さあさあ昭和30年代も半ばです。まさに高度成長真っ只中、東京の街自体が口笛でも吹いていそうな幸福な喧騒に沸き返っていますよ。ひとも街もじっとしていられません。めかした芸者たちも連れ立ってお年始の挨拶廻りです。そのなかのひとりは鉄火な気っ風が評判の、べらんめえ芸者で言わずと知れた美空ひばり、『べらんめえ芸者と大阪娘』(渡辺邦男監督 東映 1962年)の始まりです。題名の通り今回はヒロインがふたりおりまして無理強いされた縁談を嫌って大阪から年頃の娘が身を寄せております。(まあお察しでしょうが)こちらも美空ひばりでして、今回はふた役であることを印象づけるために映画の口あけに一方の美空から一方の美空へとぱたぱたと飛び渡るのが花房錦一です。べらんめえ芸者の方には普段からやり込められていて頭が上がりません。親代わり姉代わりでお互い愛情まじりのけんつくをやり合うとぶつ振り怒る振りをつむじ風のように走り抜けてしかるに家に戻ると二階の大阪娘は打って変わったしとやかさ、あれがこうなりゃ、どんだけいいか、ぽわんと呑気なため息ひとつ。

 

あんちゃんへ背伸びするのを頭ひとつ抑えられた小僧の身のこなしでふたりの女性の間をお気楽に飛び回っているだけに見えるこの役、そう容易いものではありません。映画が始まってさて何が飛び出すか観客の、むくむくとした思いを引っ張って小気味よく語りに合いの手を打ちながら景気をつけて本筋へと引き渡すのがこの役です。観客は映画に期待を膨らませて映画館に詰めかけていますが同時に移り気です。映画の口あけでもたついて興味を萎ませてしまうともう一度膨らませるのは至難の業、それを取り逃がさず観客それぞれの心を手繰ってみせるのは誰にでもできる芸当ではありません。ひとつ見てみましょう、マキノ雅弘監督『一本刀土俵入』(東宝 1957年)です。お馴染みの食い詰めた相撲取りが加東大介で、よろよろと街道をやってきますよ。ただこの映画、予算は両手一杯とは行かないらしく80分の尺にあって余分に物語の枝葉をつけることなく言わば演者の力量だけで語りを伸縮させて何とか埋め合わせています。口あけから加東のひとり芝居で引っ張ってやがて街道のやくざ者である田崎潤が暴れに暴れているところに出喰わしてふたりの絡みになりますが、暴れ廻る芝居を長く続けながらその熱量を(衰えさせるどころか)映画全体の活気へと高めていく田崎の底知れなさに加東は相撲取りの、もっさりとしたこなしで掛け合いながら観客の興味を手球に取って10分でも20分でもふたりで場面を持たせてしまうんですから彼らの力量には感服させられるしかありません。勿論こんな百戦錬磨、武芸百般の猛者には及びませんが花房錦一には彼らに通ずる何かがあるということです。


美空ひばり 花房錦一
 

 

もうひとつ見てみましょう、沢島忠監督『江戸っ子判官とふり袖小僧』(東映 1959年)。江戸市中を賑わす振り袖小僧が美空ひばりです。執拗な捕り方の網の目を身ひとつで躱して逃げ込んだ庭先に知ってか知らずか現れるのが片岡千恵蔵です。以降このふたりが行き先行き先でもつれるうちに千恵蔵にほのかな恋心を募らせていきます。彼女にはややおっちょこちょいな子分がふたりありまして、それが花房錦一と片岡栄二郎、ふたりして弥次喜多よろしく姐御を追って旅に出ます。片岡栄二郎はいつ見ても奴の若い衆や若侍を演っていますけれど大正の終わりには映画に出ているような古顔で同じさんぴん役ながら実際には花房と四半世紀の歳の開きがあります。そんな片岡相手に丁々発止の掛け合いを見せどっちかというと弟分が片岡で(それはそれで片岡のなりすましにも敬服しますが)ひと筋縄ではいかない旅路をてんつくてんつくと調子づかせます。挙句に自分が思いを寄せる美空がどうにも千恵蔵に心を奪われているのに男の意地を奮い立たせて喧嘩もからきしな片岡が詰め寄る捕り方に泣いて獅子吼るように立ち向かう哀切な見せ場にも寄り添います。ご存知の通り花房錦一は美空ひばりの下の弟ですから勿論大スターの弟が姉の威光で映画に出ているというのは否めませんがそれで終わらずこちらの懐に飛び込んでくるような愛嬌に何というか剽軽者の弟の、物怖じしない度胸ぶりはなかなか得難いものです。

 

それにしても... 世は1963年です。沢島忠監督『ひばり・チエミのおしどり千両傘』(東映)、姫君の美空が輿入れを嫌がって道中を町娘となって気まま旅をする間、腰元の江利チエミが身代わりに姫になり代わるという微笑ましい筋立てです。てんやわんやな道中の果てにふたりとも意中の男性を見つけると身分をかなぐり捨てて市井に愛の巣を設けてめでたし、めでたし... なんですが、まあいま以って若いとは言え江利はとっくに結婚していて美空もいまでは小林旭と新婚中、そんなふたりがまるで10年前のジャンケン娘の頃と同じく画面にエヘッと笑えば客が湧くというような映画を続けていて大丈夫かという気になります。案の定この年を境に全盛期には主演作で年に10本を誇った美空ひばりもだんだんと映画から遠退いていきそれとともに花房錦一の役者人生も大きくゆらいでいきます。ただ私が思うのは花房ほどの役者の愛嬌があって、仮に美空ひばりのような飛び抜けたスターの弟でも何でもなくどこかの大部屋からひとつひとつ人気を積み上げていく人生であったら、上を支えて映画の胴腹をぐっと踏みしめるようないい脇の役者になっていただろうにと惜しまれます。しかし姉が芸能史でも指を折るような破格のスターだからこそ難なく映画への道が開け美空ひばりの弟だから悪いもてなしを受けるはずもなく逆に言えばいまさらおいそれとした役にもつけられず例え本人が姉の威光を離れ一から役者を目指したところで許されることではなかったでしょう。それはまるで錠が掛かった函の中にそれを開ける鍵があるような皮肉です。最後に村松昌治監督『柳生武芸帳 独眼一刀流』(東映 1962年)。二巻に分けられた柳生武芸帳が合わさるとき天下がふたたび騒乱に陥ることを未然に防がんと決死の探索を続けるのが近衛十四郎です。彼を狙うのは敵ばかりではありません。かつては共に徳川を支えながら柳生ばかりが繁栄したためにいまではすっかり家の絶えた松方弘樹と花房錦一の兄弟も近衛は倒すべき相手です。武門を極めるためには冷酷であらねばならないと力以上に気負ったものを背負う兄に比べて同じ志ながら花房にはどことなく寸の足らない幼さがあってそうだけにむしゃぶりつくような必死さでこちらを見つめては私たちの胸に何かを訴えかけているかのようです。

 

 

 

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