこれをお前のサクセスストーリーになんか興味ないと言いました。

この見解は違います。

もし、そう捉えるのなら人には必ずサクセスストーリーがあるのです。

ただ、そのことが見えないのかもしれません。