東山御物の美 | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

芸術、文化の秋です。

生徒たちによく言うのですが、やはり、なんといっても歴史上のさまざまなモノは、“実物”をみてほしいところです。
わたしは、高校生のとき、「日本史の教科書に出てくる遺跡などは、すべて見に行ってやろう」と決心し、休みの日や夏休みなどを利用して諸国を巡りました。
でも、あんがいと簡単で、と、いうのも、史跡の大部分は、実は近畿地方に集中しているからです。
なんというか… 日本史の半分は「近畿地方の歴史」みたいな感じですよね。

関西の子どもたちは、めぐまれています。
教科書に出てくる歴史上の遺物や史跡を、たいていは日帰りで見物できるからです。

関東地方の人たちは、へたすると、法隆寺も四天王寺も、東大寺の大仏も金閣も銀閣も、一生実物を見ない、という人もいるかもしれないのですから…

ですので、わたしはよく授業中などに、いろいろな史跡や美術館、博物館めぐりを勧めます。
ときには特別に解説プリントを作って配ってやったりもします。

さてさて、今回は、あえて東京の美術館をお勧めしたいと思っています。

 三井記念美術館

10月4日から11月24日までやっているのが、「東山御物の美」と題された、

 足利将軍家の至宝

の展示です。

室町幕府の3代将軍義満や8代将軍義政がコレクションした名品の数々を見ることができます。

ちょっと話が飛びますが…

10世紀に、中国では宋王朝が成立しました。
五代十国時代に、軍人たちが力を握って軍事政権が乱立・交替したために、宋王朝は軍・政の分離を図り、官僚主導の政治を勧めました。
周辺の民族たちとも、軍事力ではなく外交で和平を保とうとしていました。

しかし、遼(契丹)に圧迫され、さらにはその契丹をたおそうとして満州の金と手を組んだものの、外交の失敗から金の攻撃を受けて敗退します。
で、王朝そのものは、南においやられてしまうことになりました(南宋)。

そのときの皇帝に

 徽宗

という人物がいました。
「風流天子」と呼ばれ、この上なく芸術を愛し、コレクションするだけではなく、自ら筆をとって美しい書写を残したり、絵画を描いたりと、芸術家としての才を発揮しました。

この徽宗にあこがれたのが8代将軍足利義政でした。

かれは南宋時代の芸術をたくさん集め、徽宗の作品なども手に入れようとします。

徽宗の作品やこの時代の芸術家の作品は、もう発見されたらとんでもな値段がつくシロモロで、よってニセモノが多いのです。
よってインチキ美術商たちは、将軍や貴族、大名などに贋作を売りつけたりもしています。

ところが、足利義政は、めちゃくちゃ目利きができたようで、贋作を一品たりともつかまされてはいません。

「桃鳩図」

という、徽宗の描いた絵画は、教科書にもあるのですが、これは足利義政所蔵のもので、日本に存在しています。

義政は「風流天子」ならぬ「風流将軍」でした。

美的感覚はとぎすまされ、銀閣・東求堂など、かれのプロデュースした芸術空間の数々は、群を抜いてすばらしいものばかり…

徽宗皇帝は、第8代皇帝。
兄の皇帝が若くして死去したため、皇帝となりました。

奇しくも足利義政も8代将軍。
兄の将軍が若くして死去したため、将軍となりました。

人は「あこがれ」にせよ「好意」にせよ、自分に無いものを求めたために生まれるだけでなく“共鳴”“共感”できるところに生まれる意識でないかと思うのです。

徽宗に自らを重ねる…
宮廷の庭園をつくるために石を船で運ばせ、通れない橋があれば橋のほうを壊した皇帝、徽宗…

かれの「滅びの美学」に足利義政は深く共鳴したのかもしれません。

最初は将軍としての仕事に精励したにもかかわらず、自分の力ではどうしようもない“力”を感じて、芸術の世界に没頭する…
結果、政治や経済に距離をとり、応仁の乱をまねいて幕府の“滅び”を準備してしまう…

美しき「東山御物」の数々を是非、ご覧になっていただいて、足利家の美学を感じとっていただけたらな、と、思います。
秋の休日、東京の都心で、はるかかなたの京都の東山文化を感じる、というのもまた一興ですよ。