成人の条件・人間の条件 | 彼の西山に登り

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公務員試験講師があれこれ綴るブログ。

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昨日で成人の日がらみの3連休も終わり、今日から本格的に平常の2023年が始まったという方もいるでしょう。

成年年齢が満18歳に引き下げられたことから、成人の日の行事をどうするか、各自治体頭を悩ましているようです。

特に18歳の方は大学受験の関係がありますし、飲酒が認められるのは20歳以上に据え置かれましたから、これからは大っぴらに飲めるぞ、と構えている20歳の方と一緒というのも難しいでしょう。

しばらくは試行錯誤が続くのかもしれません。

 

それにしても、「成人」とは、「人と成る」ということですから、ずいぶん大げさな話で、「成人」でなければ「人ではない」のか、と揚げ足を取りたくなりますが、もちろんそのように解していた時代・文化はある訳です。

春秋・戦国時代のような古代中国がそれだったので、「何だ、古代の話か」というなかれ、この時代の考え方は、三礼(周礼、儀礼、礼記)のような文献に固定され、これが儒教の経典となったことで、非常に強く長い影響力を持ちました。

現代の我が国でも全ての影響力が失われたわけではありません。

 

例えば、「礼記」に記された考え方では、成人すると周囲から礼を以って扱われる資格を得ますが、同時に自分も礼に沿った振る舞いを要求され、成人前の童子のように、好き勝手に振舞えなくなります。

 

「之を成人とするは、将に成人の礼を責めんとすればなり。成人の礼を責むとは、将に、人の子為り、人の弟為り、人の臣為り、人の少為る者の礼の行はれんことを責めんとするなり。」

(彼を成人として待遇するのは、彼に成人の《礼》を要求するためである。要求される成人の《礼》とは、人の子として、人の弟として、人の臣として、人の年少者として果たすべき、《礼》に則った振る舞いである。)※1

 

そして、礼は人と禽獣を分ける基準であることから、童子はもちろん、例え20歳以上でも礼に沿った振る舞いができない文化圏の者(戎狄)は人間扱いではなく、動物と同レベルの扱い、ということになります。

 

……この見方からすると、成人式で暴れる者などは、成人どころか人に値しない禽獣レベル、ということになり、「荒れる成人式」にイラついて、そのような発言をするおっさんも毎年いなくはありません。

しかし、、もちろん、このような差別的な?思想が近代国家に通用するはずもありません。

近代国家においては、大人であれ子供であれ、人間は皆平等のはずです。

ただ、判断能力の観点等から、大人の方が子供より自由の幅が広いというのはやむを得ず、だからこそ成人したての若者が開放感を持って、飲んだくれたり暴れたり、文字通り「箍の外れた」振る舞いに及ぶのでしょう。

 

とはいえ、この若者も、大人と子供は異なる存在だ、という考えが前提になっていることには変わりありません。

それを前提に、自分が子供から大人になった、ことを自己確認したくて、暴れたり昨日までは説諭で済むところを警察にしょっ引かれたリするんでしょうからね。

 

ところが、現在では、平等主義をさらに貫徹する形で、「子どもの権利」なる主張が登場しています。

時代の方向としては、大人と子供は本質的には同じものだ、差をなくしていこう、という向きに進んでいます。

本当にそんなことが可能なのか、という疑問はさておき、そういうご時世に「成人の条件は?」などというのは、問題設定自体が古臭い、ということになるのかもしれません。

成人の条件が曖昧なご時世に成人式の持つ意味は?ということにはなると思いますが。

 

 

一方で、注目すべきものとして、OECD主催の国際調査である「PIAAC(国際成人力調査)」があります。

この第1回調査は、24か国・地域において、16歳から65歳の成人約157000人を対象として実施され、結果が平成25年に発表されています(ちなみに第2回調査は現在実施中です)。

この調査は、社会生活において成人に求められる能力のうち、読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力の3分野のスキルの習熟度を測定することを目的としたものです。

 

この第1回調査の結果を、作家・橘玲氏が同氏らしくやや挑発的?にまとめたところによると、

 

①日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。

②日本人の3分の1以上が小学校3~4年生の数的思考力しかない。

③パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。

④65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない。

 

とのことですが、驚くべきことに、「こんな悲惨な成績なのに、日本はOECDに加盟する先進諸国のなかで、ほぼすべての分野で1位なのだ。」※2

 

高度化した知識社会である現代さらには近未来の社会が適応を要求する「人間の条件」は、少々上がり過ぎなのではないか、と感じるのは私だけでしょうか。※3

一定の知的レベルが期待できるであろう公務員試験受験生でも、「受験案内」の類が十分読めない人が年々増えているようにも思います。

近未来社会に適応する能力の乏しい膨大な数の人々がどうなるのか、どうするのか、公務員としても今後益々無関心ではいられなくなるはずです。

 

 

 

※1 礼記冠義篇第43。現代語訳は、桃崎有一郎 『礼とは何か』 人文書院 2020年 P102による。なお、同書では、礼儀作法やマナーの類ではなく、「礼」という一文字が示す「一つの世界観(宇宙観)であり思想である「礼」を《礼》と表記」していますが(同書P27)、ここでは立ち入りません。

 

※2 橘玲 『もっと言ってはいけない』 新潮社(新潮新書) 2019年 PP23~24。この長広舌駄文も、誤読される可能性が極めて高いということですな(笑)。

 

※3 橘※2 P28によれば、この「国際成人力調査」の背景には、「欧州を中心に高い失業率が社会問題になっているのに、経営の側から「いくら求人を出しても必要な人材を雇えない」という不満が高まっているから」といった事情があるそうです。この趣旨から作られた同調査の内容は、本文のような「人間の条件」というより、「(経営者にとって使える)労働者の条件」といった方がいいかもしれません。ただ、資本主義社会において資本家(と地主)以外は労働者として生計を立てることになるでしょうから、まあ大雑把には「人間の条件」といっていいでしょう。