僕が医学部の学生だった頃,あるいは新人医師であった頃と較べると,医療はすべての分野で大きく進歩しています.何よりもゲノム科学の進歩は目覚ましく,内科系,外科系にかかわらずすべての診療科が恩恵を受けています.しかし僕がいちばん変わったなと思うのは精神科医療です.精神科もゲノム科学の恩恵を受けていますが,さらに影響が大きいのは,ゲノムと並んでもうひとつの医学のフロンティアと呼ぶべき脳科学の進歩です.
1960年代,1970年代には,医学の世界においても心身二元論が支配的であり,心の働きはすべて脳の活動によって生み出されるとするのは,精神に対する冒涜であるといった考え方も有力でした.そして心の病とくに精神分裂病(現在の統合失調症)は実存の病であるといった言説が幅をきかせていました.そうなると当然のことながら,心の病を脳内の機能障害として説明する,あるいは心の病を投薬によって治療するという考え方は,単純な機能主義として排除されてしまいます.当時はイデオロギーと結びついて,学会の中でもセクト的な争いがあったことも事実です.実際に当時は有効な薬剤も少なく,いくら患者さんの脳を顕微鏡で調べても,少なくとも構造的な異常は見つけることができなかったのですから,やむを得ない面もあったのかもしれません.
それを大きく変えたのが,脳の画像解析とくにfMRIでした.これにより特定の機能を行っている時に,脳のどの部分が実際に活動しているのかをある程度画像として捉えることができるようになったのです.それまでは脳の機能を捉える方法としては,頭蓋表面から電気信号を捉える脳波しかなかったのですから,画期的です.世界中でfMRIを用いた多くの研究が行われ,脳の部位による機能の違いが明らかになるとともに,心の病の患者さんでは,脳の活動にそれ以外の人とはどのような違いがあるのかが,少しずつ分かってきました.また逆に心の病の患者さんの脳のfMRIを調べることが,記憶や判断といった脳の基本的な働きがどのように行われているのかの研究にも還元されるようになったのです.
林(高木)朗子,加藤忠史編「『心の病』の脳科学」講談社ブルーバックスは,脳科学,精神医学の最先端で研究を行っている16人(章の著者は12人)の著者により,現時点での最先端を網羅していると言っても良いと思います.研究者へのインタビューを元に,サイエンスライターの立山晃が再構成しているので,著者の数が多い割には,章ごとの違和感は少なく出来上がっています.取り上げられている疾患は統合失調症,うつ病,双極性障害,PTSD,自閉スペクトラム症(ASD),注意欠如・多動症(ADHD)です.治療法も薬物治療だけではなく,ニューロフィードバックによるPTSDの治療や,ロボットを用いたASDの治療・支援の試みなども記載されています.最後の章で,パーキンソン病や核上性麻痺などのいわゆる神経変性疾患の発生メカニズムが解明され,その治療法のめどがある程度立ってきたことから,いずれは統合失調症などの心の病に関しても,メカニズムが解明されることが期待されていると述べられています.
かつて神経変性疾患は診断はされても治療が困難な病気でした.心の病に関しては,そもそもそれが単一の疾患であるかどうかに関しても議論がされている状態です.それが治療できるまでには多くの年月が必要と考えられます.しかし心の病が脳の病であることも不確かだった事を考えれば,この50年間で大きな進歩がありました.これからの50年でさらに大きな進歩があることを期待したいと思います.