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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

前に、

 鎌倉幕府の将軍は何人いたでしょう?

という質問を生徒たちにすると、「3人」という答えが返ってくる場合が多い、という話をしました。
言うまでもなく、頼朝、頼家、実朝です。

しかし、それは、あくまでも、源氏の将軍が3代で終わったというだけで、4代、5代が藤原氏、6代から9代までは皇族から将軍が迎えられています。
ですから、鎌倉幕府の将軍は、

 9代

ということになります。

 「鎌倉幕府」

というと、ついつい、日本政府、というような「政権」をイメージしてしまいがちですが、子どもたちが思っているような「政府」と幕府は異なります。

以前、春にQさまに出演させてもらったときに説明させてもらったのですが、当時は、「幕府」は将軍の居館を指す言葉で、政権をあらわす意味では使用されてはいませんでした。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)

そしてさらには、当時の武士たちには、自分たちのトップが、「征夷大将軍」でなければならない、という意識もあんまり無かったようなんです。

“征夷大将軍”というのが武家の統括者、というのは室町時代から、場合によってはそれすら江戸幕府が後年作り上げたイメージだったのかもしれない、ということなんです。

当時の武家のトップは、武士たちの(とくに東国の武士たちの)コンセンサスの得られた

 鎌倉殿

であり、その地位がどのようなものであっても(征夷大将軍だろうが右近衛中将だろうが)あんまり関係なかったのかもしれません。


関東の武士たちにとって、自分たちの利権の保護機関が“幕府”であり、保護者が鎌倉殿であればよいわけで、源氏の血筋でなければ一大事、ということではありませんでした。

むしろ、摂関家から将軍を迎えたときなどは、「これで都の貴族に対抗できる格式ができた」と歓迎していたフシも感じられます。
ましてや、6代目に後嵯峨上皇の皇子、宗尊親王を戴いたときなどは、ようやく武家の政権が確立した(朝廷に認められた対等の組織になった)、というような感慨を持っていたようなんです。

「鎌倉幕府」というものも、わたしがよく言う“江戸フィルター”が生み出した虚像をまとっていて、「源頼朝が征夷大将軍となったことで幕府が成立したのだ」というのは、徳川家康が征夷大将軍となったことで武家の正統な政権が成立したのだ、ということに“箔をつける”歴史的事実に仕立てようとしたものともいえるのです。

しかも、「鎌倉幕府」という言葉は、江戸時代にすらなく、明治時代になって言われるようになった表現なんです。

そのうち、教科書から「鎌倉幕府」という表現が無くなり、

 「鎌倉政権」

というように言い改められるときがくると思います。

かつての「大和朝廷」という言葉が教科書から消え、「ヤマト政権」というように言い改められたように…
ご存知のように、NHKの大河ドラマは「軍師官兵衛」。

過去の大河ドラマで、秀吉関連のもので、黒田官兵衛が登場しないことはありませんでした。
(「おんな太閤記」では、かなり影が薄く登場していましたが…)

秀吉の、出世物語の中で、欠かせぬ役どころのもう一人に蜂須賀小六がいます。

官兵衛と小六…

物語やドラマでは、今までこの二人の“深いつながり”が描かれることは少なかったように思います。
中国攻めのみならず、四国の攻略、さらには九州攻めなどにおいても、この二人はいっしょに戦ったり離れていても連携をとっていたりと、かなり良好で深いつきあいがありました。
良好どころか、秀吉の外交戦略で、成功しているケースはほぼ、この二人がコンビを組んでいるときで、「中国大返し」はこの二人がいなくては実現していなかった“企画”です。

さて、戦国時代の“深いつながり”というと、主として婚姻関係、というのが常套です。

蜂須賀小六の娘と、黒田官兵衛の息子が結婚することになりました。
二人のつきあいの深さから考えると当然といえば当然でしょうし、秀吉が信頼する二人の家臣の紐帯を深める、という意味でも、たいへん重要な婚姻だったはずです。

この小六の娘で、黒田長政の正室となるのが、

 糸姫

でした。

長政と糸さんの間には、お菊さん、という娘が生まれます。
この子は後に、黒田家を支えた家臣、井上之房の子の妻となるのですが…

ところがこの夫婦には、“悲劇”が待ち構えていました。

長政と糸は離縁させられ、長政のもとには次の正室(継室)として

 栄姫

が嫁ぐことになります。
栄姫は、保科正直の娘ですから、徳川家康からみると、姪っ子ということになりますか…

関ヶ原の戦いの直前(1600年6月)に、黒田長政のもとに嫁ぐことになりました。
しかも、栄姫は、いったん徳川家康の養女となって黒田家にゆきます。

明明白白な政略結婚。

さて、ここからがややこしい話なのですが…

糸姫と長政が離婚してから栄姫が嫁入りしたのか。
栄姫と結婚するために糸姫と離縁したのか。

さらに一歩進んで言うならば、栄姫と結婚させるために糸姫を離縁させたのか…

家康を“狡猾な”権力者として描くならば黒田家に圧力をかけて糸姫を離婚させ、栄姫と結婚させた、ということになります。

ただ、戦国時代の武将の娘たちの事情を考えると…

糸姫と長政には、女の子しかおらず、男子がいないのですよね…
これが実は糸姫の“運命”を変えてしまったと思うんです。

この時代、男子を生まない“正室”というのは、基本的に歴史の上でけっこう“行方不明”になるんです。

栄姫と結婚させるために糸姫を離縁させた、という“圧力”説は、ちょっぴり割り引いたほうがよいと思います。
たしかに黒田家にしてみれば、徳川家とのつながりが深まるほうがよいので、政略結婚としての価値は高い縁組なのですが、もし、二人の間に男子が生まれていたとしたなら、家康は別の政略結婚を考えていたと思いますよ。
すなわち、その男子に、徳川の身内の幼い女の子を結婚させる、という方法です。

実際、蜂須賀小六の息子で糸姫の兄にあたる蜂須賀家政は、実は息子の至鎮に徳川家康の養女を妻にむかえているんです。

家康による婚姻ネットワークは、確実に作動していて、関ヶ原の“東軍”の根は諸大名の間に広がりつつありました。

蜂須賀家と黒田家を味方に引き入れるのに、この二つの家を切り裂くようなことを家康が画策したとはどうも思えない…
だとすると、家康の“圧力”で離婚させられた、とするのは、ちょっとおかしいような気がします。
黒田家側の事情で、糸姫を離縁した、しかし、蜂須賀家に対してはちょっと言い訳も必要…
で、「実は徳川家康さんからの圧力で」というようなことにしたのかもしれません。

実は、黒田家と蜂須賀家は、それぞれの家祖、官兵衛と小六の深い友誼に反して江戸時代を通じて“不通”の関係にありました。
“不通”とは、江戸城などの廊下で出会っても、お互い会釈もしない、会話もしない、同じ場にはいない、という間柄になることです。
明治時代になって徳川政権が終わり、「家康のせいだ」と説明できるようになってようやく「和解」できたのかもしれません。

以下は蛇足ですが…

NHKの大河ドラマで、「糸姫」を演じておられる女優の

 高畑充希さん

は、実は、わたしの勤務する私立中学出身で、わたしが中2、中3と担任をした教え子です。
すっかり立派な女優になられました。
どうか、皆さん、応援してやってください。





以前に、NHKの大河ドラマで取り上げられた人物とコヤブ歴史堂で紹介した人物の「時代」を比較したことがあります。

決定的に違ったことが「幕末・明治時代」と「平安時代」の差でした。

お気づきになった方も多いと思うのですが、コヤブ歴史堂では「幕末・維新」の話がほとんど取り上げられていませんでした。
一人の人物として明確に取り上げたのは

 徳川慶喜

くらい…

歴史物で、視聴率をとることができるテッパンは「戦国」と「幕末・維新」。
そのうちの一方を捨てて、あえての「平安時代」というのは、番組制作側からいうと、ディレクターさん曰く、ある意味、“挑戦”だったそうです。

 名も無い貴族の話で、“数字”を出す(視聴率のこと)というのはなかなか気持ちいいです。

と、ディレクターさんはごきげんでした。
もともと視聴率を気にせず楽しい番組にしよう、という意図があったそうですが、まぁ、結果が出ていてイヤなわけはありません。

 貴族の話、けっこうおもしろいもの、あるんですよ。

と、紹介したのがきっかけでした。

そもそもの始まりは、藤原道長さんのエピソードを紹介したときでした。
ちょうど「世界記憶遺産」に道長さんの日記『御堂関白記』が選ばれた、という、一部歴史ファンしか話題にならなかった(というわけでもないのですが)ことと重なったこともあり、じゃあ、やってみましょうか、と、なりました。

でも、これがスタッフ一同、オオウケ。

貴族とかいうと上品でかたくるしくて時代遅れ、みたいなイメージしかなかったなかで、

 なんや、これ、今の人たちと何もかわらないやんっ

ということに気づかせるエピソードがたくさんあったからでしょう。
とくにプロデューサーの奈良井さんは、「これこれ、こんな話、知りたかったんですよ」と番組で取り上げたいツボにどんぴしゃだったらしく、いろいろ質問を投げかけてこられました。

奈良井さんは、さすが名プロデューサーで、人から話を引き出すのがうまい。
週一回あった「打ち合わせ」のときなどは、「これ、番組とは関係ない話なんですが」「ちょっと興味があるから聞いてみるんですが」と、いろいろな話に脱線するんですが、そんな逸話の中から、うま~く最終的に番組につながるネタを引き出していかれるんですよね。

 「それ、先生、番組の中で話してくれませんか?」
 「いやいや、そっちの話のほうがおもしろいじゃないですか。」

と、わたしの頭の土の中に埋まっているもんをどんどん掘り出してくださいます。

 天皇から土葬にして、とたのまれていたのに火葬にしちゃった。

という番組でも取り上げたエピソードには、スタッフ一同、「それほんまの話ですか?!」と大笑い。

他にも貴族と天皇の“最古のミニコント”とか、まぬけなエピソードなど、貴族のおもしろ話にみなさんすっかりハマられたようで、ふりかえれば

 16回

も、貴族関連ネタをコヤブ歴史堂で取り上げていました。

そして最終回もその前回も、「貴族ネタ」で締めくくる…

幕末・維新より、ほんとはおもしろい貴族たちの歴史…

何かを切り開いた、何か歴史を変えた、ということばかりが“歴史”ではありません。
何も切り開かない、今と何にも変わらない、ということもまた“歴史”なんですよね。

賢人・偉人ばかりの話なんておもしろくない。
愚者の歴史がほんまは歴史の大部分、ということをコヤブ歴史堂では伝えてきたと思っています。
昨年五月に始まったコヤブ歴史堂でしたが、九月末で残念ながら終了となりました。

コヤブ歴史堂の無い土曜の夜中がやってきます。
実は、今回の分と前回の分は、同じ日に収録いたしました。
一日二本録り、というわけです。

放送終了のお話しは、プロデューサー直々にお伝えいただきました。
一番残念に思われていたのは、われらが主管の小薮さんです。
年末などにはスタッフや出演者で忘年会などもあり、こはにわも参加させていただいたのですが、小薮さんは、いつも「ほんとうによい番組」「わたしが出させてもらっている番組では、もっとも好評です」とおっしゃっていました。

最終日も、「あ~残念だ」と嘆息されていましたし、「終わってしまうのは無念」とおっしゃられていました。

「わたしの経験では、よいスタッフ、よい出演者に巡り合えた、と思う番組ほど早く終わってしまうんですよね…」

番組が終わった後、参観させて頂いた生徒たちも記念写真に参加させていただき、その後、番組出演者ならびにスタッフみんなで「打ち上げの乾杯」をした際、こうコヤブさんはしみじみとポツリとおっしゃってました。

(次回に続く)
芸術、文化の秋です。

生徒たちによく言うのですが、やはり、なんといっても歴史上のさまざまなモノは、“実物”をみてほしいところです。
わたしは、高校生のとき、「日本史の教科書に出てくる遺跡などは、すべて見に行ってやろう」と決心し、休みの日や夏休みなどを利用して諸国を巡りました。
でも、あんがいと簡単で、と、いうのも、史跡の大部分は、実は近畿地方に集中しているからです。
なんというか… 日本史の半分は「近畿地方の歴史」みたいな感じですよね。

関西の子どもたちは、めぐまれています。
教科書に出てくる歴史上の遺物や史跡を、たいていは日帰りで見物できるからです。

関東地方の人たちは、へたすると、法隆寺も四天王寺も、東大寺の大仏も金閣も銀閣も、一生実物を見ない、という人もいるかもしれないのですから…

ですので、わたしはよく授業中などに、いろいろな史跡や美術館、博物館めぐりを勧めます。
ときには特別に解説プリントを作って配ってやったりもします。

さてさて、今回は、あえて東京の美術館をお勧めしたいと思っています。

 三井記念美術館

10月4日から11月24日までやっているのが、「東山御物の美」と題された、

 足利将軍家の至宝

の展示です。

室町幕府の3代将軍義満や8代将軍義政がコレクションした名品の数々を見ることができます。

ちょっと話が飛びますが…

10世紀に、中国では宋王朝が成立しました。
五代十国時代に、軍人たちが力を握って軍事政権が乱立・交替したために、宋王朝は軍・政の分離を図り、官僚主導の政治を勧めました。
周辺の民族たちとも、軍事力ではなく外交で和平を保とうとしていました。

しかし、遼(契丹)に圧迫され、さらにはその契丹をたおそうとして満州の金と手を組んだものの、外交の失敗から金の攻撃を受けて敗退します。
で、王朝そのものは、南においやられてしまうことになりました(南宋)。

そのときの皇帝に

 徽宗

という人物がいました。
「風流天子」と呼ばれ、この上なく芸術を愛し、コレクションするだけではなく、自ら筆をとって美しい書写を残したり、絵画を描いたりと、芸術家としての才を発揮しました。

この徽宗にあこがれたのが8代将軍足利義政でした。

かれは南宋時代の芸術をたくさん集め、徽宗の作品なども手に入れようとします。

徽宗の作品やこの時代の芸術家の作品は、もう発見されたらとんでもな値段がつくシロモロで、よってニセモノが多いのです。
よってインチキ美術商たちは、将軍や貴族、大名などに贋作を売りつけたりもしています。

ところが、足利義政は、めちゃくちゃ目利きができたようで、贋作を一品たりともつかまされてはいません。

「桃鳩図」

という、徽宗の描いた絵画は、教科書にもあるのですが、これは足利義政所蔵のもので、日本に存在しています。

義政は「風流天子」ならぬ「風流将軍」でした。

美的感覚はとぎすまされ、銀閣・東求堂など、かれのプロデュースした芸術空間の数々は、群を抜いてすばらしいものばかり…

徽宗皇帝は、第8代皇帝。
兄の皇帝が若くして死去したため、皇帝となりました。

奇しくも足利義政も8代将軍。
兄の将軍が若くして死去したため、将軍となりました。

人は「あこがれ」にせよ「好意」にせよ、自分に無いものを求めたために生まれるだけでなく“共鳴”“共感”できるところに生まれる意識でないかと思うのです。

徽宗に自らを重ねる…
宮廷の庭園をつくるために石を船で運ばせ、通れない橋があれば橋のほうを壊した皇帝、徽宗…

かれの「滅びの美学」に足利義政は深く共鳴したのかもしれません。

最初は将軍としての仕事に精励したにもかかわらず、自分の力ではどうしようもない“力”を感じて、芸術の世界に没頭する…
結果、政治や経済に距離をとり、応仁の乱をまねいて幕府の“滅び”を準備してしまう…

美しき「東山御物」の数々を是非、ご覧になっていただいて、足利家の美学を感じとっていただけたらな、と、思います。
秋の休日、東京の都心で、はるかかなたの京都の東山文化を感じる、というのもまた一興ですよ。