矢崎仁司監督『三月のライオン』(矢崎仁司グループ 1992年)には奇妙なビルが出てきます。長いコンクリートの脚で線路を跨ぐとその上に何階建てだかの集合住宅が乗っているという要するにビルの横っ腹を列車が行ったり来たりするわけですが(察するところ鉄道関連の社宅か公営団地で)バブル崩壊とは言え1992年ならばまだまだ腰ぐらいまではあるたっぷりした引き潮のなかで景気の盛り返しを夢見ていた頃です、映画でも方々で建物の取り壊しが続いてここも程なく取り壊される予定です。荷物の運び出しが続くなか既に引っ越しを済ませた部屋をその賃貸契約が切れる幾日まで又借りして主人公たちが移り住んできます。家財道具とも言えないガラクタがぽつぽつ残されただけの部屋で同居を始めるこのふたりは実際には兄と妹ですが兄が事故で記憶を失っていることを幸いに(兄への思いを高じさせる)妹は彼の恋人になりすまします。セピアに着色されたカラー映像は気怠い郷愁を掻き立てて掴んでも掴んでも手の中を朧にいまが消えていくような兄の心地でもありバブルの夢物語から急速に置き去られながらまだ揺りかごに揺られているような当時の私たちの光景でもあっていま見ても何とも切ない思いにさせられます。そのふたりが登るのがビルの屋上で吹きさらしに柵を巡らしただけの、殺風景にも日を燦々と浴びております。思えば空に開けて開放された場所であり同時に行き止まりの、(記憶の喪失に乗っかった危ういいまとそこから新たに生まれようとしている恋愛と真実の交差する)このふたりそのものです。妹である由良宜子の、明るさに揺らめいている自嘲的な溌溂さも時代のものですが生きることを夢のように漂う兄の趙方豪の愛らしさもいまでは何と遠いこと。

 

 

矢崎仁司 三月のライオン 趙方豪 由良宜子

 

 

旺盛な製作を続ける中川龍太郎をどう捉えたものか私などには大いに戸惑うところでして現代の勘所をうまく摘んで(それを適当に外しても)くる繊細さとその上の不思議な厚かましさは是枝裕和を思わせてふたりに共通するのは自分の映画を自分が語るままにひとは見るという自信にたじろいでしまって... 。『走れ、絶望に追いつかれない速さで』は仲間たちを引き付けながらその渦からひとり身を引き離すような魅力と孤独を帯びた友人の、その自死に突き動かされて彼の死の先を彼の目で見ようともがく主人公です。就職で離れ離れになるまで学生時代を狭い一室に二段ベッドで同居してその最後の時間を追いながら何か現実が自分たちを追い抜いていくそんな夜を夜通しぶらつくふたりが明け方によじ登るのがビルの入り組んだ屋上でそこでの朝日の荘厳さにふたりして無為にはしゃぎながら自分たちの行方を思います。ただ中川が引き込む屋上という場所は開放とも行き止まりとも無縁でその夜彼らが順々に流れていくくだけた大衆酒場や深夜の銭湯、夜明けにとどまる街路と連なってそういう行為自体を詩的さとして肯定していてしかも自意識が世界大に拡がった世界と自分たちです。おそらくここが矢崎仁司のような世代と圧倒的に異なるところで先述の通り(『三月のライオン』で)捻れた近親相姦を密室に描きながら誰もいない、誰も見ていないその部屋であのふたりは世界に囲繞され誰でもないものの視線に孤立していて(それは2010年の、『スイートリトルライズ』においても争いを避けるうちに一緒にいることの満足を見失ってしまう夫婦が夫婦ともに甘い不倫関係に足許から呑み込まれていきながらどんなに相手とふたりっきりであれ彼らはやはり見られていて仮にそれを世間知というにしても罪悪感というにしてもそんなものはとっくに乗り越えていながらやはり彼らは見られている、そういう感覚から逃れ難く)しかし中川の世界には内部も外部もなく自分の大きさで世界があるか世界の大きさで自分があるかという充足(と漠然とした不安)であってこれが21世紀を生きる若さというものなのかもしれません。

 

 

 

中川龍太郎 走れ、絶望に追いつかれない速さで 太賀 小林竜樹

 

 

屋上という場所について銀座にまだ森永の巨大な地球儀型のネオンが鎮座していた当時を捉えるサミュエル・フラー監督『東京暗黒街・竹の家』(1955年)や川島雄三監督『銀座二十四帖』(1955年)も麗しく屋上遊園地の観覧車に谷ナオミと乗り込む岸田森の、ガラスに甘い息遣いまで映るような神代辰巳監督『黒薔薇昇天』(1975年)の肉迫も忘れ難いところですがここはやはり若松孝二監督『ゆけゆけ二度目の処女』を以て締めくくりと致しましょう。当時の撮影事情としては若松が持っていたアパートの一室が『裏切りの季節』(大和屋竺監督)、『胎児が密猟する時』(若松孝二監督)と使われて今度は同じアパートの屋上が舞台です。フーテンたちに屋上に連れ込まれた少女をヒロインに生き難い彼女の心のありように寄り添うのが主人公の少年です。ふたりの間に芽生えるのは生きることを置き去りにした愛情でそれは一方で屋上を血みどろの惨状にしていきながらこの閉鎖された空間に現代の行き場のない生きざまを映します。中川龍太郎が他者を喪失した世界で自分のなかに他者を引き入れることで自他が溶け合う生き方を捉えるのに対して60年代ははるかに他者も自己も肉体としてそこに在り他者の暴力によって自己は自己に目覚めさせられるため他者を排除した自分(たち)だけの充足を目指しますが最後には自分という他者に向かい合わされることになります。まさに開放であり行き止まりであるという屋上の二面性そのままで(しかし考えてみればアパートの一室にしたところで後藤明生が主題にしたように箱状に積み上げられたあの住空間においては入り口が同時に出口である二面性が外との唯一の関係なわけでその意味でまったく屋上的であって)、しかしそうとなれば主人公たちに残されるのは開放と行き止まりが交錯する結末しかなく悲しくもその通りに彼らの朝に広がっていきます。

 

 

 

 

 

 

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若松孝二 ゆけゆけ二度目の処女 秋山未痴汚 小桜ミミ

 

 

 

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