ブログNO.139  (NO.138「その1」に続く) 継体天皇・袁氏、鉄の加工で権力握る そ | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.139  (NO.138「その1」に続く)

継体天皇・袁氏、鉄の加工で権力握る その2

日中双方で「袁氏作の鏡」出土

 

(5)「継体」は「鉄王」だった

『古事記』によれば、継体天皇の名は「袁本杼」であるという。「袁(えん)」という字は『記』では「~を」という接続詞としても使われている。これを利用して、国史学者らは『日本書紀』にいう「男大迹(おおど)天皇」(継体)と同じ人であるなどとまたまた市民の目をごまかしている。

だが、「本」は「ほ」と読んでもあるいはいいかもしれないが、「杼」は「ショ」あるいは「ジョ」としか読めない漢字であり、決して「ド」とは読めない。

「継体天皇」の姓は正しくは「袁」で、大陸から逃亡、渡来した「袁」氏の一派である可能性が考えられる。

注目すべき謎解きのカギは中国・呉の鏡作り工人のなかに「袁」氏がいたことかもしれない。当時のハイテク技術者だ。浙江省出土鏡の中にその名が刻されているのを発見した(注1)。

実は日本列島の中でも、「袁氏作鏡」と刻す鏡が二枚も発見されているのだ。一枚は奈良県北葛城郡広陵町の黒石山古墳群から。もう一枚は群馬県藤岡市三本木の古墳からである。いずれも三角縁で「神人龍虎画像鏡」と名づけられている。鋳造技術者である袁氏の何人かが、新しい生活を求めて日本にやってきた可能性は高い。

多くの三角縁神獣鏡製作者らが日本列島に渡ってきて鏡を造ったことは、その銘文「用青銅、至東海」(青銅の不思議な力を使って日本列島に来た)とか「陳是作鏡 自ら経を述べる有り 元は荊の師 杜地(とち)を命出(陳氏がこの鏡を作った。自ら経歴を述べよう。元来、越(紹興)の鋳物技術師だったが、運命のままに行き詰まり状態となった地を出た)」などからも明らかだ(注2)。

「東海」は中国から見た日本列島の事で、「荊」というのは中国南部、「越地域」のことだ。越の鏡作りの一大産地は揚子江右岸の、今は酒で有名になった紹興である。行ってみると縁(ふち)が断面三角形をした数多くの様々な種類の三角縁鏡が作られていた。

「袁」さんは三世紀中ごろ?鏡に自らの名を刻んだ「陳さん」や「吾さん」「張さん」「新さん」らとともに越から渡来し、行動を共にしていたことも考えられる。今、発見されている袁氏作の鏡は二枚だけだが、もちろん何十枚か作ったうちの一部だろう。あちこちに売りさばいて生活費を稼いでいたことが偲ばれる。

日本で出土する「三角縁神獣鏡」は卑弥呼が魏の国からもらった鏡だ、などという大ウソの説もある。「女王に100枚贈った」と魏志倭(ヰ)人伝に記録されているのに、なぜか700余枚も出土している。様々な否定データをひた隠しにし、頬かむりしなければ成立しない説だ。

『続日本紀』に、薩摩半島の頴娃(エイ)町周辺(南九州市)に七世紀末、「衣(エ=恵、頴)の君」がいて「大和政権」の設立に徹底抗戦した様子が記録されている。「エの君」は、薩南の豊富な砂鉄資源や池田
139-1 湖畔の金銀鉱などを利用して製鉄し、武器や農具を作り、勢力を広げていたとみられる。

彼らは大分県日田市周辺にも進出してさらに勢力を広げ、現在「国宝」に指定されているすごい「金銀錯嵌珠の龍文鏡」(写真=直径21.1センチ)を作ったのではないかと考えられる。

この種の鏡は中国の漢から魏(BC3~AD4世紀)にかけてよく作られた鏡であり、最近魏の武帝(曹操)の墳墓にも献じられていたことがわかった。中国から携えてきたものかもしれない。が、筆者は鉄資源の開発と利用で大王にまで上りつめた袁氏らが、その技術力を誇示するために総力を挙げて作ったのではないかと考えたい。

日田市内には「()()」とか「()()」「恵・葉」など「エ」を冠した小字も現存する。「エ」は「袁氏のエ」ではないか。「ソ」は熊曾於族の「ソ」を表したものであろうと考えられる。

市内のあちこちに熊曾於族らの墓である「横穴墓」がなんと八百基も築かれ、残っているからだ。先ほどの「国宝・螺鈿(らでん)象嵌の鉄鏡」も横穴墓群の中にあった初期円墳「ダンワラ古墳」から発見されたものであるという。西側の朝倉市には「恵蘇(え・そ)八幡神社」もある。縁起の中に「白鳳」という九州年号を持つ古社だ。

そして、『書紀』は「本当の継体天皇」の出身地ではないかと思われる日田市の隣接地「旧福岡県朝倉郡福井村」(現東峰村)を「越前の福井」と偽って「大和の継体」の話をでっちあげたのではないか。「福井」とは「吹く息」の意味で、鉱物の精錬をするタタラ製鉄の風を意味することが多い。

びっくりだが話しが繋がってきそうだ。鋳造技術者であった袁氏の一人が南九州頴娃町近辺に渡来し、勢力を広げて大分などに進出、さらに仲間をつないで九州全域に勢力を広げて、国宝の鉄鏡を作り、ついには「継体王朝」を生んだ、と。

中國での「袁氏」は、近代では北閥として名高く、中華民国初代大統領にもなった「袁世凱」とか、今、中国政府によってスパイの嫌疑をかけられて拘束されてしまった北海道大学の袁教授、NHKの番組「始皇帝」のなかで「兵馬俑」の調査員として登場していた「袁さん」、日本プロ卓球Tリーグ・木下アビエル所属の選手として活躍している「袁雪嬌(しゅえしゃお)」さんらの遠い遠いご先祖だ。

この間テレビを見ていたら、米のトランプが「コロナウィルスをまき散らした元凶」だと非難している武漢の病毒研究所の所長が「袁さん」だった。必死で抗弁していた。事実はどうなんでしょうね。歴史的には『三国志』『晋書』『呉越春秋』などにも登場する古い家系の人々だ。

袁一族の何人かが海を渡ってきて、何十世代を経て日本人になったのではなかろうか。まだ「袁」氏が「エ」と名乗ったとか、あるいはそう呼ばれた、という確実な証拠はない。筆者の想像の域を出ないことではある。

しかし、一度頴娃(えい)町に行ってみられればいい。真っ黒な海岸にうず高く堆積している砂鉄や池田湖畔にあった金や銀の鉱山のことを知れば、想像も膨らもうというものだ。阿多カルデラの一部である開聞岳や、姶良カルデラのへそ・桜島など火山が吹き上げた賜物だ。

火山列島である日本列島なのに「鉄や銅など鉱物資源はほとんどなかった。鉄素材はすべて朝鮮半島からもたらされた」などという無知でバカ丸出しの〝考古学者〟はほっておけばいい。列島にはそれぞれ小規模ではあるが、鉱物資源は腐るほどある。九州は特に火山が多いので豊富だ。

『記紀』にいう「継体天皇・袁本杼(えんほんじょ)や前代の「顕宗天皇・袁祀」、その兄で後を継いだという「仁賢天皇・意祁(おけ)」も熊曾於族・袁氏の流れをくむ勢力の一人であった可能性がきわめて高い。

 (注1)「浙江省出土銅鏡」修訂本 (王士論編 文物出版社 2006年)51頁「歴代鏡銘選録」NO.97。銘文は「袁氏作鏡真□ 上有東王父西王母 仙僑侍 左右癖邪 喜怒毌央咎 長保二親生久」

(注2)大阪府・国分神社蔵、兵庫県・森尾古墳出土など

 

(6)付近に鉄、銅、錫鉱山

朝倉市一帯を案内していただいた井上氏は、現地踏査を繰り返すうち、さらに重要な「発見」をしている。付近一帯に数多くの銅や鉄の鉱山、スズ鉱山があったことだ。明治以降は操業を停止しているため今はその存在を知らない人ばかりだ。が、江戸時代まではそれぞれ操業していたらしい。鉱石を選別、洗浄し、廃液を貯める「調整池」の跡も残っている。

鉄と銅鉱山は朝倉町字(あざ)山後から城、鬼が城、矢野竹、上秋月まで点々と存在していたらしい。福岡市で地震があると、その二,三日後には必ず朝倉でも地震があることを不思議に思っていた井上氏は、福岡市中心部にある警固(けご)断層が朝倉と連なっているのではないかと考えた。断層にはほとんど鉱物資源が露出しているケースがある。そこで古老らに話を聞いて回り、鉱山群の存在を確認したのだ。

もちろん、これらの鉱山群が五、六世紀に採掘されていたかどうかは今のところ不明である。ただ、北側の上秋月八幡神社・宮崎安雄宮司は神社の伝承として「景行天皇が弓削(ゆげ)の連(むらじ)という男を呼び、白銀(スズ)を採取させた」という話を「朝倉郷土史研究会」の会誌に書いている。「弓削連」は石古呂別(いしころわけ)の命、饒速日(にぎはやひ)の命を祖とする人という。この話と関連があると思われる小字(こあざ)「弓削」も近くにある。当地の筑後川畔に「白銀(しろがね)山」もある。錫が採取できる山だ。

「景行天皇」は四世紀前半ごろの大王と考えられ、管見では佐賀県鳥栖市周辺に都を置いていた大王だ注1)。

「景行天皇云々」は、物事を有名人に引っかけて話して伝える一種の伝説のやり方かもしれない。だが、すでにここでも四世紀以前から鉱山の利用が始まっていたことを実証する話だろうと思われる。錫は鏡を作るのに必要不可欠の鉱物だ。

熊曾於族は、中国の山東省や江蘇省、或は奥地の甘粛省辺りからも相次いで渡来(逃亡)してきた人々である。彼の地では千年以上前から(日本の縄文末期~弥生時代)鉱物の製錬、鍛冶技術は確立されており、この技術をしっかり身に着けていたことは間違いない。「旧体制をひっくり返して新しい体制を引き継いだ継体」天皇の力の源泉が鉄や銅、水銀朱など鉱物資源の採掘や馬の活用であったことは想像に難くない。

頴娃町に隣接する開聞岳の北麓や志布志湾の北側・都井の岬に行ってみられるがいい。熊曾於族が使った馬の子孫たちが跳ね回っている。トカラ馬の子孫たちだ。地下式横穴墓や横穴墓は鉄製の武器と馬具だらけだ。「熊曾於族=蛮族」という卑屈な説に洗脳された九州の考古学研究者らは、これらの墓や武具の年代を理化学的にきちんと調べもせず、思い込み先行のいかがわしい「土器による年代判定」を用いて「うんと新しいものです。鉄製のすばらしい武器や刀は大和政権からいただいた品々でしょう」などととんでもない大ウソを市民に伝えている。

継体の後の天皇三代「安閑」「宣化」「欽明」はいずれも継体の子供たちだ。この天皇らも九州東北部の豊前に都を構えていたと考えられる。「安閑の都・勾金の箸の宮」は継体の都から北へ峠一つを越えた田川郡香春(かわら)町勾金(まがりかね)周辺にあったことは確実だ。緊急用の屯倉(みやけ)をこの周辺に集中させ、隣の赤村で水銀朱の採掘をして力の源泉にしていたらしい。そして国々に「犬養部(いぬかいべ」を設けるよう命令したという(『書紀』安閑紀)。氏族が信じる「犬祖伝説」を具体化し、野良犬などを丁寧に養う施設だろう。

(注1) 「景行天皇」が九州巡行から帰って「遊んだ」のは佐賀県鳥栖市西酒殿町の「酒殿の泉」で、景行の都「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮」は、樹木の象徴ともいえる巨木(真木(まき)→纒)に面した場所、すなわち『記紀』や『肥前風土記』に記される筑後川下流域にあった巨木。それに向かった場所にあったと考えられる(『古事記』雄略記)。そして「日代」すなわち「太陽がさんさんと輝くところにあった宮」だという。『書紀』は九州遠征から帰還した景行を(都に詰めていた)百官(もものつかさ)が倒れた巨木をまたいで出迎えた、と記述している。巨木の近くに都があったことがわかる。鳥栖には今も「真木町」や小字「都」があり、市の北部丘陵からは銅鐸の製造所が出土。「神殿風の建物跡」や豪華な刀の飾りサヤなども出土している。近くの熊本県山鹿市の有名な祭り「山鹿灯篭祭り」では「景行天皇」の「始めよ」の一声で祭りが始まる。九州西北部の英雄として語り継がれている。奈良・桜井市の「纏向」は、九州西北部の人たちが移動して故郷の地名をつけたと考えられる。多くの地名が共通し、付近からは九州・熊本製の石棺も数多く出土する。「奈良の纏向」にはもちろん巨木伝説はない。

 

(7)杷木神籠石は継体天皇が造った?

この付近で見逃せない遺跡は「杷木神籠石(はきこうごいし)城」である。「長田大塚古墳」「志波(しわ)官庁街遺構」の東側にある。「神籠石城」はいわゆる「朝鮮式山城」とともに九州倭(ヰ←いぃ?)政権の首都のひとつ・太宰府を中心に三十基近くが築かれている。大和には一基だけで、全くないといってもよい。反逆を恐れた九州政権が築かせなかったと考えられる。

山の中腹に石塁や土塁をぐるりとめぐらし、山中に倉庫や建物を造っている。誰が、いつ造ったかは未だになぞとされている。「杷木神籠石城」もその一つである。このなぞの山城について『杷木町史』に掲載された「杷木神社」の社伝は実に興味深い。こう記述されている。

杷岐神社社記によれば、「第二十六代、継体天皇の御宇、筑紫の磐井らが謀反を企て、異国の御貢物を奪い取る。朝廷詔旨を下し(物部)麁鹿火(あらかい)の大連(おおむらじ)を大将とし官軍筑紫に進発し、筑後国にて大連磐井と相戦う。三井(みい)郡にて官軍大いに利を得て、遂に磐井を討伐し、麁鹿火即ち凱旋せり。

然るに磐井が残党青人ら土蜘蛛の余類と力をあわせ、心を均しぅし豊前筑前の間に蜂起す・・(中略)・・然るに(継体側の)大将鷲丸謂らく、上座郡には大己貴命、武甕槌命御座しますと聞く。彼の御神の冥助を頼み奉らんは如何にと云う。

ここに池田の池と云う奇異なる池あり。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端出縄を曳き、大幣(ぬさ)を捧げて勝利を祈る。・・(中略)・・是によりて青人、土蜘蛛ら此処かしこに滅亡し両国立所に平定す。天皇大いに叡感(えいかん)・・(中略)・・杷木大明神に宇津志馬(うつしうま)二匹、弓箭幣帛を捧げられ、即ち物部宿祢高古を祭主とし朝敵退治の蟇目(ひきめ)の射法を勤めしむ。恒例の祭祀は、この時から始まれり。大永二年(一五二二年) 神坂源太夫藤原貞家 之を誌す

という。

社伝は『日本書紀』の影響を受けてかなり捻じ曲げられ、「大和政権の継体天皇」風になっているが、文の主役は「九州政権の継体天皇」である。文中の「高棚」はおそらく「高柵」の誤記であろう。八世紀以降に大和政権が東北に設けたいくつかの城もそれぞれ「越国の淳足(ぬたり)の柵」とか「磐舟(いわふね)の柵」と呼ばれた。佐賀県武雄市の「おつぼ山神籠石城」の発掘調査でも、土塁の前面にずらりと防御用の木柵をめぐらせていたことがわかっている。

社伝の意味するところは「対磐井戦争のとき三島の継体大王が(神籠石)城柵を築き戦勝を祈願した」となるのだろうか。時は六世紀始めということになる。「継体天皇」が「筑紫(元は豊前)の三島」にいた傍証と考えてよさそうだ。

 

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