淀殿と京極竜子の杯争い…
ドラマでも小説でも、よくとりあげられる話です。
側室たちの対立、だけではなく、このエピソードは、北政所と淀殿の対立の“周辺”の逸話としてもよく利用されます。
関ヶ原の戦い、そして大坂の役…
淀殿と北政所の争いが、豊臣家を滅ぼし、家康に天下をとらせることにつながった…
多くの小説やドラマはこの筋立てが大好きです。
そもそも、「杯争い」そして北政所と淀殿の対立、というところに疑問を持ったのは、実はこの京極竜子さんのことを詳しく調べたことがきっかけでした。
もともと京極氏は北近江の大名。
若狭守護の名家武田氏に竜子は嫁いでいます。
しかし、夫の武田元明が明智光秀に加担したため、秀吉軍によって倒され、竜子は秀吉の側室になる、ということで京極家の存続を図ります。
近江の支配を進めていた秀吉にとっては、近江の名家、旧浅井や京極との関係を良好に保っておくことはある意味大切な“政策”だったのかもしれません。
血縁、地縁が大切にされていた時代、地元の人々にとっては「どういう関係の人なのか」ということは、重要な人物判定要素でした。
信長の血をひく浅井の娘たち、そして京極家の庇護…
秀吉にとっては織田政権の後継者を標榜する上では大切なことでした。
さてさて、京極竜子は、母は浅井氏の娘で、浅井の三姉妹たちとは従兄なんです。
しかも、この三姉妹と竜子はけっこう仲が良く、ずっと通交がありました。
わたしが、おや? と思ったのは、京極竜子さんが、豊臣氏が滅んでからの話を知ったときでした。
大坂の役後、淀殿に仕えていた侍女を引き取っただけでなく、秀頼の子(男子がいた。国松)が六条河原で処刑された後、その遺体を引き取っているのが、なんと竜子なんです。
さかのぼれば、関ヶ原の戦い後、出家してから寿芳院となった後、大坂城の淀殿および秀頼に使いを送ったり時季折々の贈り物をしたりとずいぶんと懇意にしているんですよ…
秀頼にもたびたび面会し、それどころか北政所ともたいへん親しくつきあいを続けています。
主の滅亡後、側室団はたいていは解体し、バラバラとなることが多い戦国時代にあって、彼女たちのつきあいはやや異例ともいえるところです。
何やら、主の寵をめぐっての愛憎劇、というような構図で、物語をすすめるときが多いのですが、戦国時代の大名家は、表向きは男、奥向きは女、と、役割が対等に分担されており、側室を通じての婚姻関係は、“外交”でもあり、現在のわたしたちが考えているような関係ではなかったと考えるほうがよいのかもしれません。
秀吉没後、関ヶ原の戦い、大坂の役までの期間、北政所・淀殿・寿芳院の三者は、協力して豊臣家の存続に力を注いでいた、と、考えるのが現在の歴史学の流れになりつつあります。
では、前田家に伝わる、「杯争い」の話はどう理解すればよいのでしょう…
まず、これが前田家に伝わる記録であることを考えると、利家の妻まつを、人格者として持ち上げるための逸話と考えられます。
では、この話はフィクションだったのか…
三人の仲の良さ、秀吉が上機嫌な宴席での話、北政所の親友まつも同席している身内の中での楽しいひとときであったと考えると、この「杯争い」は、記録の字面の読み方を単に誤っただけなのではないか、と、考えるとおもしろいですよ。翻訳しなおすとこうなります。
「さぁさあ、今日は身内の楽しい宴じゃ、みなにも酒をふるまおうぞ。」
と秀吉はめずらしく酒を口にする。
「ほれ、おねも飲め。」
「まぁまぁ、ではいただきます。」
「ああ、おいしい。では、お流れを…」
と、杯を回そうとする、
「あら、政所さまと殿下のお流れ、わたしが頂戴いたしたいですわ。」
「いやだわ、わたしが先よ」
「なにいってんの、わたしにくださいな」
「いやいや、秀吉さまとおねさまの杯ですよ。いただくならわたしですわ。だいいち、この場ではわたしが最年長なんですからね。」
一同爆笑で大盛り上がり(キャバクラかっ!)
てな、話が真相だった、と、考えるとおもしろくはありませんか?
「杯争い」ではなく「杯遊び」
秀吉政権末期の、最後の楽しい醍醐の花見の一コマでした。
【参考文献】
『豊臣秀吉研究』角川書店(桑田忠親)
『淀殿』ミネルヴァ書房(福田千鶴)
『北政所おね』ミネルヴァ書房(田端泰子)
『戦国三姉妹物語』角川選書(小和田哲男)
『北政所と淀殿』吉川弘文館(小和田哲男)
以上はなかなか楽しい本でした。是非機会があればお読みください。
コヤブ歴史堂の楽しさ、というと、毎回おいでいただいているゲストさんたちのトークがあります。
ほんとにたくさんのゲストのみなさんにおいでいただきました。
むろん芸人さんなのですが、ほんとうにみなさんおもしろいし、何よりプロの意識が高い方たちばかりでした。
本番前や楽屋などで、ほんとうにどういうようにすれば楽しくおもしろくなるか、いろいろみなさん“策”を練っておられました。
准レギュラーといってもよいほど、たくさんおいでいただいていたのが
宇都宮まきさん
でした。この方、ほんとに良い方ですよ。
もちろん、以前からテレビなどでお目にかかってはおりましたが、お会いしてお話しもさせていただいて、好感度ぐ~んとアップしました。
ほんとに明るく、性格のよい方です。
本番前、フロアのところにお茶やお菓子、軽食が用意されています。
収録の前や間、そこで色々出演者の方やスタッフの方とお話しするんですが、宇都宮さんは気軽にわたしなどにも話しかけてくださり、なんとはない世間話などもさせていただきました。
ちょうど、土肥ポン太さんと出られたときです。
その回は、貴族の楽しい話をさせてもらったときだったのですが、番組の中で「占い」の話が出てきました。
収録前の、軽食タイムのときに、ちょうど昔の貴族の“陰陽道”や占い、まじないの話になり、いろいろしゃべらせてもらったんです。
五行説
というのがあり、物事は
木→火→土→金→水
と、展開していく、というものです。そしてこれに陰陽を加えます。
木の陰陽
火の陰陽
土の陰陽
金の陰陽
水の陰陽
とすると、全部で10になりますよね。
これを「十干」といいます。
むかしは、プラス・マイナスとはいいませんので、それぞれ兄・弟と表現しました。
木の兄・木の弟
火の兄・火の弟
土の兄・土の弟
金の兄・金の弟
水の兄・水の弟
「木の兄」だから「きのえ」、「木の弟」だから「きのと」
同じように、「ひのえ」「ひのと」「つちのえ」「つちのと」「かのえ」「かのと」「みずのえ」「みずのと」となります。
もうわかりますよね。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
と表記されるものです。
これに十二支を重ねます。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
甲子・乙丑・丙寅・丁卯… と、あてはめといくと60番目が癸亥になり、61番目に最初の甲子にもどってきます。
還暦
という言葉、聞いたことありますよね? ぐるっとまわって一周するのが、60年。だから還暦と言うんです。
実は、これで年代を表記するときがあるんですよね。
大正十三年は、「甲子」の年です。
この年の八月、大きな球場がつくられました。もうご存知ですよね?
甲子園球場
です。
とうでしょう。歴史上の事件で、この十干十二支で表示されているもの、たくさんあると思いませんか? あれ、起こった出来事を表示しているんです。
乙巳の変
壬申の乱
戊辰戦争
などなど… 他にも歴史好きのみなさんなら、いろいろあげられますでしょ?
645年は巳年ですし、672年は申年ですし、戊辰戦争は辰年に起こった、というのが名前をみただけでわかるんですよね。
さて、十二支の動物たちにも、それぞれ「木火土金水」の性があてはめられます。
「午」は「火」の動物とされています。
「丙午」生まれは、火・火なので、火が重なりますでしょ?
江戸の町に大火事をもたらした、八百屋お七が、丙午生まれだ、と、いわれたのは、「火」が関係しているからで、そこから転じて「丙午生まれの女はだめだ」な~んていう“迷信”が生まれました。
(丙午生まれの女性のみなさん、丙午が気性が激しいとか悪い女だ、な~んてのは、こんな話から生まれた単なる迷信ですからどうかご安心ください。)
十二支では、子・辰・申は、「水」の性のものと考えられています。
火事になる家からネズミが逃げ出す、つまり、水がなくなる家に火が出る、というところに話がつながります。
昔の日本家屋の欄間や、屋根の軒下などに、ねずみ、竜、猿の絵や彫刻がほどこされている例が多いのはこのためです。(門などにみざるきかざるいわざるの三猿の彫刻があったりするのも申が水性のためです。)
河童という妖怪、ご存知ですよね。
あれは、顔が「ねずみ」、うでが「さる」、体が「りゅう」のウロコにおおわれている、というように、子・申・辰の水性の動物を合成して描かれた怪物なんです。
で、河童は、馬をひきずりこむでしょ? 火(午)は水(河童)に負ける、という話になっているわけです。
「午年」生まれは火性ですから、「申年」「辰年」「子年」など水性とは相性が悪い、な~んて「占い」にも利用されていくわけですね。
このようなお話しを、収録前の休憩時間にしたりしていました。
おもしろいことに、西洋の占星術でも、よくにた考え方をします。
12星座を「火」「土」「風」「水」に分けるんですよ。
「おひつじ座・しし座・いて座」が「火」
「おうし座・おとめ座・やぎ座」が「土」
「ふたご座・てんびん座・みずかめ座」が「風」
「かに座・さそり座・うお座」が「水」
番組では、土肥ポン太さんが「風」。
小薮さんや宇都宮さんが「土」。
風は自由に土の上を吹くけれど、土はほこりが舞って鬱陶しい!
となる関係になりやすい… 風は気にしてないけど土はイラっとする、という関係だ、な~んて話をさせていただきました。
おもしろいことに、番組スタッフもわたしも小薮さんもほとんどみんな「土」でした。
かたくて安定した結びつき…
分かれても、また、気が付けば、もとにもどる相性…
う~ん…
西洋の占いでは、コヤブ歴史堂は、もう一度再開されてもおかしくはないのですがねぇ~
ほんとにたくさんのゲストのみなさんにおいでいただきました。
むろん芸人さんなのですが、ほんとうにみなさんおもしろいし、何よりプロの意識が高い方たちばかりでした。
本番前や楽屋などで、ほんとうにどういうようにすれば楽しくおもしろくなるか、いろいろみなさん“策”を練っておられました。
准レギュラーといってもよいほど、たくさんおいでいただいていたのが
宇都宮まきさん
でした。この方、ほんとに良い方ですよ。
もちろん、以前からテレビなどでお目にかかってはおりましたが、お会いしてお話しもさせていただいて、好感度ぐ~んとアップしました。
ほんとに明るく、性格のよい方です。
本番前、フロアのところにお茶やお菓子、軽食が用意されています。
収録の前や間、そこで色々出演者の方やスタッフの方とお話しするんですが、宇都宮さんは気軽にわたしなどにも話しかけてくださり、なんとはない世間話などもさせていただきました。
ちょうど、土肥ポン太さんと出られたときです。
その回は、貴族の楽しい話をさせてもらったときだったのですが、番組の中で「占い」の話が出てきました。
収録前の、軽食タイムのときに、ちょうど昔の貴族の“陰陽道”や占い、まじないの話になり、いろいろしゃべらせてもらったんです。
五行説
というのがあり、物事は
木→火→土→金→水
と、展開していく、というものです。そしてこれに陰陽を加えます。
木の陰陽
火の陰陽
土の陰陽
金の陰陽
水の陰陽
とすると、全部で10になりますよね。
これを「十干」といいます。
むかしは、プラス・マイナスとはいいませんので、それぞれ兄・弟と表現しました。
木の兄・木の弟
火の兄・火の弟
土の兄・土の弟
金の兄・金の弟
水の兄・水の弟
「木の兄」だから「きのえ」、「木の弟」だから「きのと」
同じように、「ひのえ」「ひのと」「つちのえ」「つちのと」「かのえ」「かのと」「みずのえ」「みずのと」となります。
もうわかりますよね。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
と表記されるものです。
これに十二支を重ねます。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
甲子・乙丑・丙寅・丁卯… と、あてはめといくと60番目が癸亥になり、61番目に最初の甲子にもどってきます。
還暦
という言葉、聞いたことありますよね? ぐるっとまわって一周するのが、60年。だから還暦と言うんです。
実は、これで年代を表記するときがあるんですよね。
大正十三年は、「甲子」の年です。
この年の八月、大きな球場がつくられました。もうご存知ですよね?
甲子園球場
です。
とうでしょう。歴史上の事件で、この十干十二支で表示されているもの、たくさんあると思いませんか? あれ、起こった出来事を表示しているんです。
乙巳の変
壬申の乱
戊辰戦争
などなど… 他にも歴史好きのみなさんなら、いろいろあげられますでしょ?
645年は巳年ですし、672年は申年ですし、戊辰戦争は辰年に起こった、というのが名前をみただけでわかるんですよね。
さて、十二支の動物たちにも、それぞれ「木火土金水」の性があてはめられます。
「午」は「火」の動物とされています。
「丙午」生まれは、火・火なので、火が重なりますでしょ?
江戸の町に大火事をもたらした、八百屋お七が、丙午生まれだ、と、いわれたのは、「火」が関係しているからで、そこから転じて「丙午生まれの女はだめだ」な~んていう“迷信”が生まれました。
(丙午生まれの女性のみなさん、丙午が気性が激しいとか悪い女だ、な~んてのは、こんな話から生まれた単なる迷信ですからどうかご安心ください。)
十二支では、子・辰・申は、「水」の性のものと考えられています。
火事になる家からネズミが逃げ出す、つまり、水がなくなる家に火が出る、というところに話がつながります。
昔の日本家屋の欄間や、屋根の軒下などに、ねずみ、竜、猿の絵や彫刻がほどこされている例が多いのはこのためです。(門などにみざるきかざるいわざるの三猿の彫刻があったりするのも申が水性のためです。)
河童という妖怪、ご存知ですよね。
あれは、顔が「ねずみ」、うでが「さる」、体が「りゅう」のウロコにおおわれている、というように、子・申・辰の水性の動物を合成して描かれた怪物なんです。
で、河童は、馬をひきずりこむでしょ? 火(午)は水(河童)に負ける、という話になっているわけです。
「午年」生まれは火性ですから、「申年」「辰年」「子年」など水性とは相性が悪い、な~んて「占い」にも利用されていくわけですね。
このようなお話しを、収録前の休憩時間にしたりしていました。
おもしろいことに、西洋の占星術でも、よくにた考え方をします。
12星座を「火」「土」「風」「水」に分けるんですよ。
「おひつじ座・しし座・いて座」が「火」
「おうし座・おとめ座・やぎ座」が「土」
「ふたご座・てんびん座・みずかめ座」が「風」
「かに座・さそり座・うお座」が「水」
番組では、土肥ポン太さんが「風」。
小薮さんや宇都宮さんが「土」。
風は自由に土の上を吹くけれど、土はほこりが舞って鬱陶しい!
となる関係になりやすい… 風は気にしてないけど土はイラっとする、という関係だ、な~んて話をさせていただきました。
おもしろいことに、番組スタッフもわたしも小薮さんもほとんどみんな「土」でした。
かたくて安定した結びつき…
分かれても、また、気が付けば、もとにもどる相性…
う~ん…
西洋の占いでは、コヤブ歴史堂は、もう一度再開されてもおかしくはないのですがねぇ~
“事件”は醍醐の花見で起こりました。
ときの権力者、豊臣秀吉晩年の花見。
盛大に催されたこの花見に招待されたのは、2人をのぞいてみな女性でした。
(むろん大名、家臣団も「参加」してはいますが、花見そのものに参加はしていません。)
家臣や大名の妻、仕える女房たち1300人を越えたというから驚きです。
秀吉の「妻たち」も、むろん輿を連ねて花見に向かいました。
第一の輿にはもちろん、正室北政所(おね)。
第二の輿には、秀頼の生母淀殿(茶々)。
第三の輿には、松ノ丸殿(京極竜子)。
第四の輿には、三の丸殿。
第五の輿には、加賀殿(おまあ)。
で、前田利家の妻で北政所の親友、まつの乗った輿が続きました。
秀吉の派手好きは有名で、九州平定後には、北野で大茶会を開きましたが、その時以来の大宴会です。
そのときは、一般庶民も一定の条件をクリアすれば参加できましたが、今回は、大名や家臣たちに警固されるなか、「身内」の大宴会というような感じになりました。
ただ、権力者としての秀吉の末期が近いことを誰もが知っていてのことか、あちこちで、側近や大名たちが出会って「宴会外交」を展開し、秀吉後のことを“ひそひそ話”していたようです。
さて、宴席でのことでした。
もともと秀吉は、酒を嗜まないほうだったのですが、このときは少し口にしたようで、上機嫌だったそうです。
杯の“お流れ”
という慣習があります。
その座の主席者が飲んだ酒の「杯」を、次席、第三席、第四席… と、手渡されながら酒を飲んでいく、というものです。
そしてこの宴席でも、杯が流されることになりました。
秀吉が飲んだ杯を、正室北政所が受けます。
そして、「では、お流れを…」となったところで次席者に回すわけですが…
次席者は、嫡男の母、淀殿。
淀殿が、北政所から杯をもらおうとしたその時、
「お待ちください!」
と、声をあげる者が出ました。
松ノ丸殿(京極竜子)です。
「そのお流れ、わたくしが頂戴いたしたく存じます。」
「え…」とためらう北政所。
「な、なにを…」と気色ばむ淀殿。
「そもそも殿下の側室の主席はわたくしでございます。淀殿が北政所さまより杯を受けるのはおかしゅうございましょう!」と松ノ丸殿が申し立てました。
秀吉の寵をめぐる側室間の対立、という“女の争い”だけでなく、もともと京極家は淀殿の浅井家にとっては主筋にあたる家。
家格の上からも、「わたしのほうが先であろう!」というのが松ノ丸殿の主張です。
「杯の順番ごときで何を…」と苦笑いの秀吉。
北政所が何かを言おうとしたその時、
「お待ちくださいませ。」
と、ずい、と膝を前に進めたのが、末席にいた前田利家の妻まつでした。
「その杯、わたしが頂戴いたしましょう。」
「おお、まつ殿、わたしの流れを受けてくださいますか?」
と、北政所はホッと胸をなでおろす。
「おそれおおきことながら、北政所さまとは、昔からのおつきあい、姉妹以上の間柄、その杯はわたくしが頂戴いたすものでございましょう。」
まつの機転でその場がうまくまとまりました、という話なのですが…
実は、この話、ちょっと“裏”があるんです。
(次回に続く)
ときの権力者、豊臣秀吉晩年の花見。
盛大に催されたこの花見に招待されたのは、2人をのぞいてみな女性でした。
(むろん大名、家臣団も「参加」してはいますが、花見そのものに参加はしていません。)
家臣や大名の妻、仕える女房たち1300人を越えたというから驚きです。
秀吉の「妻たち」も、むろん輿を連ねて花見に向かいました。
第一の輿にはもちろん、正室北政所(おね)。
第二の輿には、秀頼の生母淀殿(茶々)。
第三の輿には、松ノ丸殿(京極竜子)。
第四の輿には、三の丸殿。
第五の輿には、加賀殿(おまあ)。
で、前田利家の妻で北政所の親友、まつの乗った輿が続きました。
秀吉の派手好きは有名で、九州平定後には、北野で大茶会を開きましたが、その時以来の大宴会です。
そのときは、一般庶民も一定の条件をクリアすれば参加できましたが、今回は、大名や家臣たちに警固されるなか、「身内」の大宴会というような感じになりました。
ただ、権力者としての秀吉の末期が近いことを誰もが知っていてのことか、あちこちで、側近や大名たちが出会って「宴会外交」を展開し、秀吉後のことを“ひそひそ話”していたようです。
さて、宴席でのことでした。
もともと秀吉は、酒を嗜まないほうだったのですが、このときは少し口にしたようで、上機嫌だったそうです。
杯の“お流れ”
という慣習があります。
その座の主席者が飲んだ酒の「杯」を、次席、第三席、第四席… と、手渡されながら酒を飲んでいく、というものです。
そしてこの宴席でも、杯が流されることになりました。
秀吉が飲んだ杯を、正室北政所が受けます。
そして、「では、お流れを…」となったところで次席者に回すわけですが…
次席者は、嫡男の母、淀殿。
淀殿が、北政所から杯をもらおうとしたその時、
「お待ちください!」
と、声をあげる者が出ました。
松ノ丸殿(京極竜子)です。
「そのお流れ、わたくしが頂戴いたしたく存じます。」
「え…」とためらう北政所。
「な、なにを…」と気色ばむ淀殿。
「そもそも殿下の側室の主席はわたくしでございます。淀殿が北政所さまより杯を受けるのはおかしゅうございましょう!」と松ノ丸殿が申し立てました。
秀吉の寵をめぐる側室間の対立、という“女の争い”だけでなく、もともと京極家は淀殿の浅井家にとっては主筋にあたる家。
家格の上からも、「わたしのほうが先であろう!」というのが松ノ丸殿の主張です。
「杯の順番ごときで何を…」と苦笑いの秀吉。
北政所が何かを言おうとしたその時、
「お待ちくださいませ。」
と、ずい、と膝を前に進めたのが、末席にいた前田利家の妻まつでした。
「その杯、わたしが頂戴いたしましょう。」
「おお、まつ殿、わたしの流れを受けてくださいますか?」
と、北政所はホッと胸をなでおろす。
「おそれおおきことながら、北政所さまとは、昔からのおつきあい、姉妹以上の間柄、その杯はわたくしが頂戴いたすものでございましょう。」
まつの機転でその場がうまくまとまりました、という話なのですが…
実は、この話、ちょっと“裏”があるんです。
(次回に続く)
後醍醐天皇の肖像画ほど“情報量”の多い肖像画はありません。
「後醍醐天皇の肖像画」
というと、清浄光寺に所蔵されているものが有名で、ほとんどの教科書の教科書でとりあげられているものです。
あんがいと全体像を見たことがない人もいるかもしれないので、ちょっと説明いたしますと…
まず、背後には大きな文字が書かれた紙が三枚、垂れ幕のように貼り付けられています。
向かって右から
「八幡大菩薩」
「天照皇大神」
「春日大明神」
三社託宣思想、というのがあります。
「八幡大菩薩」が「清浄」
「天照皇大神」が「正直」
「春日大明神」が「慈悲」
を示している、というのです。
わたしの伯母などは、「後醍醐天皇のお人柄を表しているんやで。」と申しておりましたが…
単純に、わたしなどは、
「八幡大菩薩」=武士
「春日大明神」=貴族(藤原氏)
「天照皇大神」=天皇・皇族
をそれぞれ象徴していて、この三つを天皇が統べるのが「建武の新政」なのだ、ということを示している、と考えておりました。
ただ、この「張り紙」は、この肖像画にはもともとなかったようで、後に貼付されたものと考えられています。
さて、後醍醐天皇の御姿なのですが…
当時の天皇の御衣裳とは、ずいぶんと違います。
頭
になんだか、ぶらさがっているものがたくさん付いている冠は、
冕冠(べんかん)
と、呼ばれるもので、中国の皇帝がかぶるものです。
あたかも、奈良時代の天皇のような感じ。
そして、そのてっぺんには、真っ赤な日輪が描かれている。
中世において“真っ赤な”日輪とともに描かれている天皇、というのは美術史的にも珍しいものです。
というのも、これは、奈良時代どころか、飛鳥時代の聖徳太子の時代によく使用されたもので、天武天皇以後、天皇とともに描かれる「日月」は、
金と銀
で描かれるようになったからです。
南北朝時代は、“第三次聖徳太子ブーム”のときなので、日輪を「赤」に描く、という“復古的”なことがおこなわれたのかもしれません。
御召し物をチェックいたしますと…
黄櫨染御袍
ん??? なんだこりゃ?? となりそうですが、「こうろぜんのごほう」と読み、天皇しか着ることが許されないものです。
で、その上から
袈裟
をかけられていて、左右の御手には、杵(しょ)と鈴(りん)という密教の仏具を持たれておられます。
座する畳のふちには「獅子」が描かれ、敷物は「蓮」。
蓮の上に坐する、というのは、天皇御自身が、あたかも曼荼羅の中心の大日如来であるかのよう…
神なの?仏なの?皇帝なの?
という、ものすごい御姿で後醍醐天皇が鎮座されているわけです。
そもそも、この御姿、仇敵調伏、の祈禱をなさっているもの、とはよく言われるところです。
密教の呪法と祈禱によって、鎌倉幕府を倒す! という意志をしめしているとよく説明されるときがあるのですが…
じっとこの肖像画をみつめていると、そんな猛々しい印象は伝わってこないような気がします。
穏やかで、上品で、何やら御満悦、という感じの御表情です。
やはり、武士・皇族・貴族を束ねた新しい政治をおこなう、そしてそれを実現できたのだ、というような、「建武の新政」の“そのもの”を示している絵画のような気がします。
「後醍醐天皇の肖像画」
というと、清浄光寺に所蔵されているものが有名で、ほとんどの教科書の教科書でとりあげられているものです。
あんがいと全体像を見たことがない人もいるかもしれないので、ちょっと説明いたしますと…
まず、背後には大きな文字が書かれた紙が三枚、垂れ幕のように貼り付けられています。
向かって右から
「八幡大菩薩」
「天照皇大神」
「春日大明神」
三社託宣思想、というのがあります。
「八幡大菩薩」が「清浄」
「天照皇大神」が「正直」
「春日大明神」が「慈悲」
を示している、というのです。
わたしの伯母などは、「後醍醐天皇のお人柄を表しているんやで。」と申しておりましたが…
単純に、わたしなどは、
「八幡大菩薩」=武士
「春日大明神」=貴族(藤原氏)
「天照皇大神」=天皇・皇族
をそれぞれ象徴していて、この三つを天皇が統べるのが「建武の新政」なのだ、ということを示している、と考えておりました。
ただ、この「張り紙」は、この肖像画にはもともとなかったようで、後に貼付されたものと考えられています。
さて、後醍醐天皇の御姿なのですが…
当時の天皇の御衣裳とは、ずいぶんと違います。
頭
になんだか、ぶらさがっているものがたくさん付いている冠は、
冕冠(べんかん)
と、呼ばれるもので、中国の皇帝がかぶるものです。
あたかも、奈良時代の天皇のような感じ。
そして、そのてっぺんには、真っ赤な日輪が描かれている。
中世において“真っ赤な”日輪とともに描かれている天皇、というのは美術史的にも珍しいものです。
というのも、これは、奈良時代どころか、飛鳥時代の聖徳太子の時代によく使用されたもので、天武天皇以後、天皇とともに描かれる「日月」は、
金と銀
で描かれるようになったからです。
南北朝時代は、“第三次聖徳太子ブーム”のときなので、日輪を「赤」に描く、という“復古的”なことがおこなわれたのかもしれません。
御召し物をチェックいたしますと…
黄櫨染御袍
ん??? なんだこりゃ?? となりそうですが、「こうろぜんのごほう」と読み、天皇しか着ることが許されないものです。
で、その上から
袈裟
をかけられていて、左右の御手には、杵(しょ)と鈴(りん)という密教の仏具を持たれておられます。
座する畳のふちには「獅子」が描かれ、敷物は「蓮」。
蓮の上に坐する、というのは、天皇御自身が、あたかも曼荼羅の中心の大日如来であるかのよう…
神なの?仏なの?皇帝なの?
という、ものすごい御姿で後醍醐天皇が鎮座されているわけです。
そもそも、この御姿、仇敵調伏、の祈禱をなさっているもの、とはよく言われるところです。
密教の呪法と祈禱によって、鎌倉幕府を倒す! という意志をしめしているとよく説明されるときがあるのですが…
じっとこの肖像画をみつめていると、そんな猛々しい印象は伝わってこないような気がします。
穏やかで、上品で、何やら御満悦、という感じの御表情です。
やはり、武士・皇族・貴族を束ねた新しい政治をおこなう、そしてそれを実現できたのだ、というような、「建武の新政」の“そのもの”を示している絵画のような気がします。
もし、高見王が、なんらかの理由で官位を剥奪されたか、あるいは単に早くに死んでしまったからなのか、そうであったとしたなら、子の高望王は、都での出世というのはのぞめないことになります。
ただ、ここからが、人の性格、というのが出るところで…
ま、無難に都で暮らしていこう。
出世などしなくてもよい。
と、考える人か、
新天地で新しい生活を始めよう。
都などには未練はない。
と考える人か…
そうんですよね。落ちぶれたから東国へ、出世できそうだから都で、とは限らない人生の選択もあるんです。
そもそも、記録では、謀反を起こした貴族を鎮圧した“功績”で上総国の支配権をもらった、ということになっていますから、成功による転身、と考えてよいところです。
バージニアに渡ったウォルター=ローリー卿
英王ジェームズ1世の弾圧をのがれたピルグリム=ファーザーズ
何らかの“きっかけ”で“境遇”を転換させよう、とは、成功者でも失敗者でも考えるところなんですよね。
なぜ、高望王が、東国へ落ちたのか? の穿鑿はあまり意味がないことかもしれません。
名前のとーり、高き望みを抱いての東国行だったのでしょう。
高望王は、三人の息子たちを連れて東国に赴きます。
これが
国香
良兼
良将
でした。
このころは
遥任
と、いって代理人(目代)を派遣して都に居ながら利益だけを得る国司もいたのに、高望王はその選択をしませんでした。
蹴馬の輩
という言葉があります。
この時代、地方、とくに東国で、馬などを用いて輸送をする人たちがいて、ときに運送業に携わり、ときに盗賊としてふるまう、ちょっと困った人々が跳梁していました。
関東地方は当時、利根川の水郷があり、水運、陸運に携わる人がそれなりの力を持ち、都に逆らう自主自立の気風で暮らしていました。
この蹴馬の輩たちを、ときに力で屈服し、ときに対話で説得し、ときに人柄で魅了して、うまくおさめたのが高望王でした。
任期がきれても高望王は都にはもどりません。
それどころか、子どもたちを地元の有力者の娘と結婚させて、この地に“根”を張る決心をしたようでした。
国香には常陸の源護(みなもとまもる)の娘、良将は上総の犬養春枝の娘と婚姻させ、常陸・下総・上総の広い荒地を開拓する開発領主となりました。
根の時代
芽の時代
茎の時代
などを経て、花の時代を迎える、というのが人の世の発達段階、というもの。
この根の時代なくして、武士の双璧、源平の時代はやってくることはなかったでしょう。
さて、おもしろいことに高望王は…
(次回に続く)
ただ、ここからが、人の性格、というのが出るところで…
ま、無難に都で暮らしていこう。
出世などしなくてもよい。
と、考える人か、
新天地で新しい生活を始めよう。
都などには未練はない。
と考える人か…
そうんですよね。落ちぶれたから東国へ、出世できそうだから都で、とは限らない人生の選択もあるんです。
そもそも、記録では、謀反を起こした貴族を鎮圧した“功績”で上総国の支配権をもらった、ということになっていますから、成功による転身、と考えてよいところです。
バージニアに渡ったウォルター=ローリー卿
英王ジェームズ1世の弾圧をのがれたピルグリム=ファーザーズ
何らかの“きっかけ”で“境遇”を転換させよう、とは、成功者でも失敗者でも考えるところなんですよね。
なぜ、高望王が、東国へ落ちたのか? の穿鑿はあまり意味がないことかもしれません。
名前のとーり、高き望みを抱いての東国行だったのでしょう。
高望王は、三人の息子たちを連れて東国に赴きます。
これが
国香
良兼
良将
でした。
このころは
遥任
と、いって代理人(目代)を派遣して都に居ながら利益だけを得る国司もいたのに、高望王はその選択をしませんでした。
蹴馬の輩
という言葉があります。
この時代、地方、とくに東国で、馬などを用いて輸送をする人たちがいて、ときに運送業に携わり、ときに盗賊としてふるまう、ちょっと困った人々が跳梁していました。
関東地方は当時、利根川の水郷があり、水運、陸運に携わる人がそれなりの力を持ち、都に逆らう自主自立の気風で暮らしていました。
この蹴馬の輩たちを、ときに力で屈服し、ときに対話で説得し、ときに人柄で魅了して、うまくおさめたのが高望王でした。
任期がきれても高望王は都にはもどりません。
それどころか、子どもたちを地元の有力者の娘と結婚させて、この地に“根”を張る決心をしたようでした。
国香には常陸の源護(みなもとまもる)の娘、良将は上総の犬養春枝の娘と婚姻させ、常陸・下総・上総の広い荒地を開拓する開発領主となりました。
根の時代
芽の時代
茎の時代
などを経て、花の時代を迎える、というのが人の世の発達段階、というもの。
この根の時代なくして、武士の双璧、源平の時代はやってくることはなかったでしょう。
さて、おもしろいことに高望王は…
(次回に続く)