13
スーと話し合って明日、コザの街を発つことにした。
明後日、観光バスで本島南部を回り、それを終えて飛行機で本土に帰る。
飛行機と観光バスの予約を入れ、最初泊まった那覇の小さなホテルに2泊を押さえ、
もう、やることはすべて終えた。
のんびりしよう。
午後から、土産屋さんやショップを覗いて中央パークアベニューを歩く。
アキはこの通りが結構気に入っている。
何軒も梯子してようやく、テツに派手なハイビスカスのプリントTシャツを買った。
吉原先生のは那覇に持ち越そう。
スーが「照屋林助さんのところに行こう」と言うので、通りの裏手にその場所を見つけ出した、
ここはコザ独立国。
林助先生はりんけんバンド・照屋りんけんさんのお父さんである。
先生はお留守だったが、奥さんがスーのこと気に入ってくれたようでお茶をいただき、
「またおいで」と、言ってくれた。
林助先生の芸が観たかったな。
夕飯を済ますと、また二人して中央パークアベニューを歩く。
通りでティーンエージャーのフィリピーナの客引きを見た。
「むかし、沖縄の女の人がやった代わりを、今はフィリピーナがやる。
あいつらはアジアの女を区別できない。
まともな女は馬鹿で貧乏な米兵なんか相手にしないよ。
米兵が好きなのは本土の馬鹿女だけだって」
スーの科白が終わらないうちに数人の米兵とすれ違った。
フィリピーナは沖縄の人のふりをするの?
通りを戻ってくると、若いフィリピーナに声を掛けられた。
「本土の人?」
「そうよ」と、応えた。
とても訛りのきつい英語だった。
北から南へメインストリートを歩くと、
米兵がパブの周りをうろつき奇声をあげて、馬鹿話しをしていた。
「アメリカ人て本当に下品なんだ。
くにゃくにゃした米語を話し、何言ってるのかさっぱり解かりやしない。
どうせみんな田舎者なんだろう。
もっと、ましな英語を話しな。
それじゃ、夜のフィリピーナとかわんないよ。
日本語は話せない、まともな英語も話せない、それが米兵って奴さ。
今すぐ沖縄を立ち去り、国でしっかり英語を身につけるんだな、頓馬なヤンキーよ」
これは、スーの独り言です。
コザ最後の夜も、とびっきりの馬鹿どもを見てしまった。
朝食を軽く抓むと荷造りを終え、おばさんに挨拶をして宿を後にする。
旦那さんはあいにく席をはずしていた。
ずいぶん混み合ったバスの窓から沖縄の街を眺める、どうやら空港行きに乗り合わせたみたい。
「沖縄のオイシイ場所(広い土地、利便性のいい所、条件の良い住宅地)は、
みんなアメリカが抑えているんだよ。
地元の人は、隅に追いやられている。
こうやってバスに乗っていると本当によくわかる。
広い芝生の土地があって、それはフェンスで囲まれている。
その多くはCAMP・なんとかというフザケタ名前を付けやがって。
日本政府はね、思いやり予算とかいう、愛人手当てのようなものをアメリカに支払っている。
愛人手当、いや違う、ヤクザのミカジメ料だよ。
米軍はヤーさんよりタチが悪いから」
スーの口は絶好調のようだ。
アキは少し眠くなった。
バスのゆれが心地よく、気づくと那覇の街に着いていた。