[ お話は 前回 から引き続いて ]
温和な微笑を浮かべて主人公なりヒロインなりの傍らに立つと現実の、もはや運命と変わりない揺るぎなさにたじろぐ彼らをそのあるべき生きざまへと促していくというのが好々爺の好々爺たる滋味です。しかるに40年代のその美しい役割がやがて50年代の空転とな(り若者と反乱そして紊乱の60年代になるとどこともなく消え失せ70年代には寧ろ牙を抜かれた若者の前に(歴史を返し縫いでもしたかのように)孤独な一刻者として現れるや(『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』『ハリーとトント』)旋風となって彼らの生き難さを吹き抜けてい)って好々爺はその役割を終えます。そこには戦後(の繁栄と体たらく)に揺れ動く家族形態の変遷を映して老人はだんだんと孤独という側面に置き去りにされていくでしょう(、あの911を逐うオムニバス映画においてショーン・ペンが撮ったのは窓際の花と暮らす(そのアパート同様にぽつねんと取り残された)アーネスト・ボーグナインのひとり暮らしです)。勿論好々爺の柔和な面差しは映画のあちこちにその残光を揺らめかせてはいます、例えば『デリンジャー』(ジョン・ミリアス監督 1973年)では部下の殺害に復讐の鬼と化すベン・ジョンソンがギャング一味を冷酷に追いつめていきます。ギャングのひとり、スティーヴ・カナリーはからくも逃げ込んだ農家でみず知らぬ主人に招かれて清楚な朝食の席に着きます。堅実に生きてきた老夫婦を前にもしこんなひとたちの許で自分が育っていたらと思わないではいられません、でもそれはあまりに遅すぎた夢であって、カナリーはふたりに迷惑を及ぼさないようにショットガンが待ち構える丘へと飛び出して蜂の巣に命を散らせます。例えば『ゲッタウェイ』(サム・ペキンパー 1972年)、銀行強盗のあり金を自分たちの未来に掛けた若い夫婦が組織からの血みどろの逃走の果てにメキシコの国境に迫ります。気のいい親父のポンコツ車に同乗して何とか国境を越えますが何となくふたりの曰くを察している親父が車の買い取りを吹っかけてきて死地をくぐり抜けたばかりの主人公は一瞬親父の始末も頭によぎりますが妻は静かに頭を振ります。ここはメキシコ、陽光が自分たちの目の前を踊るように身をくねらせる安息の未来です、血腥いことはもうたくさん。それにこれからの自分たちの幸福を誰かのちょっとした幸福で見送られたい、そんな親父の微笑みです。
戦争の40年代に本来あるべきところへと誘った好々爺の役割が戦後に空転するのは第二次世界大戦という経験がその<本来あるべきところ>をひとびとの心から失わせたからです。戦争に動員され世界の果ての果てに送られたひともそれを見送った銃後のひとびとも戦争が終われば一度は平面に開かれた箱がまた角を折られ側面を差し込んで元のこじんまりとした箱に戻るそんな心づもりだったでしょう。しかるにいざ終わってみれば戦争という大義が開いてしまった未来を前にいまさら30年代に返る気は失せてしまっています。この人心との乖離に落ち窪んだのがフランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!』(1946年)でまさに30年代的な家族と地域の心温まる寓話を描いて観客からの拒否に叩きのめされます。(余談ではありますがこのキャプラ作品をほどよく頂いて底なしのひとのよさで隣人や同僚に尽くす夫が妻に無断で家の購入資金まで貸し与えていて挙句に貧窮者支援の寄付金を強盗されるに及んで自らの善意の所在を見失ってクリスマスの夜を彷徨するレオ・マッケリー監督『善人サム』(1948年)を見るとまあゲーリー・クーパーが彼が得意とした30年代コメディ映画の主人公そのままということもありますが人間の剥き出しの何かが現実と見えざる火花を軋ませる同時期の諸作と見比べてとても戦後の映画とは思えません)。
さてあるべき姿に立ち返ることを主人公に促しながらそのあるべきものは永遠に失われているという思えば何とも切ない50年代の好々爺を象徴するのが『ララミーから来た男』(アンソニー・マン監督 1955年)です。このときの好々爺はウォーレス・フォードでかつての肉厚な二枚目が人生の年輪に鷹揚に綻んでいま彼が見つめるのはこの隊商を率いつつ彼ら隊員に行き届いた指示を出しては頼もしい限りのジェームズ・スチュワートです。アメリカの大地を垂涎の荷物を満載して先住民だの盗賊だの間を塗って運ぶわけですから銃を抱いて眠るあらくれた商売につきものの、あこぎな隊長も多いなか危機を見通す落ち着きに荷物と隊員の命をきちんと見分けているひと柄、何よりこうして旅に命を共にして自分の息子ほどのこの青年が好ましくてなりません。一方でそのひと柄を押しとどめても噴き上がる情念がスチュワートをしてこの大陸の隅々にまで彼を掻き立てさせる忘れ難い出来事に取り憑かれていることも察していて(その出来事を忘れることなどできないことはわかっていながら)それがなければ手にしていただろう、温和な家庭へと促してみます。しかしスチュワートが失ったのは先住民の襲撃に無残な死を遂げた幼い弟であり永遠に返ることのない弟の死はつまり戻ることのない過去(とその過去に夢見た未来)であってウォーレス・フォードの溜め息は深まるばかりです。或いは同じアンソニー・マンの『ウィンチェスター銃'73』(1950)ではどうでしょう、主人公は同じくジェームズ・スチュワートですが彼に寄り添うのは友にしてやはり親子ほど年の離れたミラード・ミッチェルです。彼もまたスチュワートの本来のひと柄を惜しみつつそこには立ち返れない喪失と悲しみがあることを承知していてます。スチュワートが(そのひと柄を靴底に踏み潰しながら)血の涙で見据えるのは父を殺した犯人でありそれがまた彼の兄であることが仮に復讐を果たしたとしても心にもうひとつ風穴をあけるしかないスチュワートの宿命にただ瞑目して付き従っているのです。ただここに来てアメリカが戦後に失った<本来あるべきもの>のその実際が朧に見えてくるような気がするのはこれらアンソニー・マンの映画と並べてエリア・カザン監督『波止場』(1954年)やニコラス・レイ監督『理由なき反抗』(1955年)を見渡すときでそれは端的に父(像)ではないかということでなのです。負けた側の父たちが大日本帝国や第三帝国(ややしょぼいながら第三のローマ)に支えられたその権威を失墜させる儚いなりゆきはあまたの映画に描かれたことではありますが何ゆえ勝った側が父を見失うのか... これはまた別のお話ということになりましょう。
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