さて、前回お話できなかった本題であるお祭り広場についてお話したい。
お祭り広場は万博の開会式、閉会式、そして万博に参加している各国の国際色豊かな催しものが行われていた場所である。
当時のお祭り広場とそこで開催されていた催しものの様子が次の画像である。
(当時の画像を持ち合わせていなかったので、ネットから画像を拝借した)
一枚目は少し見にくいが、赤と紺の万博の公式ユニフォームを着ている女性が多く見られるので万博の公式行事かと思われる。
二枚目は衣装からすると南太平洋のどこかの国のイベントであろうか。
お祭り広場ではこういう催しが連日開かれていたが、残念ながら私には全く見た記憶が無い。
私を万博へ連日連れて行った母親の目的は各国のパビリオン(展示施設)を見て見聞を広めることだったので、こういうイベントには目もくれなかったのだろう。
いつもなら、こうして書いているうちに色々思い出して筆を進めるのだが、どうも当時の万博での私たちの行動はイベントなどを楽しむ目的では無かったようなので、どうもこれ以上お祭り広場の思い出を語ることはできないようだ。
読者の皆さんから「そんなやったら、なんでお祭り広場の話なんか書いとるんじゃ」とお叱りの声が 聞こえそうだが、この話を書いていきながら記憶をたどるとお恥ずかしながら、これ以上くわしくは書けないようである。
最近は昔の記憶が曖昧になっているようです。
ご容赦願いたい。
過去のことはこれぐらいにして現在のお祭り広場がこちらである。
現在はイベントスペースとして使われており、主にフリーマーケットが開催されている。
今も昔もお祭り広場はイベントスペースとして賑わっている。
この場所には太陽の塔の今昔(2)
で触れた、太陽の塔の周りを覆っていた大屋根の骨組みの一部が保管されている。
万博公園になったいまでもこの場所はお祭り広場という名で呼ばれ親しまれている。
このお祭り広場の賑わいを後に万博公園を出ようとしてふと振り向いて、太陽の塔を見て思ったことを記して今回のお話を締めくくりたい。
高度成長の絶頂期である1970年(昭和45年)、急速な経済発展で経済大国に向かってまっしぐらの日本人ビジネスマンが日本の商品を海外で売りまくり、その利益で海外資産を次々に買いあさり、世界中からエコノミックアニマル(経済的利潤の追求を第一として活動する人を批判した言葉)と蔑まされながらも経済的豊かさを謳歌した時期から、バブル崩壊後の急速な経済の収縮、さらにアジアの経済大国の座を中国に譲り、落日を迎えつつある日本を見続けてきた太陽の塔はこれからどんな日本を見るのだろうか?
そして、私が土に還って、自分自身の目で見れなくなった後も、太陽の塔が日本の未来の姿、そして私たちの子孫の姿を見続け、後世の人々に日本の繁栄と落日、そしてその後の日本を伝えていってくれることを祈りつつ万博公園を後にした。
双眸が日本の未来とこしへに
見続けるかな太陽の塔
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。