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前回の続きです。
二・二六事件について感じたもう1点は、事後処理についてです。
今日は2/27ですが、事件発生の翌日、1936(昭和11)年2月27日には、東京市(当時)に戒厳が宣告されました。
事件自体は2/29にはほぼ鎮定されたのですが、その後も戒厳状態は継続し、戒厳解止(終了)されたのは反乱将校等の死刑執行(7/12)後の7月18日で、とっくの昔に治安は回復していたにもかかわらず、随分長引いています。
なお、この時の戒厳は法令としての「戒厳令」(明治15年太政官布告第36号・大日本帝国憲法76条1項により法律(同法14条2項参照)扱い)に基づくもの(いわゆる勅令戒厳ないし軍事戒厳)ではなく、「戒厳令」の一部を適用する緊急勅令(憲法8条1項により法律事項を規定できる)に基づくもの(いわゆる行政戒厳)です。
この「行政戒厳」は、上記のように法的な正当化は可能ではありますが、「戒厳令」の規定する要件に該当しない場合に戒厳宣告したり、本来「戒厳令」に規定された以上の効力(人権制限や統治権の軍司令官への移管)を持たせたりするために用いられる嫌いがありました。
二・二六事件の場合、この行政戒厳は、「東京陸軍軍法会議」による事件処理を正当化する、というより、その「雰囲気作り」に利用された感があります。
この「東京陸軍軍法会議」は、陸軍軍法会議法に基づくものではなく、緊急勅令である「東京陸軍軍法会議ニ関スル件」(昭和11年勅令第21号)を根拠に設置されたものです。
このような特別な裁判所を設置したのは、表面的には反乱軍人の併合審理のためと説明されたのですが、真の目的は、「弁護人なしの秘密審理による一審終審制を利用しての、迅速な処断と法廷闘争の阻止、そして常人(軍人以外の者:吉川)を軍法会議の管轄下に置くこと」(※1)であるとされています。
前提として、戦前の我が国の場合、軍法会議(軍の裁判所)と通常裁判所の管轄は、原則として被告人が軍関係者(軍人等)かそうでないか(常人)という被告人の身分・属性によって決まります。
また、平時における「常設軍法会議」(陸軍の場合は師団軍法会議と高等軍法会議)の手続は、公開審理であり、弁護人もつけられますし、師団軍法会議の判決に対し上告理由があれば高等軍法会議に上告できます。
もっとも、これらの保障は、戦地等で臨時に設置される「特設軍法会議」では外されます。
そして、東京陸軍軍法会議は「陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」(東京陸軍軍法会議ニ関スル件6条)とされています。
これにより上記の措置が可能になったわけです。
そして、前線でも占領地でも合囲地でもない東京で特設軍法会議を設置することを政府や国民に納得させるために、戒厳下である、という状況が必要だった、ということでしょう。※2
「行政戒厳」という抜け道があったことは考慮しなければなりませんが、「緊急事態法制」というのは、このような利用の仕方もされる危険があるという点は、歴史の教訓でしょう。
緊急事態を前提とした場合、事前の立法でいかに要件・効果を緻密に規定したところで、実際の必要性を目前にすれば、それが遵守されるかは保証の限りではありませんし、場合によってはその制限を遵守することで国民がより危険にさらされることもあり得るでしょう。
むしろ、伝統的な英米法におけるように、緊急事態下における政府・軍は必要性に基づいて行動し、その行為は緊急事態後に国会で免責された場合に限り正当化される、という仕組みの方が、権力の濫用を防ぐことができるかもしれません。※3
※1 大江志乃夫『戒厳令』 岩波書店(岩波新書) 1978年 P188。
※2 陸軍幹部がここまでこだわったについては、1932(昭和7)年の五・一五事件の際、被告人の身分に応じて、海軍の軍法会議(海軍軍人)、陸軍の軍法会議(元陸士候補生)、東京地方裁判所(常人)で分離して審理され、常設軍法会議の公開法廷で被告人が自説を展開したり、それが報道されると助命嘆願運動が起こり、少なくとも軍人に関しては、求刑より軽い刑が結果した前例が影響しているでしょう。
時の陸軍部内における「統制派」と「皇道派」の権力闘争下で、統制派の幹部がこの事件を利用して反乱将校が属する皇道派を徹底的に弾圧しようとしたことと、軍のメンツを守るため常人(具体的には北一輝と西田税)に事件の首魁を押し付けようとした意図が看取されます。
※3 大江同書 P216参照。