マイケル・カーティス 俺たちは天使じゃない We're No Angels

 

確かリメイク版では同じく三人組ではありますが気の弱いふたりにもうひとりは彼らが嫌悪するような凶悪犯で言わばそのごり押しに引きずり込まれて脱獄するそんな物語だったはずです(ニール・ジョーダン監督『俺たちは天使じゃない』)。ロバート・デ・ニーロとショーン・ペンが千歳飴のようなねちっこい芝居合戦を見せてそれはそれで面白いのですがここは何と言っても1955年のマイケル・カーティス監督版です。こちらはハンフリー・ボガートを頭にした気の合う三人組で苦もなく脱獄に成功すると高飛びに必要な御足を手に入れるために雑貨店に忍び込みます。ところがそこの店主は拍子抜けするほどの好人物で何と自分たち三人を店員として雇います。そうやって雑貨店の店員になって(まあお気楽ななりすましの身分だけに)ガラス窓を拭く高い脚立から見下ろしてみるとこの店と店を取り巻く諸々が手に取るように見えてきて何はともあれ店主一家がすこぶるつきの気のいいひとたちだということです。しっかり者で最初こそ三人を訝しんでいた奥さんもすっかり心を打ち解けると家族のクリスマスパーティに三人を同席させる情愛の深さです。可憐なひとり娘も三人を疑うことを知らずいつの間にか高飛びのことなんかそっちのけで三人は世間知らずにしたたか者に乗り込まれては店から将来のことまで啄まれていくこの家族を守ることに専心します。それに考えてみればどんなに遠くへ逃げたところでとどのつまり薄暗い路地から路地を逃げ廻るだけのことでここならば好人物たちの落ち着いた幸せを胸一杯に吸い込んで自分たちもまたその幸せに落ち着いていられる、もしかしたら自分たちが(高飛びの向こうに)夢見ていたのはこの家なのではないか、そう思われてきます。あんな監獄いつだって脱獄できますからおとなしく刑期に服しつつ好きなときにまたこの家に立ち寄って... そう心を決めると何とも朗らかな足取りのわれらが天使たちです。そうです、今回のお話は悪党ながらその身を呈しても愛する者たちに捧げずにいられないそんな彼らの献身ぶりを見ていこうというわけです。

 

 

 

私がかつて見たヴィデオ版の『三悪人』(ジョン・フォード監督 1926年)には淀川長治の解説が(『日曜洋画劇場』のように本人ご登場で)添えられて、その淀川によると本作の公開された昭和初期にはこれを<西部人情劇>と呼び慣わしていたとのことで結末で天高く蹴上がっていく悪党の献身に弁士もさぞや声涙を振り絞ったことでしょう。先住民の保護区を開放して広く入植を促すために同日同刻一斉に土地の占有を認めるというんですから人生の巻き返しを願うひとびとが来るわ来るわ、地平線まで続く馬車の列です。さてそんなお宝話に悪党も呼び寄せられて何やら高台から物色中、しかるに目をつけた馬車が別の悪党に出し抜かれて必死で駆け出す悪党三人組です。馬車を取り囲む銃撃の真っ只中を蹴散らしていよいよお宝を独り占めしようと馬車に近づくと流れ弾に息絶えた父に娘が泣き崩れていててっきり自分を救いにきてくれたのだと心のままに悪党に抱きすがります。飛んだなりゆきに棒立ちになりますが可憐な娘がひとり取り残されたことを思えば元は同じ悪党とは言え俄然彼女を守ろうという気概が湧いてきます。しかしそんな化けの皮はすぐに剥がされて町に辿り着くや娘は保安官から三人が名うての悪党であることを知らされます。おそらくこのときが行きずりの関係を越えて娘と三人が運命を強く結びつけた瞬間で保安官の脅しを物ともせず娘は三人を自らの懐に迎え入れます。やがて娘がある若者と恋仲になると三人は彼らの未来を思って最良の土地を得てそこで子供を育てる穏やかな日日を夢描きます。しかしそんな土地は周りの悪党たちも目の色を変えて手に入れようとしていて(何せ金が出るという噂でして)土地の争奪競争が幕を切って落とすと猛然と徒党を組んで追いかけてきます。そんな輩に立ち塞がり喰い止めるその間にも娘と若者を少しでも夢の土地を近づけさせようと三人はひとり、またひとりと命を散らしていくでしょう、そうまでするのは娘が自分たちを家族と思って揺るぎないからで命と引き換えにして悔いのない未来を彼女に託すわけです。

 

 

 

ウィリアム・A・ウェルマン監督『人生の乞食』(1928年)はアメリカの絢爛たる繁栄の裏地をさまよい歩く浮浪者たちの物語でいやあ空きっ腹に何ともいい匂いが漂ってまいりますよ。丘に木陰が翻る穏やかな農家では朝飯どきなのかベーコンにパンが風に漂って手招きしています。アーリーアメリカンの露台をついつい上ってしまって覗き込む網戸の内側には匂いに違わぬ料理の数々が並んでいて胃袋を鷲掴みにされるまま部屋に入るとおそらくその屋の主人が料理以上にまだ温かい血を流して床に死んでおり彼を撃った女もそこにいます。混乱したこの状況に女が語るところによれば彼女は家主を里親にして引き取られた身の上ですが養女とは名ばかりに下女代わりにこき使われ今朝はとうとう体を奪おうとしたため堪りかねて撃ったのだと泣き崩れます。しかしどう言い訳したところで極刑であって浮浪者は女を連れて逃げますが自分とてその日暮らしに喘ぐ身であってか細い(というか目を引く美しい)女連れとあっては宵闇が絡みつくように危険が棚引きます。いまも空腹に押し出されるように無賃乗車の面々の炊き出しに吸い寄せられますがいくら夜の暗がりに押し込んでも匂い立つ女の姿をめざとく悪党に見つけられて以降悪党は女を我がものにしようとふたりを付け回します。いよいよ荒野に打ち捨てられた小屋に追い詰めると自分と来るか男と一緒に殺されるか、しかるにふたりは互いに相手を助けようとわが身を投げ打つその姿に心ひそかに悪党は打ちのめされます。心のなかを何か聖なるものがひと文字ひと文字火の指で記すように刻まれていくかのようです、<聞いたことがあるだけで本当にあるのを見たことがなかった、これが愛というものか>。悪党は寝たふりをしてふたりを逃がしてやると彼らを一生付け回しかねない殺人犯という罪状を帳消しにすべく大挙して押し寄せる警察を自分に引きつけながら乗り込んだ貨車に火を放つます。疾駆する風に煽られて瞬く間に広がる炎に立ち上がって悪党は浮浪者の素振りを真似て警官に見せつけると激しい銃撃を浴びながらふたりがそのまま焼死したという偽装をやり抜きます。いよいよその一発を体に受けながら愛に打たれた魂を掻き抱くように列車に振り落とされる最期にひと知れず岩場に命を横たえるとしても。


ウィリアム・A・ウェルマン 人生の乞食 Beggars of Life

 

これまでの献身が愛を目撃してしまったためにそれを守らずにいられなくなる悪党たちであったとするとそれを自分のなかに芽生えさせることでヒロインに捨て身の献身を行うのがロバート・アルドリッチ監督『傷だらけの挽歌』(1971年)です。夜の街を遊び廻るお金持ちの娘がチンピラのタタキに引きずり込まれて最初は彼女が身につける宝石が目当てですが何人も殺されるうちに目的が彼女の身代金になっていくと情け容赦ない連中に彼女とて自分の行く末に震えています。実際金と引き換えにすんなり返す気などさらさらなく彼女が案じている通りを計画中ですが、そんななか連中の一番若い悪党が(実際誰かれ構わずナイフで切り刻む、やや知恵が回りかねる冷血漢なのに)ヒロインの可憐さに自分のなかに生まれた感情をどうすることもできません。さんざん人を殺しながら女をどうしたいということも知らない不思議な純真さを生きていて娘からしたら彼の知恵の覚束ないことをいいことに適当にほだしながら自分が生き残る道を繋ぎます。その頃名士である彼女の父も何とか事件を極秘裏に解決できないものかと独自に私立探偵を雇って捜索させていますが事件の底深さと猥りがわしいその絡み合いに(それが公になったときの醜聞を恐れて)せめて娘が殺されていてくれることを願う始末です。しかるに探偵が辿り着く潜伏の先ざきで娘が悪党と生活を共にしながら生き永らえていることがわかっていよいよ娘への嫌悪を隠しません。雲を掴むようだった誘拐事件も警察と探偵に追いつめられてひとりまたひとりと絞り出されていって気づけば奈落が広がる足許に残されるのは悪党と娘だけです。しかしその頃になって悪党の胸のうちにあるものが愛なのだと打ちのめされるのは実はこの娘の方なのです。逃げ込んだ農家の納屋でお互いの心に触れる夜の美しさは何とももう手遅れの悲しみで、最後までふたりで逃げることを娘は夢見ますが、それは容赦ない弾丸で娘を死に至らしめることであれば彼の選ぶところではないでしょう、とっくに自分の命よりも大切なのは彼女なんですから。こんな出会いでなければと思わないではありませんが、こんな出会いでなければ出会わないふたりなのであってあと彼にできるのは彼女を守るために自ら警察に蜂の巣にされる、それだけです。

 

 

 

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ジョン・フォード 三悪人 3 Bad Men

 

 

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