ブログNO.138 「継体天皇」は鏡作り工人袁氏の子孫?  その1 都の遺構はすでに出土 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.138

 

「継体天皇」は鏡作り工人袁氏の子孫?  その1

都の遺構はすでに出土

 

はじめに

鹿児島県の大隅半島で歴史の研究を続けている人々が作っている「大隅史談会」がある。その会員になり、会誌『大隅』に一文を寄稿した。「大隅史談会」には古代史だけでなく、地域の歴史全般にわたって興味をもつ優秀な人々が大勢おり、『大隅』の質も極めて高い。

ただ残念ながら会員の皆さんはまだ、『日本書紀』による歴史の改ざんについて、その知識に触れていない部分もあり、小生はその穴埋め役でもしようと考えている。

今年4月発行の同紙第64号には、当ブログNO.13などで読者にお伝えした「『継体天皇・袁本杼』は福岡県朝倉市一帯に都していた天皇である」旨の一文を寄稿した。

寄稿したなかではまず、会員があまり触れたことがないと思われる「九州年号実在の話」をし、久保常晴らが主張していた「九州年号は鎌倉時代に僧侶の誰かがでっち上げた年号だ」という「ずさん極まる研究」を取り上げ、「鎌倉時代にでっち上げた年号がなぜ797年に完成した『続日本紀』に掲載されているのか」などと事実を伝えた。

そしてなぜ「継体天皇は朝倉市に都していた」と言えるのかを、当ブログNO.13などの内容を引いて伝えた。また、これまでの研究で新たに「袁氏」は中国・越から渡来した鏡作り工人の子孫であり、その証拠も発見できたので、これもお伝えた

中国と日本の両方に「袁氏が造った」と刻する鏡が出土していることが判明したからだ。さらに袁氏は、当初鹿児島県薩摩半島南端の南九州市頴娃町近辺に拠点を構え、そこから中九州、朝倉市に隣接する日田市周辺に勢力を広げたのではないか、と考察した。国宝に指定されている日田市出土のすごい「鉄鏡」(正式名称は「金銀錯嵌珠(さくがんしゅ)龍文鉄鏡」)の製作や保持にも関係しているらしい、と。当ブログでもすでにお伝えしたこともあるが、少し長いので「九州年号」の部分などはカットし、二回に分けてその内容をお伝えする。  

 

(1)「継体の都」も出土している

大分自動車道の建設に伴って付近の発掘調査が行われた。その結果、それ以前の発掘調査ともあわせて、朝倉市付近一帯に大規模な「官庁街」の遺構が眠っていることが分かっている。「杷木(はき)宮原遺跡」や「志波(しは←伊波礼?)岡本遺跡」、「志波桑ノ木遺跡」「大迫遺跡」などである。三キロ四方ほどの地域に建設されていて、方位をそろえた掘っ立て柱の建物群である。二間×九間もある長大なものや柵列などがある。

現在この「官庁街の遺構」について、発掘を担当した九州歴史資料館などは、七世紀後半の遺構であり、斉明天皇が「白村江の戦い」のために造った「朝倉の宮」、すなわち「橘(たちばな)の広庭宮」遺構であるという見解をとっている。虚構の史書「『日本書紀』の記述に従って立論しているのである。

だが、九州の土器は同じ形の近畿の土器より百五十年、古いものでは三百年ほども古い、という結果がこれまで何回か行われた放射性炭素(14C)年代測定でわかっている。ということはこの「官庁街の遺構」は想定より約百五十年古い「継体天皇の都」の可能性が高い、と考えられるのだ。

「朝倉の宮」は「斉明天皇が滞在する」ために急ごしらえした宮で、「殿舎は壊された」と、あの『書紀』さえも言っている。大規模な遺構が造れるわけがないし、その必要もなかろう。唐と新羅の連合軍と戦ったのは「大和政権」ではないし、もちろん、『書紀』に言う「斉明天皇=宝皇女」は天皇ではない。

彼女は朝倉の宮で死に、中大兄はそれを理由にしてすぐに大和へ帰ったと記す。この記述もウソだと考えられる。いろいろごまかしているが、国の存亡をかけた戦いで「朝倉の旧都」に設けられた「中央司令部」を抜け出した、これは事実かもしれない。斉明や中大兄が戦いの担当者でなかった証拠でもある。『日本書紀』は歴史事実を知るための「暗号」を各所に設けているが、これはその一つでかもしれない。

彼女が「朝倉で死んだ」、というのも嘘だろう。「母親が死んだ」ことにして、司令部を抜けるための言い訳に使ったと考えられる。中大兄が「大和勢力のトップ」に就任したのは宝王女が「死んで」から何年もたってからだ。生きていたから中大兄はトップになれなかったのだろう。中大兄は十数年後、「九州倭政権を裏切った男」として京都山科で殺害されたらしい(『扶桑略記』の証言。当ブログNO.95など参照)。

当地の恵蘇八幡宮境内には彼女の墓、とか「殯(もがり)の跡」と伝えられる土饅頭がある。神社側は土饅頭が墓であるのか、または「ただの土盛り」であるのかを知るために科学的調査を実施している。その結果、土饅頭の中や周辺に水銀朱の存在が確認され、古墳であることは確実だ。だが、その築造時期については未だに不明である。

 

(2)官庁街遺構は五九〇年以前のもの

発見されている官庁街遺構に関する放射性炭素(14C)による測定値のうち「大迫遺跡」を見てみよう(『考古学と実年代』埋蔵文化財研究会編から)。「大迫遺跡」は「継体天皇の都」の中、というか、「長田大塚」の東側、大分自動車道の予定路線内にあった遺跡である。山の斜面を階段状に造成し、方位をそろえた九棟の掘っ立て柱建物の遺構があった。「九州歴史資料館」が官庁街遺構の真上にあった火葬墓群を年代測定していた。

福岡県朝倉市、大迫遺跡九歴史資料館の年代推定=八世紀中ごろから九世紀前半

 ・16号火葬墓炭化材→14C測定値六二〇年+- ・23号火葬墓炭化材→六九〇年+- ・21号火葬墓炭化材 五九〇年+- ・37号火葬墓炭化材→六一〇年+- ・84号火葬墓炭化材→五五〇年+- ・五号住居跡炭化材→四一〇年+-  【研究者推定より百五十年前後古い】

ちゃんと世界に通用する年代測定法14Cで測定していたというのは立派だ。その姿勢はすばらしい。しかし報告書では「14Cの年代測定値と我々の想定(土器の年代)は合っている」などと書いている。が、見ての通りちっとも合っていない。火葬墓群は五五〇年ごろから営まれ始めているのだ。

年代判定の《誤差の範囲》とされた+-七十五~八十年の新しい数値だけを念頭に置き、拾い出して強引に「合致している」と言っているに過ぎない。報告書を見た市民はだまされるとでも思ったのだろうか。苦渋の様子がしのばれる。

測定年代は中央値に近づくほど可能性が高くなり、誤差範囲の端にいくほど可能性はほとんどなくなる。範囲の端っこだとその可能性はほとんどないのだ。一九八〇年代の測定であるからまだ誤差の可能性がある範囲幅は大きいが、一番の目安はもちろん中央値だ。
138-1 「橘広庭宮」を含む朝倉市の東側一帯に広がる「官庁街遺構」は、この火葬墓群の下層に広がっている。だから、明らかに「六六三年ごろの斉明天皇の朝倉の宮」遺構ではなく、最も古い測定値である五五〇年、あるいは五九〇年より古い遺跡群である、と判断せざるをえないだろう。

「五号住居跡」は官庁街遺構を造るために壊された住居跡である。であるからこの「都の遺構」は、四一〇年から五五〇年の間に造られ、使われたことがわかる。継体が亡くなったのは五二七年だという。ここが『古事記』にいう継体の「伊波礼(いはれ)の玉穂の宮」であろう。「伊波」は当地の小字「志波(Siha)」から子音の「s」が抜けた型ではなかろうか。(写真=大迫遺跡。北側から。奥に筑後川。九州歴史資料館撮影)

『日本書紀』は「我が国で火葬が始まったのは八世紀始め、七〇〇年の僧道昭が初めてだ」などと書き、広辞苑などもそう書いている。が、これも大ウソだ。正しい言い方は「奈良・大和で火葬が行われたのは僧道昭が初めてだ」である。九州倭(いぃ)政権の仏教の受容は大和政権よりはるかに早く、少なくとも五世紀後半ごろからは民間レベルでの火葬の風習が始まっていたとみられる。

 

(3)「継体天皇」は熊曾於族・袁氏

ここで注意しなければならないのは『新撰姓氏録』の記載である。前に記したように

『(新撰)姓氏録』に「三嶋宿祢」は、「神魂の命十六世孫、建日別(たけひわけ)の命の後と記されている。「豈(あに)その裔(えい=子孫)の居する所ならんか」という。

『古事記』国土生成の項には、「九州には四つの面があり、熊襲(の支配者)は建日別(と称している)」とある。「筑紫の三島」にいた「三島の宿祢」とそのともがらは「熊曾於族」だというのだ。

確かに朝倉町内の彩色古墳や隣接の筑前町・仙道古墳(国指定史跡)
138-2 には石室の内部に鮮やかな朱色で「太陽」や三角文、矢入れ(ゆき=
)などが描かれている。熊曾於族が崇拝する太陽の神「大日孁貴(おおひるめむち)」や氏族が最も大事な武器としているものを記している。また当地の杷木神社の鳥居に掲げられた神額は渦巻文を主体にした特異なデザインだ写真)。これらの文様は熊曾於族や紀氏の渡来元であった中国大陸にその淵源があることは民俗例でも明らかである。矢入れは弓矢をもっとも重要な狩りや戦闘の道具と位置付けた熊曾於族のシンボル的装飾だ。多くの装飾古墳に描かれている。

さらに朝倉市の北端、十石峠付近には熊曾於族が中国大陸の少数民族と共通して持つ「犬祖伝説」も伝えられている。「民族の祖先は犬と結婚した女性である」という話である。『新撰姓氏録』の記載通り、熊曾於族のにおいが濃い。

 

(4)熊曾於族とは

 「熊襲」族は当初、南九州一帯に勢力を張っていた大族の総称である。日本史の上で彼らは従来「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。『日本書紀』などが「熊襲」とか「隼人(いきなり襲ってくるハヤブサのような悪いヤツ)」とか「貴人が出かけるとき犬の吠え声をさせて悪魔祓いさせた」などと書き、そう思わせるように記述しているからだ。大隅人は、仲間を殺され、脅されてこんな役目を背負わされた先人の屈辱と無念さを知って、ちゃんとお線香の一つでもあげるべきではないですか。

しかし実は「蛮族」などではない。彼らは「紀氏」と同様、漢民族に迫害され、大陸から逃げてきたボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新で強力なテクノロジーを身に着けて渡来してきた。

そして九州全域から東北にまで進出し、勢力基盤を築いていたのである。彼らの墳墓である地下式横穴墓や横穴墓からの出土遺物をみれば、すぐに納得できるだろう。渡来の時期は当初、縄文時代中、後期ごろで、その後、中国の戦国時代(前5~3世紀)を中心に弥生時代に続々渡来してきたと思われる。

なぜ彼らが中国大陸から来た人々であるとわかるのかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」にも解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「槃瓠(ばんこ)」であったという。県下にのこる伝承や進出先の一つである房総の「南総里見八犬伝」をみれば理解できるだろう。「八犬伝」の出だしは中国に伝わる伝説と全く同じといってよい。

焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくため
138-3 にどうしても犬が必要であり、家族同様の愛らしい伴侶であったからこのような伝説が生まれたという。(注
1

「犬祖伝説」は元来、中国大陸全域に勢力を張っていた現在の少数民族や熊曾於族、さらにモンゴルなど多くのチベット族が同様の伝説をもっていた。後に犬が狼や狐に化けてしまった地域もある。

『史記』によると周の国(BC一二〇〇~BC七七一年)は東の「犬戎(けんじゅう)」や「西戎」との戦いに敗れて分裂し、東周として再出発したという。春秋時代の始まりである。この強力な武力を誇った「犬戎」や「西戎」こそ共通の「犬祖伝説」をもつ中国の少数民族や熊曾於族の先祖のひとつとみられる。

彼らの墓は立て坑に横穴をくっつけた長靴のような独特のものだ。熊曾於族と同様の地下式横穴墓が中国の山東省南部や江蘇省北部、あるいは西戎が蟠踞(ばんきょ)していた陝西省や甘粛省などから数多く出土している。これもその証拠の一つだ。(図はその一例。山東省滕州(たんじょう)市出土のもの。「文物」より)。下は鹿児島県曽於郡有明町出土

熊曾於族は自らのことを「光輝くSOU族」と自称していたらしい。
138-4 「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」「光り輝く」という意味があり、中国では少数民族や南部の人々を「SOU」と呼んでいるからである。楚の国(~BC二二三年)の帝王の名にはほとんど「熊」がついている(『史記』)。

彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(写真。直径三十三・二センチ)が出土している。

古代中国の帝王の権威の象徴だ。そして「大和政権」は七世紀末から八世紀初めごろまでに、何回も分裂した熊曾於族を徹底的に殺戮(さつ
138-5 りく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民に落とした様子がうかがわれる。そして「不具載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼び、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述したのである。

熊曾於族を構成していた主な氏族には、曾部(園部)、園(曾於の)、阿蘇・麻生(=アは感嘆詞)、日下部(草部)、内(宇治,、有智、宇智)、鴨(加茂,賀茂)、大田(太田)、葛木(葛城、桂木)、曽我(蘇我)、さらに袁、牛(にゅう)、三嶋氏らがいたと思われる。今は園とか内など一字姓の上下には上、下、中、田とか村、海、川などがくっついて二字姓になっているケースも多い。(注1)拙著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルヴァ書房)参照                   (2021年6月)