1988年3月20日ー震度論争ー
この前の地震で、また「震度」論争がおこっている。
「え!あれが震度3(弱震)」
震度には
1(微震)2(軽震)3(弱震)4(中震)
5(強震)6(烈震)7(激震)
の7段階あることは知っているね。
この震度は、東京では気象庁の人が、自分の感じで、
判断して決める。もちろん、ある程度の基準がある。
たとえば弱震は
「戸障子がガタガタと鳴り、つり下げたものが
相当にゆれ、金魚鉢の水面が揺れ動く」。
でも、気象庁は特に地震に強くつくられているので、
どうしても、普通の家に住んでいる人とは感じ方が違うのだ。
しかし、器械を使っても、敏感すぎて、人間の感じより
強い震度が出る。
新幹線が地震ですぐとまるのは、器械が中震を示すと、
レールを点検することになっているためだ。これも困る。
気象庁も「震度」論争で、しばらく揺れ動くだろう。
2011年3月20日
1996年からは、震度は「震度計」を使用して、計測されるようになりました。
1988年3月19日ーフェルマの最後の定理ー
どうやら、日本人が、世界で、最も難しい
数字の問題を解いたらしい。
「フェルマの最後の定理」といわれるものだ。
xⁿ+yⁿ=zⁿでnを3以上の自然数にするとき、
この式を満たす0以外の整数はないというもの。
このnを2とすると、ピタゴラスの定理になり、
この式は解ける。
これを3にするとxyzにあてはまる数字がないというわけだ。
フェルマは350年目の政治家。
数学はアマチュアだった。
そして、ある本の余白に
「この問題は解けたが、余白が少なすぎて書けない」
と記し、その答えは、これまで、だれも出せなかったんだ。
これを解いた日本人はドイツの研究所にいる東京都立大の先生。
半年後に論文を書き、発表するそうだよ。
2011年3月19日
東京都立大の先生=宮岡洋一先生の証明は、
結局、完全な証明には至りませんでした。
1988年3月18日ー暖房がなかった時代の鉄道局のサービスー
寒くなってり、暑くなったり、最近の寒暖の差ははげしい。
特に困るのは、暑いのに、電車やビルの暖房が
効きすぎるときだ。
汗っかきのお父様は、シャツが、ぐっしょりと濡れ、
かえって、カゼをひいてしまう。
逆に冷房が効かない時も困るね。
もちろん、むかしは、こんな冷暖房などはなかった。
冷房は確か戦後になってから。
暖房は、かなり早く、明治20年代からだ。
それまでは、客車の中の寒さは、ひどかった。
このため、新橋鉄道局では、どんなサービスを
していたと思う?
湯たんぽだ。
荷物を持っている人は、弱ったろうね。
しかし、次第に暖房車が行きわたって、
ついに、湯たんぽは廃止された。
明治24年3月18日のことだ。
1988年3月17日ーシーザーの数々の名言ー
この前、紀元前100年から同44年の間に
ローマで活躍したシーザーのことを書いたことがあってね。
「サイは投げられた」
ルビコン河を渡り、ローマに進軍するときに
シーザーが叫んだ有名な言葉だ。
彼は兵隊としてのみでなく、政治家としても優れ、
また、文章もうまかった。
そして、多くの名言を、ルビコンのほかにも残している。
小アジアで勢力のあった王を打ち破った時、
ローマにわずか三語の報告を送った。
「来た、見た、勝った」
その彼も、王になろうとしていると疑われ、
ローマの議会に出ようとしたところを、
信頼する部下ブルータスに刺されて死んだ。
最後の言葉は
「ブルータス、お前もか」。
これも親友に裏切られた時、よく使う。
この時、紀元前44年3月15日。
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1988年3月16日ー皆既日食とかすり月食ー
すこし、先の話になるけれど、今世紀最後の
皆既日食が、18日、小笠原の近くで見られるそうだ。
小笠原向けの観測船はアマチュアの天文ファンで、
もう予約はいっぱい。
全国各地では、部分食が見られる。
東京は午前11時23分に74%まで欠けるという。
ただし、今世紀最後といっても日本付近だけ、
世界では、まだ見られるはずだ。
この4日の未明に、月食があったのを知っているかい。
遠足前で○○○ちゃんは白川夜舟。
午前1時6分から13分間つづいた。
だが、かけたのは、直径0.3%だけ。
地球の影が、月のふちをかすったのだ。
だから“かすり月食”といわれる。
非常に珍らしく、日本では南北朝時代以来653年ぶり。
この次は22世紀の2157年だって。
宇宙ショーは気が長い。
1988年3月15日ー上杉謙信の男気ー
また、武田信玄に、まつわる話。
きょうは、上杉謙信。
信玄は、いまの山梨県、謙信は、いまの新潟県の
あたりを領地にしていた。
2人は、一生、戦いあった。
とくに、川中島で、何度も決選したのは有名だろう。
ある時は、一人、馬を駈け、信玄の陣に飛び込み、
信玄を傷つけ、弟を殺したこともある。
けれども、結局、勝負はつかなかった。
こんな仲が悪かったが、謙信はやさしい心の持ち主。
ある時、今川と北条が武田を苦しめるため
塩の輸送路を止めた。だが、謙信だけは塩を送った。
そのときの言葉ー
「われは戦いで勝負をつける。塩で敵をやっつけることはしない」
信玄の死より5年後の3月13日、謙信も病死。
そして信長が天下をとる。
1988年3月14日ー江戸城明け渡しの会談ー
錦の御旗を押し立てて、京都から
攻めのぼってきた薩摩、長州などの連合軍は、
ついに多摩川にまで達した。
このまま、幕府の徳川軍と戦争に突入すると、
江戸城は、焼け野原となり、民間人からも、
多数の死傷者が出るのは、避けられない。
これを救ったのが西郷隆盛と幕府の重臣、
勝海舟だった。
有名な「江戸城明け渡しの会談」だ。
つまり“降伏の調印”。
その会談は1868年3月10 日、14の両日、行われた。
場所はいまのJR田町駅の近くにあった薩摩の邸だった。
いまも、三菱自動車本社の近くに碑がある。
ただし、ここではないという説もある。
もう少し多摩川寄の池上本門寺の近くだ。
そこに古い邸があり、2人の対談している像まであるよ。
いずれにしても、2人のおかげで江戸、東京は残った。
1988年3月13日ー七曜日が入る前は16日休暇だったー
日曜日。
七曜日が、日本に入ってきたのは、明治になってから。
けれども、この日が、休みになったのは、
明治9年3月12日に政府が太政官布告を出してからなのだそうだ。
太政官(だじょうかん)とは、そのころの大臣。
布告とは、「こうしろ」と人々に告げて従わせること。
その布告には、こうある。
「従前(じゅうぜんーこれまで)16日休暇のところ、
これから、日曜休日、土曜を半休とする」
16日は「じゅうろくにち」ではなく、1と6のつく日のことだ。
つまり、1、6、11、16、21、26。
1月に6日(31日のある日は2日つづいてか?)も休みがあったんだ。
いまよりも、むかしの人々 の方が、働きバチでなかったんだね。
2011年3月13日
1988年当時は、まだ週休二日制ではなかった。
そのため、休みが月4日か5日だった。
1988年3月12日ー平城京ー
1287年前の和銅3年(710年)3月10日、元明天皇が、
都を藤原京から奈良に移した。
いわゆる平城京だ。
大化改新から律令という、日本で初めての
法律に基づいた政治(律令政治)が行われ、
名もない日本という小さな国は、だんだんと
成長していった。
このため、大和三山に囲まれた藤原京では狭くなり、
奈良に都を変えたんだ。
唐(中国のむかしの名前)の長安にならって
つくられた平城京は、東西4.3キロ、南北4.8キロ、
港区より、少し大きい、当時としては大都市だった。
人口も20万人。
日本の歴史も、ようやくこのころから、
記録に、はっきり残るようになる。
やがて、都は京都へ。
紫式部や清少納言のころになる。
1988年3月11日ー父の遺言に背いた武田勝頼が自刃ー
きょう3月11日は、何があった日だと思う。
天正10年(1583年)のこの日、武田勝頼が、天目山で、
自刃(じじん・刀で自殺すること)した日だ。
武田信玄は、正妻と、湖衣姫を含めて3人の側室がおり、
計13人の子供がいた。
もとより、勝頼は、湖衣姫の子供。
9年前の天正元年、志なかばで信玄は病死した。
そのとき、彼は、こう遺言した。
「三年間は死んだのをかくして、国内のことに力を入れよ」
けれども、遺言に背いて、父の死後、10ヶ月で勝頼は
戦いを始めてしまうんだ。
そして、天正3年、長篠城を攻めて負けてからは、力が衰え、
とうとう非業の死をとげてしまった。
父の遺言を守ればよかったのに。
だれかののろいかな。
