うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」


~ご挨拶~


「古代史はおもろいで」といっても「どこがおもろいんやね」という人もいるやろう。それは今専門家、特にその道の〝権威〟がしゃべり、教科書や本に書いてることのほとんどは事実と違う。ウソとまちがいのオンパレードと言ってよい状態なんだ。

 

それを「そうじゃない。こうや」と本当の、というか事実に近い古代史像を探っていく、それが「おもろいんだ。」


知り合いのある若い人が僕に「歴史なんて大嫌いや。うそばっかりやから」と言った。僕は感心したな。「こいつ、できるな」って。僕が若いころそんなこと思いもせんかった。特別興味をもってなかったこともあるけど、そこまではっきりと言えるなんてすごいよな。

 

とはいっても、古代の真相を探るためには文献だけでもいけない、考古学だけでもだめ、民俗学だけでもいけない、人類学だけでもだめ。さまざまでたくさんの、間違いのない「証拠」を集めて考えなければならん。大変なんだ。

 

日本の古代史というのはそのウソの度合いがはなはだしい。なぜかというと、日本の古代史を知る文献は「日本書紀」と「古事記」なんだが、両方とも「勝ち組」が勝手に作ったもんだ。客観性ゼロ。裁判に例えれば「自供」だけを頼りに判決を下しているのと同じや。冤罪が多発してるだろ?「事実」を捻じ曲げて書いてるんだ。特に「日本書紀」は。

 

韓国や中国の政府がよく日本の「歴史認識」についてガタガタいってくる。そういう韓国や中国だって特に近現代史においてはウソを言ってる。「おまえらにだけはそんなこと言われたくないぞ」と言いたいよな。

 

人間はサルと同じじゃない。飯を食っていくこと、それが一番大事なことでいっしょなんだけど、人間は経験の積み重ねを記憶し記録することで動物よりすごい生活を実現してきただろ? もっと古代史にも興味をもてよ。「ロマン」だけじゃなくってさ。

 

ということで、日本の古代史に関してこれからさまざまな「意見」や「証拠」をアトランダムに提示していく。よろしく。反論があればじゃんじゃん言ってこいや。


大阪・河内在住の〝先生〟より


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ブログNO.99 薩南への旅 7 川辺

川辺町にも紀氏の影

興味深い飯倉神社の祭礼

 

 開聞神社の由来を説く「開聞古事 略縁起」の筆者は、「原本」にあった「九州年号」が当時の時間軸であったことを理解できなかったのだろう、『日本書紀』の記載に合わせた年代表記に「改変」してしまったようだ。

しかし、事実の解明への「カギ」はちゃんと残してくれている。それはほとんどの年代表記にきちんと「干支」が添えられていることだ。

 これによって、伝説の「天智天皇」は『書紀』に云う「中大兄(なかのおおえ)皇子」ではなく、「白村江の戦い」の直前に実在していた九州倭(い)政権の天皇(~646年)であったと断じられる。

そしてその都は福岡県太宰府市にあったことがわかる。九州歴史資料館などが「大和政権の九州出張所である大宰府遺跡だ」などと、実態を隠したいかがわしい遺跡名で呼んでいるところだ。「都府楼=都督の府」という別名でも呼ばれている。「略縁起」に「太宰府から勅使が来る」とか「太宰府で官符を下した」など数カ所に中枢の場所として「太宰府」が出てくる。

 

99-1 文書の中に天智天皇と開聞后宮(大宮姫)に関係する神社が数多く記されている≪當末神末社之事≫。薩摩半島はもちろん、大隅半島にも多い。志布志市の山宮神社や曽於市の山口(大明神)神社などだ。文書に記す「天智天皇」が九州で広く活動し、よく知られた人物であったことを物語っている。

 

興味深い飯倉神社の祭り

 中に南九州市川辺(かわなべ)町の飯倉(大明神)神社が記されている。元来は「宇賀魂命(食飯魂=うかのみたまのみこと)を祭る神社だったが、後に「開聞后宮第一の宮」として天智天皇やその皇女を合わせ祭るようになったという。

だが、神社側は「天智天皇云々はどうも通説に合わない」と感じたのであろうか。表看板から「天智天皇」は消されている。通説に惑わされることなく、きちんと表示してほしいものだ。地域での信頼を持ち続けるもっとも大事なことだ。

 訪ねた折、ちょうど「御田植祭り」が挙行されていた。棒踊りや町内の練りなどにぎやかだった。興味深かったのは祭りで牛を引く役割をしていた人の扮装だ。古墳時代の人型埴輪を思わせるような赤い色で顔を隈どっている(上写真)。入れ墨を表現しているのだろう。

 「飯倉の神」も町中を練り歩き、五穀豊穣や家内安全のお祓いをして歩く。その先頭に立つのはここでも「猿田彦」(下写真)である。

「猿田彦」は「国つ神」としてニニギの味方になった人、とされている。九州のどこに行ってもすごい人気と尊敬の的であったらしく、辻という辻に猿田彦の石碑が建っている。そしてほとんどの神社の祭礼で先頭に立っている。

 『古事記』によれば、猿田彦は「アザカ(阿邪訶)」という所の海に潜っていて、手を「ヒラブ貝」にはさまれておぼれ死んだという。なぜこんな死に方をしたと言うのか

ニニギらは、猿田彦が支配していた「海の魚」たちにまで「仕え奉れ」
99-2 と繰り返し強制している。ナマコが「うん」と言わないので小刀で口を割いたなどと記す。

猿田彦勢力は当初、ニニギら新興勢力にとって貴重な助力をした人であったろう。が、そのうち邪魔な存在になったのかもしれない。

いずれにせよ、手をはさまれて浮き上がれなくなったというのだから、この「ヒラブ貝」は相当巨大な貝だろう。南海に住む「オオシャコ貝」が思い浮かぶ。

『魏志』に「(倭の人)は皆、鯨面文身(入れ墨)し、好んで魚やアワビを捕らえ、水の深い浅いお構いなく皆沈没してこれを取る」と記される南方海人族のイメージだ。

 

紀氏の影も濃ゆい

 関係者にお話を伺っていてびっくりしたのは、飯倉神社の宮司を務めておられたのは「高良(こうら)家」であるという。「高良」姓は当ブログ(NO.8191)で明らかにしたように紀氏一族の人であるしかも西日本を中心に数多くの「高良神社」が建立されている。紀氏政権の中でも中枢部で君臨していた支族と考えられる。

 しかし、こちらの高良家がずっと宮司を務めていたわけではなく、元々の宮司家が江戸時代に跡取りが途絶えてしまったので、臨時的に宮司を務めることになったという。古くから土地の名士であったからだろう。

町を歩いていると「高良酒造」という看板が掲げられていた。おいしい地酒の焼酎「八幡」を造っているという。こちらの「高良さん」のお宅には当家が武内宿禰と紀氏の末裔であることを伝える文書が残されているという。

 武内宿禰(たけし・うちのすくね)は熊曾於(熊襲)族の英雄で、この氏族の象徴的人物とみられる。が、熊曾於族と紀氏は常に離合集散を繰り返していたことがわかっている。これまでブログで探索してきたとおりだ。文書はそのことを如実に物語る貴重なものではないかと思われる。

 

「河辺の臣」の根拠地か

「川辺」というと、朝鮮半島の新羅との攻防話に出てくる「河辺の臣(おみ)」が思い出される。おそらく6世紀ごろの話だと考えられるが、『書紀』に記されている。この記事もまず間違いなく、九州倭(い)政権の史書日本(旧)』から抜き取り、「川辺」を「河辺」と書き換えて記したものであることは間違いなかろう。

 それによると、562年(欽明天皇23年)に倭政権は新羅に奪われた「任那(みまな)官家=日本府」を再興するために、「紀の男麻呂」を大将軍とした大軍を派遣した。この時副将軍を務めたのが「河辺の臣(おみ)瓊缶(にへ)」だという

 この「河辺の臣」は勇猛な人で連戦連勝したが、敵の策略を見破れず、夫人とともに捕虜になった。夫人は紀氏の一支族・坂本の甘美(うまし)姫という人だった。新羅の将軍に「自分の命と妻のどちらがいとしいか」と脅迫され、「自分の命の方がいとしい」と答えた。新羅の将軍は河辺の臣を殺さない代わりに、皆が見ている前で妻を犯して辱めた。

 河辺の臣らは後に帰還し、必死で妻に許しを乞うたが許されなかったという。


「川辺」という地名は、薩摩半島の「川辺」以外に「大宝二年・肥の君戸籍」が残っている福岡県糸島市の「川辺の里」とか紀州・和歌山市川辺などが目につく。「河辺の臣」がどこにいた人なのかわからないが、薩摩の「川辺」も有力な候補地だ。

 「副将軍」という地位を得るにふさわしく、背後にかなり大きな勢力をもった人であろう。しかし、お話自体が美談とは言えない。紀氏主体の朝鮮侵略軍説話のなかではちょっと異質だ。熊曾於族に属する人ではなかったかと感じる。となると、この「河辺の臣」の出身地は南九州市川辺町、旧川辺郡一帯である可能性が最も高くなる。

 町の西側には霊峰金峰山(標高636メートル)が屹立する。江戸時代中頃に書かれた「薩州金峰山縁起由来記」によれば、山は元来「金剛宝山」とか「金の嶽」と言われていたらしい。鉱物資源の宝庫という意味だろう。太陽神・大日霊貴(おおひるめむち)がこの嶺に降りた、とも。6世紀の終わりごろ奈良・吉野の蔵王権現を勧請したという。

 また、百済の高僧・日羅が坊津に着岸して龍厳寺を興し、300余りの坊舎が造られたとも記している。(20189月)


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ブログNO.98 薩南への旅6 開聞古事

「謎の年号」に戸惑いも

大宮姫伝説伝える「開聞古事縁起」

 

 当ブログNO.95で、「天智天皇」が鹿児島県指宿市で余生を過ごし、そこで生涯を終えたといういくつかの伝説をお伝えした。この話が事実らしいことを印象づけるのは開聞(枚聞)神社に秘蔵されていた『薩州開聞古事縁起』という神社の由来や出来事を記した文書である。今回はこの文書についてちょっと詳しく見てみよう。

 

 この文書は延享二(1745)年ごろ、開聞神社の別当(宮司)で坊の津一乗院の住職にもなった快宝上人が、約400年前の正中三(1326)年ごろまでの記録を基に書いたと考えられている。ただ、今我々が目にできるのは、この「原本」を弟子が一般向けに編集した「略縁起」である。

 残念なことは明治二(1869)年の廃仏毀釈の際に、政府から「大宮姫伝説は俗記であるから焼却せよ」と命じられ、原本は伝わっていないとのことだ。藩や幕府ではなく、天皇制で国をまとめようと考えた明治政府が、「これが歴史事実だ」とした『記紀』の記載と食い違う文書や事実を徹底的に排除しようとした政策の一つである。

これは現代版「禁書令」(当ブログNO.96 注1参照)と言えよう。全国で神社の統廃合も同時に行われ、本当の歴史や事実を伝える資料の多くが失われた。

 

九州年号を時間軸に物語

 

しかし、残された文書にも貴重な証言がいくつも残されている。神社の絶え間ない保存の努力に敬意を評したい。

まず「原本」はその時間軸の一つとして「九州年号」(注1)を使っていたらしい。「略縁起」に「仁王」「白雉」「白鳳」「大化」「大長」などの九州年号が記されている。

仁王」は623から629年まで、「白雉」は652年から661年まで、「白鳳」は661年から684年まで、「大化」は諸説あるが686年、あるいは695年から使われ、「大長」は704年、(あるいは698年)から721年ごろまで使われていたらしい年号である。

「快宝上人」は九州年号を知っていて、きちんと使っていたらしいことがうかがえる。が、「略縁起」の著者は後世の人で、『日本書紀』が本当の歴史を伝える史書だと教え込まれていたためか、記されていた未知の年号が何なのかまったく理解できなかったようだ。

仁王」については、山幸彦が海神からもらったという「満珠・干珠」について「此の宝玉は海神・豊玉彦の珎宝(ちんぽう)なり。これ神代より仁王に到るまで皇宮に秘蔵あり、国家の御守りとなすなり」と、おそらく「原文」通りに記す。

しかしその後の記述では「仁王」をなんと勘違いしたのか「仁王16代清和天皇」「越仁王39代天智天皇」などと意味不明のことを記している。

 「白雉」「大化」については『日本書紀』が「大化」は645年から始まる「大和政権」の年号だと勘違いするように記載しているなどで、「略縁起」の筆者もこのウソを信じ込み、勘違いした年代の使い方をしている。

 例えば、大宮姫が生まれた時期を「孝徳帝の大化五年己酉649年)」とか「孝徳帝の白雉元年庚戌650年)」などと記す。67世紀代の干支で「己酉」は「649年」と「589年」、「庚戌」は「650年」と「590年」の二つづつがある。

 「略縁起」の著者は『日本書紀』の記述を信じ込んでいる?から、「大宮姫」の夫は『書紀』に記す「中大兄=天智天皇」だと思い込んでいる。それで「原文」にあった「己酉」を「中大兄=天智」の在世中で孝徳帝時代の「649年」、「庚戌」を「650年」と考え、「大化」とか「白雉」の年号を付け加えて記した、と考えられる。

 もちろんこの干支が示す年は60年前の「589年」「590年」が正しい。これより60年後だと、皇后が死んだ年と全く合わないからだ(後述)。

 「白鳳」はちょうど「白村江の戦い」の最中の九州年号だ。23年という九州年号としてはきわめて珍しく、長きにわたって改元されなかった。敗戦や大和勢力の反乱勃発などの大混乱で、年号を新たにすることもできなかったと考えられる。

ただ美術史のなかでは「白鳳時代」として現在もひんぱんに使われている。日本人というのも結構アホなところがある。なぜ7世紀後半のこの時期を「白鳳時代」というのか考えようともしない。ただ何となく使っている。

大長は大和勢力の勝利と政権奪取が決定的になった7世紀末、大隅半島の七つの城に籠って最後の抵抗を続けていた熊曾於(熊襲・隼人)族ら「九州倭(い)政権」が制定していた年号だ。

大和政権は長年にわたって倭政権の残党を駆逐しようとしたが、なかなかできなかった。「白村江の戦い」から約30数年、701年にやっと「大宝」という年号を建てて「勝利宣言」をした。しかし、倭政権の残党たちは決してそれを認めなかったらしい。相変わらず自分たちの年号「大化」とか「大長」を使っていたのだ。

養老4、5721)年に、二年間にわたる血みどろの戦いの末、多くの熊曾於族らは殺され、息の根を止められた。九州倭(い)政権は名実ともに約1000年の歴史に幕を閉じ、終焉したのだ。

「略縁起」ではこの「大長」という年号について、天智が山階に出かけて帰らなかったという「天智十年辛未(671)冬十二月三日」の記述の脇に割注を入れて「大長元年、歴代年号を書くなし」と書き、また別の個所では「天智帝大長元年、勅令及び(藤原)鎌足公の命により、開聞后宮と共に下向奉り・・・」などわけのわからない奇妙な使い方をしている。

「大長」年号の他の使用例としては『運歩色葉集』(島根県 1537年)に

「(柿本の人丸)大長四丁未乙未の間違い?)、石見国高津に於いて死す」

とか

大長七年」(『鳳来山の歴史』愛知県 鳳来寺由緒書)など5例が知られている。

 

 ブログNO.95で明らかにしたように、開聞で死んだ「本当の天智天皇」は『書紀』に記す「中大兄」とは別人であることは明白だ。伝えられる話の内容が違いすぎる。

 

 どちらが「本当の天智天皇」なのか。言わずもがな、民間に伝わる幾つもの「天智天皇」伝説に登場する人が「本物」だ。話を伝えた人々にはわざわざウソをつく必要など何もないからだ。

 


「略縁起」の著者も「扶桑略記」などに記す「中大兄=天智天皇殺害説」は知っていたらしい。大宮姫が「本当の天智天皇」の宮を抜け出て、生まれ故郷の開聞へ帰る間際の「天智帝年=671」に、「天皇の御車のなかに靴を入れた。それは二人の契(ちぎり)の為である」とか「天智帝はその十年、山階(やましな)山にお出かけになったが、お帰りがなく、そこにあった靴を収めて御陵とした」「(天智の世継ぎであった)大友皇子が大宮姫の命をねらって軍を興した」「靴は帰る途中、波の上でカモメになった」などと記す。

 何とか大和政権の「天智天皇」と大宮姫を結び付けようと話を作り、苦慮している様が読み取れる。しかし、もちろん無理な話だ。

 

 別な場所≪皇帝、后宮 岩隠れの事≫には「文武帝の慶雲三丙未706年春三月八日、天智聖帝、天寿七十九にて崩御。この仙土陵がその神殿に当たる」と、「天智十年(671年)死亡説」とは矛盾することを書く。伝説と『書紀』の記載の間で苦慮している。そして大宮姫の死亡年月日を「和銅元戊申708歳 六月十八日 皇后御寿五十九薨御也」としている。

 

 これはもちろん誤りだ。実際の死亡年は天智帝が60年前の同じ丙未(646)年、大宮姫は戊申(648)年であろう。何か政権内に不穏な動きがあり、政治に嫌気が起きて皇后とともに太宰府の都を捨て、開聞に隠遁したのかもしれない。


「大化の改新(645年?)」は『書紀』の記載通りの事件ではなかろう。が、九州倭政権内でこの時、何かしらその記載の下敷きになるような政治情勢とか事件があった可能性もある。

大和政権が「本当の天智天皇」の諡(贈り名)をパクって中大兄にすり替えて記録したために、「略縁起」の著者は干支の年を60年間違え、「慶雲」とか「和銅」という時期の違う年号を付け加えて書いてしまったのだろう。

「略縁起」の著者が、自分たちの伝える「天智帝」と『書紀』の「天智」が別人だと知っていながらいかがわしい操作をしたとは思えない。何らかの「圧力」がかかって奇妙なことを書かされた可能性はあるが・・・。

 

「薩州開聞古事縁起」は「修験道史料集 西日本Ⅱ」に納められている。指摘した文言のほか開聞神社には本殿など九社があり、大宮姫のほか神話に登場する

 

正哉吾勝尊、天の穂日命、市杵島姫命らを祭る。このほか海神「わだつみ夫婦」を祭る「二龍宮」、地主神である「天照大神の子・大己貴」やその子「事代主」を祭る「荒仁(あらひと)宮」、さらに彦ホホデミ(山幸彦)の妻・豊玉姫を祭る「姉姫宮」など多くの社があるという。

当地の古代史を研究し『南九州の地名』などの著作がある青屋昌興氏(南九州市川辺町在住)は「開聞神社は元来、海神・わだつみを祭る神社だったのではないか」という見解をのべておられる。

次回はこの「古事縁起」にも記載がある南さつま市の飯倉神社や川辺町などについて話ししよう。            

 

(注1

 

≪九州年号の一例≫

《開始年》《年号》 《天皇》

522年 善記  継体      601年 願転  天の足彦

526年 正和   ″      605年 光充   ″

532年 教到  継体・安閑   611年 定居   ″

536年 僧聴   宣化     618年 倭京  舒明?

541年 明要   欽明     623年 仁王  舒明?

552年 貴楽   ″      629年 聖徳  舒明?

554年 法清   ″      635年 僧要  天智?

558年 兄弟  ?       640年 命長  天智?

559年 蔵和   欽明     647年 常色  ?

564年 師安  ?       652年 白雉  ?

565年 知僧   欽明?    661年 白鳳  天武?

570年 金光  敏達?     684年 朱雀  天武?

576年 賢称  ?       686年 朱鳥  持統?

581年 鏡常  敏達?     695年 大化  ?

585年 勝照  敏達・崇峻?  704年 大長  ? 

589年 端政  天の足彦   (698年元年説なども)

594年 吉貴  天の足彦

 

(他に596年 「法興」あり。ただし、各元年記載は異説もあり確定したものではない。また、九州内で二朝対立等の疑いもあり、特に7世紀以降については、初期の天皇は『隋書』に記録された「天のタリシヒコ(足彦)」であった以外、誰であったか不明。当ブログNO.6「九州年号」参照)

20189月)


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ブログNO.97 薩南への旅 5

薩南に残る濃厚な大陸文化

媽祖やニニギら祭る神社も


 大己貴(大穴持、大名持、大汝牟遅=大国主、八千矛神)や「建御名方(南方)」、そして事代主(ことしろぬし)らが造っていた国を奪い、九州での覇権を握ったというニニギら天(海人)族は、まず間違いなく現在の南さつま市笠沙町の海岸に漂着した人々だったろう。

 その時期についてはよくわからないが、筆者のあてずっぽ的「勘」としては紀元前1000年とか2000年、時代区分で言えば縄文時代中、後期ごろの話ではないかと思う。

はずれである可能性ももちろん高いが、当地一帯では縄文時代の遺物、土器とか土偶などが濃厚に見つかっていることや、笠沙町では大陸での特徴的な耳飾り
97-1玦(けつ)状耳飾り」
写真=中国・山東省出土。紀元前5世紀の戦国時代のもの)二点も見つかっているからだ。この種の耳飾りはもっと古いものを含め、鹿児島県内で数点見つかっている。この辺りの縄文時代後期の土器(指宿式土器)の中には筆で「雷紋」のような文様を付けているものがあってびっくりしたことがある。中華どんぶりの縁にあしらわれているあの四角い続き紋様だ。

ニニギらが言う渡来元の「高・天の原」がどこなのかはさっぱりわからない。彼ら自身、どうやら知られたくないらしい。「海の彼方らしい」という以外、なにも手掛かりさえ残していないからだ。

 そして、かなり大勢でやって来たらしい。渡来元ではそれなりの勢力を持っていた人々だったろう。おそらく渡来元で紛争があってそこに居れなくなり、舟に乗って新天地を目指したのだろう。渡来元でうまくいっていれば大挙して、わざわざ危険を冒して船出する必要はない。

 何十隻かの船に分乗したか、筏(いかだ)を結び合わせて黒潮の流れに乗り、「波を(⇒雲を)かき分けかき分け」やって来たのではないか。

 彼らが残した神話・伝説の中に「天の磐船(いわふね)」とか「無目堅間(まなしかたま)の小舟」という船の名が出てくる(『記紀』)。

『古代日本の航海術』(小学館)を著した茂在寅男氏によれば、『記紀』に記す
97-2 古代の日本列島の船の名
などは古代ポリネシア語やタミール語を使って解釈すればその実態が鮮明になるケースが多い、という。これらは「アウトリガー式のカヌー」(左図=同書から)や「竹筏(いかだ)」、あるいは「二隻を結んだ双胴船」のことと解釈されるという。

 そして小原啓艇長による1997年の「ヤム号」実験では、フィリピンのアパリ港から約300本の竹を結んだ筏に帆を張ったものを使い、7人で風任せ、潮任せで黒潮に乗って漂流。約2000キロを33日間で航海し、無事鹿児島新港に到着したという話。また太平洋戦争末期、西田定一軍曹ら9人が住民から譲り受けた?小さなカヌー(12メートル弱)に、手製の(かい)と帆を使い〝地獄〟の戦場となったフィリピンのポリヨ島のから脱出。29日間の苦難の航海の末、屋久島にたどりついた話、角川春樹氏の「野性号二世」の成功譚などを紹介している。

97-3 これらの話からニニギらは、いくらでも大きなものを作れる竹筏を使って航海した可能性が最も高い、という想定も生まれよう。竹は水に浮き、水気にも強い。大小さまざまな竹があり、南方文化の象徴ともいえる植物だ。様々な用途に使え、しかも有用で最も手に入りやすいものだ。

 最近、沖縄で葦舟を使って航海しようという研究者の話をテレビで放映していたが、この研究者は南方文化や航海術などに暗い人なのであろう。皆「何で今ごろ葦舟?」と思ったに違いない。

もちろん失敗した。「こんな実験に税金を使われてはかなわんな。ほかに使うべき事は山ほどあるやろ」と思ったものだ。例によって肩書にだまされ、こんな実験をさも「古代の航海を再現する実験だ」と思ってしまったこれまた無知なマスコミの浅はかさにも今さらながらため息が出たものだ[t1]

ただ言えるのはニニギらの出発地は「中国大陸南部の沿岸地域」であろう、ということだ。少なくとも朝鮮半島からではないことは普通の常識を持つ人ならばすぐに分かるだろう。


 ニニギを頂点にいただいた一行には、中臣氏の祖・天兒屋(あまのこやね)の命(みこと)、忌部氏の祖・太玉(ふとだま)の命、猿女氏の祖・天の宇受売(うずめ)の命、鏡作氏の祖・石凝度売(いしこりどめ)の命、それに玉祖の命という五人の重臣(五の伴緒)、さらに智慧の神・思金(おもいかね)、力技の手力男(たじからお)、天の石門別(いわとわけ)、警固役の天の忍日、天の久米氏らがいたという(『古事記』)。

 石製の鋳型を表すとみられる「いしこりどめ」は、銅とか鉄などの製品を作る鉱物専門家集団の長、「太玉」や「玉祖」は玉石を探して選別し、切ったり磨いたりして石器や玉製品を作る技術者の長だっただろう。

久米(くめ)氏は後にカンボジアでアンコールワット遺跡などを造ったクメールの一派ではないかという説に魅力を感じる。沖縄に久米島がある。配下には万葉集が語るように物部氏もいただろう。

いずれにせよ、事実とすればそれぞれの家来を含め最少でも100人以上の大集団だったろう。ニニギらの以前にも以後にもこの海岸を目指して海に出た人々は多かっただろう。が、その中で幸運に恵まれて彼らは新天地に到着したのだ。


97-4 笠沙町の北側にある野間岳(標高591メートル)の中腹には野間神社(写真)がある。社記によれば神代の都「笠沙の宮」があった場所という。そして山頂にはニニギや阿多津姫(木の花の咲くや姫)を祭る「東宮」と、ニニギの三人の息子というホデリ(火照)の命(海幸彦)、ホスセリの命、ホオリの命(山幸彦)を祭る「西宮」が建っていた。

そして途中で「西宮」は中国の航海女神・媽祖(まそ)を祭ることになったという。NO.95「天智天皇」の項で紹介した「射楯兵主神社」の「兵主(ひょうず)」とは元来これも中国の神話上の戦いの神・蚩尤(しゆう)のことであるという。引き続き大陸からの文化が途切れなくもたらされたことがわかる

(下写真=「媽祖」像。航海の安全を祈った。南さつま市に伝わる明代のもの。「西宮」に祭られていた像ではない

97-5 極めて興味深いのは、笠沙町の沖に浮かぶ草垣島の縄文から弥生時代にかけての遺跡からモミ跡がのこる須恵器(すえき)が見つかっているという。どういう状況で見つかり、どんなものか見てみたいものだ。

窯で焼く硬い焼き物である須恵器は、北部九州でも弥生式土器と同じ層からよく出土するが、縄文時代の層?から出土するのは珍しい。

しかし「出土しても当たり前」だ。当ブログNO.5で解説したように、中国大陸では須恵器は少なくとも紀元前4000年ほどあたりから生産が始まり、その技術は紀元前9世紀ごろには全域で確立されていた。中国の博物館を訪ねればすぐに分かることだ。

ニニギら大陸から来た人々が須恵器の器(うつわ)を携えて来、その作り方も熟知していたことは想像に難くない。

「日本の須恵器はすべて5世紀に朝鮮から伝わった。大阪の陶邑(すえむら)で生産が始まり、その技術で作られたものが全国に配布された」といういかがわしい「常識」やその常識を裏付けるという「常識はずれ」の研究に多くの考古学研究者が惑わされている(当ブログNO.5参照)。

一部では遺跡で、わざと世界中の考古学界で「最も間違いのない年代測定法である」と認知されている放射性炭素(C14)の年代測定など理化学的年代測定をしないよう話し合い市民をだまし、「いかがわしく奇妙な古代史」づくりに励んでいるようだ。

いかがわしい「通説」に頭を毒されている多くの考古学研究者は一日も早く目を覚ましてほしいものだ。指宿市の考古博物館「時遊館COCCO橋牟礼」でも放射性炭素(C14)の年代測定で西暦370年±とされた成川遺跡の地層(青ゴラの直下)から出た須恵器を、奈良時代(TK21?)などとしたまま頬かむりをしている。「陶邑編年」ではそうなっているからだというが、あきれたいかさまぶりだ1)。

さらに同館では、この辺りで「朝鮮半島製の石包丁」が出土する可能性はほとんどないと思われるのに、中国・江南地域で出土する石包丁とそっくりな形の石包丁に「朝鮮製」と銘打つなど奇妙な解説をしていた。

この包丁の石材が「朝鮮半島にしかない」など確実な証拠があれば良いのだが、そうでもなさそうだ。市民に「日本文化は朝鮮文化のお下がりだ」というおかしげで事実無根とも言える説を印象づけようというねらいなのだろうか。


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拙著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルヴァ書房)155頁参照

                       (20189月)

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