メアリー・ピックフォード Mary Pickford

 

映画はまだまだ黎明の、映画を作りながら映画という表現も映画という市場も作っていたそんなとき、まだ映画が手に入れていないものがありまして、画面に燦然と映りながら映画自身がそれとは気づいていない何か、釘づけになった観客の目の方がはるかに早くそれを見つめて切ない胸のうちを手紙に綴ります、名前のない相手に自分でつけた名前を添えて、例えば<ぼくのメアリー>。勿論映画のなかには既にして可憐なヒロインがいます、しかしそれは劇中の役であって誰が演じているかなんて観客の興味を引くとは思っていませんからクレジットがありません。その名無しの相手に堆いファンレターが(思い思いに名前をつけられて)押し寄せてくるようになると映画の作り手たちは気づくわけです、映画の役を通してその向こうの生身の存在に観客が恋をしていることに。この瞬間(単に可憐な映像のための、書割や小道具と一緒だった存在がそこから身を剥がすとひとつの商品、地球を覆う巨大なイコンとなって立ち上がって)、そうです、映画女優の誕生です。名前のなかった<ぼくのメアリー>は以降メアリー・ピックフォードとなって映画にその名を刻むや彼女の大きさに映画が映し出されて映画から映画へ観客の欲望を花束にして飛び移ってまさに<アメリカの恋人>と呼ぶにふさわしい活躍です。マック・セネットはバイオグラフ社に入社したとき勿論安月給に汲々としていると若い女優がちょっとした小遣い稼ぎを教えてくれたと言います(マック・セネット『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』作品社 2014.3)、見れば彼女は脚本を書いてはせっせと会社に持っていって取り上げられれば何がしかの謝礼を受け取れます、1巻物2巻物の短編が主流で毎週新作を作っているときですから(しかもまだまだ家内制手工業の現場であれば)脚本はいくらあっても足りずいい小遣いになります。なんだそんなことならと早速セネットも書きますが彼女が一読するやそれがよく知られた小説を引き写したものだと知れて懇々と著作物の権利について教えられます。のちの喜劇映画の大立者とやはりのちにはアメリカ映画最大の女優となる無名の若者同士が映画会社の片隅で膝を突き合わせて脚本の手ほどきなど何とも微笑ましく、今回のお話はひとりの女優が作り出す人間の山脈を見ていこうというわけです。

 

 

 

1910年代に産業としてそしてアメリカの表現としてまさに競り上がる摩天楼の趣きだった映画においてそれを牽引していくD.W.グリフィスのミューズとなったメアリー・ピックフォードとリリアン・ギッシュは映画に出るはるか以前移動劇団の子役の頃からの知り合いです(リリアン・ギッシュ『リリアン・ギッシュ自伝』筑摩書房 1990.8)。ギッシュにドロシーという妹があるようにピックフォードにはジャックという弟があってその彼と結婚していたのがオリーブ・トーマス、生まれいでた映画女優という新たな女神がハリウッドを乳と蜜が流れる場所に変えていくそんな時代を駆け抜けたひとりです。ハリウッドのトップ女優を義姉に順風満帆、ありあまる成功に帆を張って豪奢なヨーロッパ旅行に出たのも束の間夫に先乗りしたパリのホテルで不可解な頓死を遂げます、言わずと知れた麻薬の過剰摂取で結婚わずか4年目のことです。さて麻薬禍と聞いて痛ましくも思い出すのがジュディ・ガーランドで(デイヴィッド・シップマン『ジュディ・ガーランド』の口絵だったか)晩年と言っても40代のはずですが死期の足跡を聞いたかのように目まぐるしくなる男出入りの、そんなひとりをぶら下げた写真は老婆のような痩せこけた姿で胸が詰まります。そんな彼女がまだ丸々とした少女で(麻薬と大人びた猥りがわしい関係はこんな年齢のときからアーサー・フリードの悪い手ほどきにあったようですが... )『踊る不夜城』(ロイ・デル・ルース監督 1937年)ではステージママに背中を押されてオーディションの並み居るひと垣を掻き分けると野太い器用さで歌い踊ります。エレノア・パウエルやバディ・エブセンと並んで大詰めのミュージカル劇でも一翼を担いますからMGMの期待のほどがわかりますが、本日用があるのは彼女のステージママの方でして... かつてはショービジネスにも手を染めたという彼女は作曲家であるロバート・テイラーにありし日の歌心をくすぐられると堂々たる一曲を披露して貫禄の違うソフィー・タッカーです。本番のミュージカルでも見せ場のひとつを先導しながらいまは大恐慌の引き潮に流されたブロードウェイの華やかさを偲んでかつてのスターをひとりひとり名を挙げて勿論アル・ジョルスンやジョージ・コーハンもいますがリリアン・ラッセルと共に花の名前を口にするように唇にのぼらせるのがマリリン・ミラーです。このミラーこそオリーブ・トーマスを失ったジャック・ピクフォードの新たな伴侶となる(いまに残るダンス場面を見ても水の上を跳ね渡るような瑞々しさに笑いさんざめく)愛らしさです。

 

 

 

 

1920年代を伴侶としてメアリー・ピックフォードと手に手にハリウッドとサイレント映画、何より自分の全盛期を謳歌したのがダグラス・フェアバンクスです。むらむらとした男らしさと(やや能天気に過ぎる)陽気さが一点の曇りもなく画面に晴れ渡って『バグダッドの盗賊』(ラオール・ウォルシュ監督 1924年)などサイレント的肉体言語を40代の身体に翻してなかなかの男ぶりです。<ピックフェア>と祝福されたピックフォードとの結婚はお互い伴侶が既にあった上での恋愛でして(まあ彼の年齢からしても)それなりに大きな息子がありながら前妻とは離婚です。息子はのちにダグラス・フェアバンクスJrとして映画俳優となりますが私が覚えているのはフランク・キャプラ監督"The Power Of Press"(1928年)で天気予報担当ながら特ダネで新聞記者の第一線へ躍り出たいと願っているのがフェアバンクスJrです。殺人事件の現場から市長候補の娘が飛び出してきたのを早合点して早速スクープに仕立てますが事件はそう単純ではなく挙句になかなか血も涙もない(そりゃそうですよね、殺人事件ですから)暴力の面々まで控えていて... 自分の誤報のためにすっかり窮地に立ったヒロインを思って真相を手繰っていきます。最後は砂塵蹴立てて拳銃をぶっ放すカーチェイスになって谷底の一本道を疾走しながら運転そっちのけで敵と車中で乱闘とまさに手に汗握る活劇です。お父さんとは打って変わって(まあ若いも若いということもありますが)やや内向的な美青年でさてさて最後になりましたのは青年のまさに若気の至り、彼が20歳になるかならぬで行った結婚の相手でして<ピックフェア>は共に反対するなか何とジョーン・クロフォードと挙式です(クリスティーナ・クロフォード『親愛なるマミー』評論社 1981.11)。まあお察しの通りその年齢で五つ歳上の奔放な姉さん女房をうまく捌けるはずもなく程なく離婚すると続いてフランチョット・トーンと結婚して長くは続かず結局4度の結婚をすることになるジョーン・クロフォードです。養女であったクリスティーナによれば子供たちへの愛情の深さを彼らへの猜疑心の深さでしか表せないクロフォードの子育ては嗜虐的で気まぐれな惨状でして読んでいてだんだん身の毛もよだってまいりますが、そんなクロフォードが生涯崇拝と言える愛を捧げたのが(結婚をなし得なかった)クラーク・ゲーブルとあっては... 山脈の裾野は尚遠く。

 

 

 

 

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メアリー・ピックフォード ダグラス・フェアバンクス

 

 

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