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ベッドから起き、和夫は何も考えずシャワーを浴びる。
歩いて階下に降り、朝食を済ませた。
部屋に戻り、FAXとリストを眺め、最後のビデオ、
『ベティ・ブルー』をデッキにセットした。
観るのはこれで何度目だろう。
思い出せない。
漠然とビデオを眺めていた。
テープはすでに終わりかけている。
『ジュテーム』のフレーズが耳に残り、
二人がピアノを弾く場面と、
『Fin』の文字が目に入っただけである。
再度、リストとFAXを眺めた。
これから、どう動けばよいのか。
いくら考えても、妙案が浮かばない。
絵里は本当にこの街の出身で商業高校を出ているのだろうか。
今日を入れて福岡滞在はあと7日である。
和夫はとりあえず、部屋をでた。
ガイドブックで読んだフランス文化施設を訪れた。
やはり、休館だった。
木枯らしの吹く通りを彼はコートの襟を立て一人歩いた。
東京のようにも、札幌のようにも、仙台のようにも、感じられた。
ここは本当に九州最大の都市だろうか。
空腹をおぼえラーメン屋に飛び込む。
苦手な豚骨しかなく、鼻を抓みかげんで麺をかきこみ、その場を凌いだ。
歩き進むと、昨夜の洋風居酒屋が見えた。
店は開いているようだ。
中に入りコーヒーで口を慣らし、ここでチラシやタウン誌を眺めた。
席を立ちレジに向う。
昨日の店員が目に留まる。
彼に大名という地名にはどうやって行くのか尋ねてみた。
通りを歩く。
路地に入る。
ほどなく、大名は見つかった。
この狭い通りを彼はのんびり歩いた。
風はとどかない。
迷路のような通りを彼は歩いた。
銭湯を見つけ暖簾を潜り久しぶり大きな湯舟に浸かった。
匂わない。
匂いがない。
あの匂いがない。
甘酸っぱく、切ない、匂いがない。
彼の脳裏を掠める、生まれながらに染み付いたあの匂いがない。
ここにはない。
ここにはなかった。
ここは、温泉町ではない。
北関東の町でもない。
しかし、彼は何故か実家の温泉宿を想い起こしたのである。
兄夫婦は母と上手くやっているだろうか。
父を亡くして以来、母が仕切る旅館はかつての繁栄には程遠いであろう。
彼が幼い時分、この季節はいつも満員御礼だった。
食事さえ家族揃って食べたことがない。
雪と正月休みはいつもいつもいやな季節だった。
彼はそこを逃げ出したくてしょうがなかった。
物心ついた時分から。
湯舟を上がり、瓶牛乳を飲み、タオルを番台のおばあさんに返し暖簾を潜った。
幾分、髪が濡れている。
和夫は絵里が編んでくれた毛の帽子を被った。
彼はこの通りの楽器店で足を止めた。
あれ以来、楽器には触っていない。
小さな店には主人が一人いるだけだ。
彼は楽器には触らなかった。
ほんの数分楽器を眺めていた。
主人は彼の顔を覗いた。
彼と目が合う。
「何か、お探しで?」
「いいえ、この通りを歩いて懐かしかったのです。
もう、楽器は僕には終わったことですから」
彼はそう言って、黒い把手を押した。
しばらく歩き、今度はインディーズの店に入る。
見知らぬミュージシャンを大量に目にした。
音楽はもう、彼から離れたものになりつつあった。
2Fに上がった。
ここには和夫にも見覚えの名前が並んでいる。
それでも、彼の心は動かなかった。
今の彼の心には何もなかった。
あるものとすれば、絵里の幻想だけが彼の心に去来し、それがこの地まで和夫を連れてきたのである。
彼はピアノを弾きたいと思った。
『ベティ・ブルー』の主人公のように。
楽器屋に戻る。
しかし、ここにピアノは置いてなかった。
後戻り、若者文化の通りに東京の楽器店の支店を見つけた。
そこの2Fにエレピがあった。
『ベティー・ブルー』のメロディーを奏でる。
彼は一人で、そのメロディーを奏でる。
店員が彼の側に来た。
和夫は彼を無視してメロディーを奏で続ける。
店員はあきらめた。
彼はなおもそのメロディーを奏でる。
奏で続けている。
表にでた。
すっかり陽が暮れたことを知った。
ホテルに戻り体を憩めた。
一日、何をしただろうか。
彼はもう一度、『ベティー・ブルー』のビデオを眺める。
メロディーが脳裏を掠める。
絵里がめずらしく笑った表情と共に。
ビル風が彼を襲う。
襟を立て絵里の毛の帽子が彼の体温を守る。
彼は通りを歩いた。
あれはクラブだろう。
それもスノッブな。
ストリップの入り口のすぐ側にある階段を下り、その地下を訪れた。
『絵里!』
和夫は声をあげた。
顔を近づけ絵里を見つめた。
絵里ではなかった。
彼女は絵里ではなかった。
確かに似てはいるが、絵里ではない。
「すみません、人違いです」
彼女は怪訝に彼を睨み、男の元に近づく。
彼はカウンターでジンジャエールを買い、店の隅に一人立ち尽くし、音を拾った。
グラスをテーブルに置く。
誰かの消し損ねた煙草のけむりが目に染みた。
彼はキャメルに火を付けた。
この地ではじめて煙草を吸った。
煙草に火を付けることすら忘れていた。
疲れている。
キャメルに眩暈を感じた。
それでも、もう一本キャメルを吸った。
白人と日本人のカップルが入ってきた。
続いて黒人と日本人のカップルも。
当然のように女は日本人だ。
この地でも外人天国は続いている、東京とおなじように。
やはり、女はブスだ。
彼らの選球眼は我々とは違う。
きっと、本能的な嗅覚が違うのだろう。
どこかの外人が日本女性は世界一と言ったとか?
彼は警察犬にはなれないだろう。
和夫はこの小屋を後にした。
ベネックスのビデオ返却後、他に観たいビデオはない。
コンビ二に寄り、おにぎりセットとウーロン茶とエヴィアンを買ってホテルに戻った。
彼は寝付けなかった。
ビデオでも借りればよかったと思い直した。
TVの深夜放送はゴミ溜だ。
おにぎりを齧り茶を飲む。
煙草に火を付ける。
今日、三本目のキャメルに。
ホテルの狭い窓から街並みを眺めた。
おもむろに、彼はパソコンを起動させた。
この部屋はビジネスだけあって、必要最低限のスペースしか確保されていないが、
ブロードバンドは装備されている。
彼はそれをチェックしこのホテルを予約した、インターネットで。
今田さんのFAXと学生のリストを脇に置き、
周辺の商業高校と商業科のある高校をネットで検索し始めた。
彼の欲する情報はネット上には一つもなかった。
絵里の名前で検索する。
もちろん、どの検索エンジンにも情報は一つもない。
絵里を検索するのは何度目だろう。
べネックスの掲示板を覗いた。
そこにも、彼女らしきハンドルネームはなかった。
彼はいつしか眠っていた。
「民主主義、万歳笑わせるな」
男が一人、リヤカーの上で呟いた。
男は和夫と目が合った。
和夫はバイトの道具をワゴンに積もうとしている。
やっと仕事を終え事務所に戻れる。
慣れない腰の仕事道具もようやく慣れた。
イグニッション・キーを回し初冬の通りをライトが照らす。
男は自動販売機の前でよろめき、倒れ込んだ。
和夫は運転席を離れ、男の手を取る。
「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」
男は和夫の顔を見るなり、
「民主主義は、死んだよ。民主主義はな、死んだんだよ」
男はそのまま、気を失った。
和夫はどうしようかと思案にくれた。
目の前に今しがた仕事を終えた現場があるのに気づき、そこの監督に男を預けた。
「森さん、森さん、しっかりしなよ」
男の体から酒の臭いが部屋中に漏れた。
「この人はね、昔、バリバリの赤だった。
君も知っている大企業で組合活動の末、レッドパージで追放されて、バタ屋になった。
君はもういい、疲れたでしょう、帰りなさい。
この人のことは私がなんとかする」
和夫は車に戻り、煙草に火を付け一息ついた。
再びイグニッション・キーを回しテープをセットした。
絵里が残したエルビスのバラード集だ。
初冬の東京は5時を過ぎると闇の世界だ。
路地から大通りに出る。
4車線の左から2列目を都心方面に走った。
金曜の夕方の帝都は、走っては止まり、走っては止まり、の繰り返しだった。
予定より大幅に遅れ、和夫は駐車場に着いた。
シルバーのワゴンをバックで所定の位置に駐め、ドア・ロックを確認し事務所に急ぐ。
「遅かったじゃないか、待ちくたびれたぞ」
「すみません、仕事を終え戻ろうと車に乗り込んだ時、倒れた男の人を見たんです。
男は篠崎さんに預けてきました。
それに帰り道が大混みだったので」
「これ、先週分の給料、また月曜よろしくな」
和夫は作業服を私服に着替え事務所を後にした。
和夫はベースを持ってスタジオに急いだ。
地下鉄を乗り換え渋谷で降り道玄坂を歩く。
坂の中腹を右に曲がりラブホテル街の側のパブの地下に向った。
先週、掲示板を通し知り合った3人の男が待っていた。
正直に言って冴えない奴らだ。
ボーカルは和夫が大学5年生であることに驚きを隠さなかった。
「俺の周りは大学に言った奴なんて一人もいねえよ。
大学5年にもなってベースを弾きたいなんて・・・・・」
和夫は黙っていた。
和夫はミュージシャン志望である。
自分は天才だと確信していた。
曲を書いて歌いたかった。
しかし、仲間が見つからない。
和夫は一人だ。
一人で十二分だと。
しかし、和夫は仲間を得た。
先週ようやく冴えない奴らと。
今日が2回目のスタジオ入りだ。
「ロックンロール・ミュージックをやろう」
ボーカルの一言で音が弾ける。
3人はグルだ。
和夫は3人に合わせルートでベースを弾く。
ベースを弾くのは2度目だ。
弾きながらハモリを入れた。
一曲終わると、ギターが和夫に、
「ボーカルがやりたいんじゃないの?」
和夫は黙っていた。
2曲目は「のっぽのサリー」
まるで中学生の文化祭の演目だ。
和夫は黙ってベースを弾き続ける。
2時間で十数曲をやり、スタジオを出て、4人でテーブルを囲んだ。
「今度、新宿でライブをやろう」
和夫は白けていた。
このメンツでライブをやっていったいどうする気だ。
煙草を吸い、キャメルを灰皿に潰し溜息をついた。
ライブハウスにコネがあるという声が、和夫の耳に微かに入った。
「もう、2,3回ここで練習して、暮れにステージ立とう」
この時、和夫は思った。
「ここに来るのは終わりだと」
音楽は、もういい、お仕舞いにしよう。
和夫はどうにか5年で卒業を果たし、小さな出版社に潜り込んだ。
あの日以来、音楽さえ聴かない日々が続いていた。
「もう、音楽なんて終わってことだ」
仕事帰りのワンルームで独り呟く。
6年間住み続けるこの部屋は、無機質で生活感が欠如していた。
楽器も、オーディオも、音楽ソフトも、テレビさえも、
あの日を境に売り払ってしまった。
が、仕事には毎日通っていた。
4月の入社以来一度の休み、遅刻はない。
それだけが社内での和夫の評価だった。
今年の暮れをどうやって過ごそうか考え始めていた。
まるで、当てはなかった。
少ないながらも、ボーナスを手にした。
今さら、田舎に帰って親の顔を見るのも気が重い。
和夫はこの休みに絵里の故郷・行の飛行機の予約を今、JTBで入れた。
12月28日に福岡へ向い、1月5日に東京に戻ってくる。
市内のビジネスホテルに予約を押さえた。
広島から西への旅は初めてのことだ。
絵里の手掛かりはない、何もない、知らしらない、実家の住所も、電話番号も。
彼女を知る福岡の友人を和夫は誰一人知らなかった。
絵里が福岡出身という確証は一つもなかった。
彼女は公立の商業高校卒業後、
東京に出てきた、そう和夫に言ったに過ぎなかったのかもしれない。
絵里は身分証明書を持たなかった、住民票すら持っていなかった。
地方出身者のわりに訛りもなければ、
ファッションから身のこなしまでどこか垢抜けていた。