それでは前回琵琶記疏水記念館2の続きから始めさせていただきます。
引き続き第1展示室のご紹介をさせていただきます。
ここには前回、北側国道の展示をご紹介した時に名前が出た土木技師の田邊朔郎が残した工事日誌、渡米後に作成した琵琶湖疏水利用に関する報告書、渡米時の日記、そして琵琶湖疏水の難工事を成し遂げた業績を称えて英国土木技術協会から贈られたメダルが展示されています。
また、ここには田邊朔郎が卒業した工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)の卒業論文の草稿が展示されているのですが、この卒業論文は琵琶湖疎水工事に関するもので、彼は学生時代から琵琶湖疏水を題材として土木工学を学んでいたことがわかります。
そして、第1展示室について最後にご紹介するのは疎水工事の記録として田村宗立、川田小龍らが描いた絵画や工事に使用した道具類(ダイナマイトの導火線、トンネル内照明に使用したカンデラなど)が展示されています。
田村宗立
弘化3年(1846年)現在の京都府南丹市に生まれ、京都中学で英語を学び通訳をする傍ら通訳業で知り合った外国人から西洋画を学び、その後は日本洋画界の草分けとなった。
川田小龍
文政7年(1824年)現在の高知市で土佐藩士の家に生まれる。その後、京都、大坂で絵を学び、高知に戻る。明治維新後に京都府知事の北垣国道に招かれ琵琶湖疏水工事の進行状況や風景の書き残す仕事に従事した。坂本龍馬や尊皇攘夷派の指導者としても知られる。
疎水工事が開始された明治18年当時は既に写真が普及し始めていましたが、まだ画質も悪く、撮影条件(明るさ、露出時間など)が限られており、特にトンネル内では現代のような強い照明がまだ無いので、人間の目で見た写生による記録が重要だった思われます。
この第1展示室で感慨深かったことが二つあるのですが、お話が長くなりそうなので、このお話は次回に譲りたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。