英語はかなり退化してしまっている。
仕方がない。ここ東京では、英語を使う機会がない。
しかし、またそういうことがあると恥ずかしいので、英語の朗読を再開することにする。
以前は毎朝やっていたが、それが、イタリア語に変わり、今は台湾華語の暗記に変わっている。
しかし、会話というのは基本的に条件反射である。
今は、毎週、4600円を払い、台灣人の先生と、90分聞いて、話している。
最近のテーマは、美容整形(整形 zhěngxíng)である(笑)。
先月は基因改造食品(遺伝子組み換え)だった。
だから、英語で聞かれても、つい台湾華語の方が出てきてしまう。
本来は、朗読だけでなく、英語で話す練習をしないとだめなはずだ。
しかし、振り返ると、英語の「会話」を習ったことがない。
他の言語は自腹を切って会話も習ってきた。
というか、ドイツ語学校も、イタリア語学校も、スペイン語学校も、アラビア語教室も、まず、会話から入って、むずかしい文へ進むのである。
子どもの言語習得と同じ順番である。
しかし、英語が使える人というのは、たいてい、英語会話を習ったわけではないだろう。
ほぼ例外なく、留学して講義や演習に出たり、実際に生活したりしているうちに話せるようになったのである。
図書館にこもっていた人は、5年留学していても話せない。
実際そういう人に会ったことがある。
イギリスの大学で博士号まで取った秀才なのに、面接で片言の英語だったので椅子から落ちそうになった。
それはともかく、大学の業務が立て込んで、ネイティブ(3人いる)と会う機会が増えると、英語を話すことも増える。
下手をするとコミュニケーションの間違いで業務に支障が出るかもしれない。
日本語で話してくれればラクなのだが、なぜか、手加減しない、ふつうの英語で話してくる同僚が多い。
ベストセラー、ロングセラー『日本人の英語』で有名なマーク・ピーターセン先生も20年間そうだった。
しかたなく、私は「日本人の英語」、あやしい、変な英語で答え、応答していた。
なぜか、他の教員には日本語で話しているのだ(笑)。
英語圏の生活経験も、留学もしていないので、日本人の英語になってしまうのは仕方がない。
とりあえずは、通じればよい。
よく英語教師が務まるなと思われてしまうかもしれないが、教室では、何年間にもわたって下調べしたテクストを訳読すれは良いので、ボロを出さずに済んでいる。
昨今は帰国子女も多く、話したり聞いたりなら、学生の能力の方が上の場合もある。
もし、それでも私の存在理由があるとすれば、ごまかさずに、正確に読む、と言う、一点だけにかかっている。