それでは前回リンクの続きから始めさせていただきます。
この第1展示室で感慨深かった一つ目は、まだ大学(工部大学校)を卒業して間もない20代の青年である田邊朔郎が土木技師として疎水工事全般を監督したことです。
現代であればこれだけの大工事を大学卒業間もない20代の青年が責任者として任されることはまずあり得ませんが、当時はどのような判断基準でこの大事業を20代の青年に任せよう考えたのでしょうか?
いずれにせよその決断をした当時の京都府知事である北垣国道とそれに応えて難工事をやり遂げた田邊朔郎の両氏には畏敬の念を禁じ得ません。
これは私見ですが、田邊朔郎が卒業間もなくに琵琶湖疏水という大工事を成し遂げたという事実から推測すると明治期の大学(大学相当)の卒業者と現代の大学卒業者では知識、思考力、行動力、なによりもやってやろうという気概に雲泥の差があるように思います。
私も技術者の端くれですが、大学卒業間もなくにこんな大仕事をやり遂げれるとはとても思えません。
二つ目は琵琶湖疏水の建設工事がほぼ全て日本人だけの手で成されたことです。
琵琶湖疏水以前に日本人だけの手により行われた大きな土木工事としては滋賀と京都をつなぐ逢坂山の鉄道トンネル工事が知られていますが、逢坂山トンネル670メートルに対し、琵琶湖疏水は当時最長の第一トンネルを含む3つのトンネルを含む総延長2キロメートルという桁違いの大工事でした。
琵琶湖疏水では計画、設計、施工、そして当時は外国からの輸入で賄われていた資材の多くも田邊朔郎が書物からの知識をもとに日本人技術者を教育して日本人の手で作っていました。
勿論、トンネルを掘ったり、水路を開削する力仕事も日本人が行っていたのは言うまでもありません。
西洋式の土木工事の経験が乏しいなか、外国人の手を借りず手探りで工事を進めてゆく苦労は想像を絶するものがあったと思いますが、それらをやり遂げようとする気持ちの強さに驚かされます。
さて、第1展示室のご紹介はこのあたりにして、次回から第2展示室のご紹介に移りたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。