太平洋のさざ波 24(1章ハワイ) | ブログ連載小説・幸田回生

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読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 24

「西船橋なら僕が住んでいる街です」

 


「そうですか!」

 


 彼は日本語のトーンを一段と上げた。

 


「懐かしい!
 西船橋がわたしとあなたを巡り合わせてくれた」

 


 一息入れて、

 


「あの時代に戻りたい!」

 


 と、彼は呟いた。



「本場のドン・キホーテに行ったことがないようにアメリカに帰国以来、わたしは日本にも行ったことがありません。

 


 行こうと思えば、今すぐでも日本に行けるのですが、
 ニューヨーク、ロサンゼルス、ホノルルから飛行機に乗ってしまえば済むのですが、わたしは成田行きのチケットを買うことができませんでした。
 日本に行くに行けない自分がいます。

 


 お金の問題ではありません。
 アメリカ人のわたしにはビザも必要ありません。
 明日にでも飛行機に飛び乗り、成田行のシートでぐっすりと眠り込めば、懐かしの日本が待っているというのに臆病なわたしは愛する日本の土を踏むことができないのです」

 


「日本で何があったのですか?」

 


 そう言う俺を無視するように老人は左手首のカシオチープに目を落とし、突然、席を外して、数分後に戻って来た。



「洗濯が終わり、洗濯物を乾燥機に放り込んできました。
 日本が懐かしい。
 あの頃は夢のような一時でしたが、何を間違ってか、
 5年間の日本滞在を後にわたしはアメリカに戻って来ました。
 結婚するためです。

 


 日本人と結婚できればよかったのですが、そうすれば、
 配偶者ビザに切り替え、そのまま日本に住み続けられたのですが、生憎、わたしの妻となった人は中国系のアメリカ人でした。
 今にして思えば、日本人と想って、妻に声を掛けたのが間違いの元でした。

 


 その頃はわたしは日本人、日系アメリカ人、中国人、中国系アメリカ人を見分けるのは困難でした。      
 彼らに大きな違いがあるとは考えもつきませんでした。



 妻はわたしと同じく東京で英語教師をしていたのですが、
 2年間の契約が切れ、それで日本に見切りを付け、
 一緒にアメリカに帰国することを条件にわたしのプロポーズを受け入れました。



 日本での暮らしは特別な出来事が起きなかった波風のたたない平凡な5年間でしたが、それでも、少しの貯金と稀に見るバプル真っ盛りの日本で暮らす、貴重な経験ができました。

 


 西船橋のアパートでずっと一人暮らしを続けていたわたしと違い、妻は大学時代に世田谷の日本人家庭で1年間のホームステイを経験してアメリカに帰国、大学を卒業して日本企業に就職して3年後、日本に戻りました。


 
 世田谷の住宅街にアパートを借り、同じく中国系アメリカ人女性と一緒に暮らしていた彼女にとって日本での生活は楽しかった学生時代とは違って、馴染もうと努力しても、どうしても馴染めなかった、違和感だらけの2年間だったようで、雇用契約の延長を結ばず、アメリカへの帰国を希望しました。



 晴れて夫婦となって、二人でアメリカに戻り、彼女の実家があるサンフランシスコの中華街近くに部屋を借りました。
 義理の父の紹介で不動産業に携わりました。

 


 ITバブルとでも言うのでしょうか、今の時代に付いていけない、頭の古いわたしにはどうにも馴染めないのですが、
 アップル、グーグル、ツイッター、
 今や世界に名だたる企業が名前を並べる、昨今のシリコンバレーの活況は当時は想像だにできない夢物語ですが、わたしもお裾分けに預かった日本の東京のバブルが、決して大きくはないサンフランシスコの街と範囲を広げたベイエリア全体に広がったようです。



 当時、わたしが務めたサンフランシスコの会社が取り扱っていたような学生か単身者向けの狭い部屋が今は何倍にも跳ね上がっています。


 壊れかけたような古い家も、誰が買うのかと首を傾げるのですが、信じられないほどの価格で取引されています。
 今では、サンフランシスコの不動産がニューヨークより高いといわれる有様で、少々お金を稼いでも、サンフランシスコでまともな住まいを探すのは難しいでしょう。



 時々、TVやネットに映し出されるゴールデン・ゲート・ブリッジや坂だらけの街並を眺めながら、懐かしさを感じると同時にサンフランシスコを離れ、わたしがニュージャージーに戻って来たのは正解だったのでしょう。

 


 小さいながらも我が家を手に入れ、贅沢しなければ、こうして悠々自適な暮らしができるのですから。



 帰国から3年後、妻とは離婚しました。
 日本で想い描いていた母国アメリカでの現実はどうにも上手くいかず、家庭も生活も行き詰まっていました。
 日本に戻ることも考えましたが、もう若くもありませんでした。

 


 日本で冒険することもできないと悟って、サンフランシスコを離れ、生まれ育ったニュージャージー州に戻りました。
 アトランティックシティという街をご存じでしょうか?」

 


 俺は小さく首を振った。   



「そうでしょう。
 昔はカジノやボクシングの興行で賑わっていましたが、
 今はさっぱりです。

 


 トランプ大統領が東海岸のラスベガスにすると精力的に動いていたのですが、今は死んだような街に成り下がっています。
 でも、わたしは彼を恨むつもりはありません。
 良い思いもさせてもらいました。
 彼のおかげと言っては何ですが、街のはずれに小さな家も手に入れました。

 


 以来、わたしはずっと、アトランティックシティで暮らしています。
 知り合いからもらった猫を飼ったこともあります。
 犬を飼ったこともありますが、元来、動物が苦手な質のようで、 妻と同じく犬や猫の方からわたしを避けてしまうようで、
 以来、わたしは一人暮らしを通しています」


 
 ここで、老人は席を立った。

 


 ハワイでのマイカップだというヨットが映ったマグを手に取り、
 キッチンで淹れたコーヒーを一口飲んで話を続けた。


「3年前にリタイアして、今の生活が始まりました。
 1年の大半を海外で過ごしてみたいのですが、
 セレブでもないわたしにできることといえば、
 メジャーリーグのスプリングキャンプのように太陽に恵まれたフロリダやアリゾナを巡り、サンフランシスコで暮らしながら行ったことがなかった、気候の良いカリフォルニアの南部を訪れています。

 


 サンフランシスコには日本同様に足が向きませんが、
 いつの日にか、日本に行ってみたい。



 この年になってようやく気づいたのですが、
 わたしは海が好きなようです。
 生まれ育ち、今も住んでいるアトランティックシティもそうですが、船橋もサンフランシスコも、ここハワイも海に面しています。
 海の風に当たり、海の風を聴くと、生きていることを実感するのです。



 それはそうと、アメリカに帰ってから知ったのですが、
 わたしが住んでいたアパート近くにオウム事件で有名になった麻原彰晃が住み、偽薬を売っていたというので驚きました」

 


「今に繋がる、日本社会を変えてしまったオウム真理教事件があったそうですね。
 僕が小学校に上がる前の事件で両親に聞いた程度の知識しかありませんが、今、麻原彰晃は逮捕され、彼の弟子を含めて刑務所で死刑が執行されるのを待っているはずです」

 


「そうですか!」

 


 そう言って彼はコーヒーを飲み干し、席を立った。



 5分後、老人は乾いた洗濯物が詰まったビニール袋を背中に担いで姿を現した。
 笑顔を浮かべ、「おやすみなさい」と日本で挨拶する彼に同じ言葉を返した。


 老人の残像が残っていた。
 使った食器を洗い、階段を上がり、部屋に戻ってきたことも忘れるほど、彼の印象が強かった。


 
 現在、俺の居場所である西船橋に住み、東西線で都心まで通い、日本で過ごした彼の5年間。
 英会話教師を生活の糧にした彼は妻となった中国系アメリカ人女性を伴って帰国した。

 


 サンフランシスコで3年間の新婚生活の後、離婚を経て、
 郷里のニュージャージーに戻ってからの彼の人生はどんな職業に就いていたのか、どんな生活をしていたのか、知る術もないが、猫や犬を飼ってはみたものの長くは続かず、一人暮らしを通している。

 


 察するに、どこか今の彼に通ずる、浮世から離れた悲哀を感じて、目を閉じた。

 

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