うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログ 「ご挨拶」 


このブログも100回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47

九州年号とは6135698

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5

九州にいた古代の天皇 神武(31景行11684など)継体(1314)、安閑(1556)、神功皇后(697579)、成務(80)、天のタリシヒコ(1617)、天智(959899101102

前方後円墳は「大和政権の墓」ではない。熊曾於族と紀氏が築造

79、 78

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

「倭」を「わ」と読むのは間違いだ11

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」こと九州古代史研究会主宰 内倉武久

ブログNO.136

過酷な一年でした。来年は?

世界の死者は173万人、新型コロナ

 

 今年一年、ずっと新型コロナウィルスにやられっぱなしでした。個人的にも家族に不幸があって悲しい思いで胸がふさがった年でした。来年は何とかいい年になってほしいものです。贅沢は言いませんがそこそこに・・・。

 世界中でコロナウィルスに罹患した人は、25日朝現在で何と78704434人という。死者は173663人とか(ジョンズ・ホプキンズ大調べ)。トランプやブラジルのボルソナーロらが当初、インフルエンザより影響は少ない、などと言っていたのがウソのような惨状だ。米国での感染者は約1845万人、死者は326124人、ブラジルでは感染者が約736万人、死者は189220人とか(同大調べ)。命までは取られなくても‶壊滅状態〟の危機に陥っている業界も多い。芸能、飲食業界などはその代表格だろう。

日本でも25日夜現在までで感染者は215226人、死者は3175人(政府調査)だという。南北アメリカやヨーロッパ各国ほどではないが、命を失った人も結構多い。外国からの来客、帰国者に対するウイルス持ち込み阻止対策はゆるふん状態だ。感染者は一日3000人を超えた。

まだまだ感染していない人も多いから感染の勢いは簡単には終わらないだろう。或はこれから爆発的に増えるかもしれない。そうなったら医療従事者の奮闘にもかかわらず、医療崩壊が起きる。感染しても病院で治療を受けることもできなくなるだろう。治っても後遺症が残る人も多く報告されている。怖いね。

世界では一年をかけて超特急でワクチンが作られた。12月に入ってアメリカのファイザーやモデルナ、ドイツのビオンテックなどが接種を始めたという。だが「敵もさるもの」、少しづつ変異し、イギリスでは感染力が70%も増したやつになったとか。あちこちで変異種出現のニュースに接する。政治も絡んでいるからウソか本当かわからないが、せっかく作ったワクチンが効かなかったらどうしようもないよね。

日本での一般への接種は早くて3月以降ぐらいなのだろうか。一日も早くちゃんと効くやつを接種してほしいんだけど。

 

 世界情勢も相変わらずどうしようもない所が多いね。

 貧しい人が多いアフリカ大陸ではワクチンを接種できない人が大半だという。大陸全体では死者は百万人を超えるという恐ろしいことになるのではないだろうか。犠牲になるのは年寄りがほとんどというから、まあ仕方がないと言えば仕方ない。

 EUは難民問題を抱えてテロや膨大な財政支出で苦しんでいるようだ。おまけにコロナの被害も激甚だ。それでもマスクもせず、普通の生活をエンジョイする人たちも多くて、コロナウイルスも活躍しやすそうだ。こちらは40代、50代でも犠牲になる人がわんさといるようだ。

ほとんどの国でクリスマスのお祝いはおじゃんになった。日本で盆と正月が吹き飛んだ以上のショックだろう。東洋人とは食生活も違うからコロナに弱いのかもしれない。

 先日来、小生は緑茶をよく飲んでいる。奈良県立医大の平野先生とかいう人が、コロナ菌を緑茶に入れる実験をしてみたら、一分間で90%の菌が死んだとか。緑茶に含まれるカテキンがコロナウイルスの感染カギを壊すらしい。そのニュースをユーチューブで見てびっくり。さっそく絶え間なく飲んでいる。どうか効きますように!

 外国のニュースをみると「コロナウイルス」と言っているのは日本だけらしいな。ほとんどは「COVID-19」と言っている。なぜなんだろう?

 EUイギリスはコロナウイルスの襲撃に加えて、連合脱退問題でももめている。お互いポイントをあげようとして譲ろうとしないようだ。特に漁業権問題で決着がつかないらしい。それでも交渉期限ぎりぎりのこの24日に何とか合意に達したとか。

以前は北アイルランドの孤立化でもめていた。ウイルスの変異種発見でドーバー海峡の物流がストップした。両岸で大型トラック一万台以上が何日も夜を明かしていると伝える。

 イギリスの生鮮食料品は40%以上をEUに頼っているという。自動車生産工場もいずれ関税がかかるようになるから逃げ出すだろう。先に音を上げるのは、脱退して過去の栄光を取り戻したいイギリスの方だろうと思う。現状では栄光より衰退の道をたどるのではないか。

 

 アメリカでは、選挙に負けて大統領の椅子から転がり落ちたトランプは、辞めた後、脱税やら何やらで逮捕される運命にある、と言われている。それを見越してトランプは自分や身内が訴追を免れる法案を次々出しているという。

全く金銭にしか興味のない下品な男だと思う。世界との協調の姿勢もなく、自分らだけが良ければそれでいい、という。「世界の覇者の姿今いずこ」の感が深い。こんな男がよくも大統領になれたものだ。

「選挙に不正があった」などと言い続けて辞任の引き延ばしに躍起だ。未開発国や共産党国家じゃあるまいし、いくら何でもアメリカの良識、民主主義はそこまでは腐ってはいないだろう。日本よりバカの数が多いようではあるが・・・。

 

 中国の問題は直接我々にも影響があるから見逃せない。航空母艦を造り、海軍力を強力にして尖閣諸島周辺をうろうろし、日本の領海をしょっちゅう犯しているという。

 元々第二次世界大戦以前からこの島は国際的にも「日本の島」と認められていた。付近の海域に石油が埋蔵されているのがわかった途端、島は自分のものだと言いだした。ベトナムやフィリピン、オーストラリア近辺の海まで全部自分のものだと言って、勝手に線を引きまくっている。

まったくとんでもない国だ。尖閣を巡って戦争などする必要はないが、世界に向かって中国の主張がいかがわしいものであることを一生懸命言い続けることが不可欠だ

中国は内陸ではチベットを武力で自分の物にし、女を犯しまくったと伝えられる。新疆ウイグル自治区では男数千人を強制収容所に押し込め、言うことをきかせようとしている。綿花畑で強制労働をさせ、安い綿を日本やEUなどに売っているという。

 今、イギリスから返還された香港で市民が危機に陥っている。自由に話せ、行動できないというのは人間として一番苦しい。共産主義は現実の世界ではすべての国で独裁に転じてしまう。自分らに対する反抗を国家への反抗だとのすり替えが可能な体制だからである。

 約束は簡単に破られる。香港の市民が自由を取り戻すことはもう何十年、あるいは何百年間も不可能だろう。権力に尻尾を振る連中も多く、犠牲者も数多く出るだろう。「他山の石」とし、注意深く目配りし、小さなことでもそうなるきっかけを作らないよう行動しなければならない。

漢民族というのは欲深く、冷酷な人間が多い民族のようだ。自然も人間関係も厳しくて生きにくい環境がそうさせるのだろうか。

古代にも、それまで共存していたチベット系、モンゴル系などの民族を徹底的に痛めつけ、山奥や海外に追い払った。少数民族にされた人々の一部は日本列島に逃げてきて日本人になった。列島の渡来人の大多数が大陸系だ。わんさといる。その一つが熊曾於族だ。

日本人がウソをついたり、ウソと分かっていてもできうる限り争いを避けようとするのはそのせいかもしれない。

 

 韓国では一時治まっていたコロナの蔓延がぶり返している。一日に1000人以上が罹患しているという。一度ゆるんだタガを引き締めるのはたやすいことではない。大統領の文は、慰安婦問題をしつこく蒸し返していた仲間が、慰安婦のためでなく自分たちの欲得のためにだけ動いていたことがばれてしまい、たじろいでいる。

それでも故郷の北朝鮮との連携は捨てられないとみえ、金正恩の悪口を満載した脱北者の「風船飛ばし」を禁止するなど媚びを売る政策を変えていない。でも相手にはされないだろう。いったいこの国はどこに向かおうというのだろうか。

日本との関係では、竹島問題にせよ政府が理にかなわない韓国の要求に対しても、卑屈ともいえる対応を続けていた。それがあだになり、図に乗ってますますいかがわしい要求を突きつけてきていたのだ。

強制労働問題もその実態はどうあれ、両国の友好親善を目的に金を払い、決着していた問題だ。自らの政府の問題であるのに、慰安婦問題と同様、すり替えて日本が悪いように国際社会に宣伝している。

ベトナム戦争に参戦し、現地の女性に鬼畜ともいえる恐ろしい仕打ちをしておきながら口を拭い、日本人を「セックス狂いの人間だ」と世界に宣伝している。アメリカにまで立てられた慰安婦少女像は、実は村民全員が見ている前で引きずり出されて輪姦され、あげく射殺された16歳の無垢なベトナムの少女像そのものだ。この件は4,5年前、雑誌「プレシデント」が特集していた。ベトナムでは韓国軍によって何回も強姦され、子供を宿してしまった一般の女性が5000人以上おり、大問題になっている。銃で脅され、きちっとした女性のすべてを慰安婦代わりにされたベトナムの怒りと屈辱はいずれ韓国に歯をむくだろう。現場が日本だったら同じことをされたと思う。日本政府は世界に対してきちんと事実を話す努力をしなければならない。

事実や理屈はどうあれ、がんがん言えば日本は言うことを聞く、と韓国民はそう思っているようだ。さすがに最近の日本政府はやっと、しっかりした対応をするよう心掛けているようだ。このままきちんとした対応を続けてほしいものだ。そうしないと韓国はますます理屈に合わない要求を突き付けてくるだろう。

でもそれも長続きはしないかもしれない。日本政府も「根っこのところ」で大ウソを放置しているからだ。「大和政権一元論」だ。[t1] そして様々な民族、氏族の集まりなのに「単一民族だ」などと市民を騙し続け、古代史学会に正直とは縁遠い対応を続けさせている。そんな現状は中国や韓国と同じレベルだ。そう思うとやり切れない。

ただ、韓国産のテレビドラマは実に面白い。一度見始めると次の回を見られずにはおれないほどだ。筋書きも面白いし、芸能の面の韓国民は秀でている人が多いのだろう。ドラマの中には必ず悪い奴が出てきていろいろ引っ掻き回す。だから面白い。

いいお年を!(202012月)

ブログNO.135  興福寺の九州年号 2

 

前身寺院・山階寺に謎のカギ

「山階」は関西の九州政権の拠点

 

 権勢を誇り、九州倭(いぃ)政権を歴史から消そうと企てた藤原不比等一統の寺で、奈良・大和の代表的な寺院のひとつである興福寺に「九州倭政権」の実在を証明する「九州年号」がなぜ伝わっていたのだろうか。

その謎を解くカギは、興福寺の前身寺院であるという山階(やましな=山科)寺にありそうだ。山階寺が名を変え、興福寺になったことは、寺に伝わる古文書「旧記」「宝字記」「三宝絵詞」やこれらを引き継いだ『興福寺流記』などにはっきりと書かれている。戦後では福山敏男ら多くの古代史や仏教研究家が古文書について研究して解明を進め、それぞれの見解を打ち出している。

それによれば、山階寺は現京都市山科区大宅鳥井脇町付近にあった寺で、今はない。不比等の母である「鏡王女」が、夫の「中臣(なかおみ)の鎌足(かまたり)」の病気平癒を願って建てた寺であるという。

『書紀』などによれば、鏡王女は田村皇子(舒明天皇?)の娘で、万葉歌人としてもよく知られる。当初葛城皇子に嫁いだが、後に鎌足の妻になったらしい。683年に亡くなったという。

どのような寺であったかは、いろいろな見方がありよく分からない。が、三尊形式で丈六(5m弱)の釈迦如来像を造って納めたことは間違いなさそうだ。京都府教委が発掘調査している「大宅廃寺」がそれに当たるとすると、講堂、金堂、塔が一直線に並ぶ四天王寺式の寺だったのではないかという意見もある。

中臣氏一族は元来、北部九州に根を張っていた。大宅廃寺近くにも中臣神社があるが、北部九州にも多くの「中臣神社」がある。藤棚を設けている神社もある。藤原氏はもともと「藤(とう)」とも名乗っていたらしい。藤原家の家伝は「籐氏家伝」といい、北部九州一帯にはいまでも多くの「藤さん」が住んでおられる。

不比等の養女?である聖武天皇の后・光明皇后も正倉院文書のなかに「藤原」でなく、「藤三娘」というサインを残している。筆者は中臣氏に「藤」という姓を送ったのは九州倭政権ではないかという疑いを持っている。

大和政権はそれに「原」を加えて初めて自ら姓を贈ったかの如く見せかけたのではないか。光明皇后らは自らのサインに「藤原」よりもっと由緒正しい「藤」を使っていたのではなかろうか。

山科というところはどういう所なのか。もう少し当ブログNO.95を見てみよう。

 

◇中大兄は山中で殺された?

『書紀』によれば、天智天皇(中大兄、葛城皇子)は死ぬ直前、弟で皇太子だった天武天皇(大海人皇子)を枕元に呼び、後事を託そうとした。が、天武は側近に注意され、吉野に逃げて「壬申の乱」が戦われ、天武は天智の子・大友皇子の勢力を倒して即位した、ということになっている。

ところが平安時代末に書かれた『扶桑(ふそう)略記』という史書には、

一に云う。(天智)天皇、馬車に乗り山階(やましな)郷に幸す。永(なが)らく山林に交じり、崩ずる所を知らず。ただ履(は)きつる沓(くつ)落ちし處をその山陵となす。以て往きし諸皇、その因果を知らず。煞(殺)害は恒(常)の事なり。山稜は山城国宇治(うち)郡山科郷北山。高二丈、方十四町。

と記録する。

「天皇」に擬された中大兄は山科の山中で何者かによって殺害され、今宮内庁が「天智陵」だとしている土饅頭は「残されていた靴があった場所」を「陵墓とした」というのだ。

この殺害説は後の『帝王編年紀』にも引き継がれて記録されている。さらに鹿児島で書かれた『日本帝皇年代記』(当ブログNO.56参照)には、『書紀』の記述を述べたうえ、「此の儀、未だ審(つまびらか)ならず」と不信を隠していない。

『書紀』の記載が事実であるとすれば、後世、わざわざ違う話を書くはずはなかろう。なにせ『書紀』は不比等らが「これが正史だ」として宣伝と普及に努めていた「史書」だ。よほど間違いのない証言が数多くあったから『扶桑略記』などはわざわざ記録した、と考えるのが普通だろう。

さらに、『書紀』が言うように中大兄皇子(葛城皇子)は本当に「天智天皇」と贈り名(諡号)された人だったのかにも重大な疑問がある。というより、どうやら事実としては「太宰府にいて鹿児島の南九州市頴娃町で亡くなった九州倭政権の天皇」の贈り名をパクってつけた「大和の王」だったようだ。(ブログNO.95「開聞古事縁起」の証言など)。

『続日本紀』にも記載のある「九州年号」の存在からも、文武以前の「天皇」と言えば当然「九州倭(いぃ)政権の天皇」しかいなかったはずである。

 

◇山科は九州倭政権の拠点

それはそうと、山科から宇治市、八幡市にかけては古代「内郡」と呼ばれていた地域だった。『倭名抄』でも「宇治」は「うじ」でなく、「宇知(うち)」と濁らず発音するよう求めている。「内郡」であ
135-1
八幡市では熊曾於(熊襲)族の墳墓である地下式横穴墓(図)や地上の横穴墓が大量に発見されている(当ブログNO
59「関西の熊曾於族」参照))。内氏は「武(たけし)内の宿禰」に代表される熊曾於族の代表的な氏族だ(拙著『熊襲は列島を席巻していた』参照)。

「山階」は、奈良県五條市や御所市(宇智郡)と並んで関西における熊曾於族、紀氏勢力の拠点だったのだ。興福寺の近くにも「紀寺」があるが、八幡市の「石清水(いわしみず)八幡宮」は紀氏が建立した神社として知られる。紀氏と熊曾於族は離合集散を繰り返しながらも九州倭(いぃ)政権を構成していた主要氏族だ。

要するに山科には以前から、枝分かれした九州人が多く住んでいて、九州倭(いぃ)政権の関西における拠点のひとつだったのだ。葛城皇子(中大兄)は大和政権を作った功労者でもある。だが、九州倭政権側から見れば、とんでもない裏切り者である。殺されても仕方がなかろう。山階には葛城皇子に対する怒りを充満させた多くの九州政権人がいたのだ。

いずれにせよ山階寺は、葛城皇子とタッグを組んだ中臣(藤原)氏の氏寺であるから、色濃く九州倭政権の影を引きずっていた寺だったのだ。だから「九州年号」の伝承をしっかり残していても何の不思議もない。

福山敏男をはじめ、現在の古代史家の多くが身をかがめ、頬かむりして「九州年号」の存在に知らないふりを続けている。興福寺の由来についても、この寺に伝わる『年代記』にふれることもない。「これはまずいから知らん事にしよう。な、な」というわけだ。

おいしい飯にありつくことしか考えず、これで市民の負託に応えている、と胸を張れるのか。相変わらず「帝国主義」時代と同じウソを引き継ぎ、日本を「ウソにまみれたアイデンティティしかもたない国」にしてどうしようというのか。第二次世界大戦でいかがわしい神話教育と美辞麗句にだまされてゴミ扱いされ、地獄のような戦場に駆り出され、亡くなった300万人以上の市民に対してどう謝罪するのか。問いたい。

 興福寺はまず山階に造られ、藤原京時代に橿原市石川町の厩坂付近に移り「厩坂寺」ともよばれた。さらに平城京への遷都を機に現在地に移ったとされている。「山階寺」の仏像や伝来の品のほとんどは焼失して今伝わっていないが、興福寺の由来を示す文書だけは焼失を免れて『年代記』として結実したと考えられる。

 

◇どうなりますか奈良博の聖徳太子展示

興福寺の北側、同じ春日野の奈良公園内にある奈良国立博物館が来年4月から、聖徳太子についての展示をする、と聞いた。そこで博物館がどんな展示をするつもりなのか、お聞きしたいと思い、20年ぶりぐらいだろうか、館を訪れた。どんな解説や展示をするのかちょっと気がかりだったので・・・。

このブログを読んでいただいている読者はもちろん、多くの人が今、これまでの「聖徳太子像」に疑問を持ち始めている。法隆寺や寺の主仏・釈迦三尊像についても重大な疑問があるからだ。小生もNHKがいかがわしい放送を繰り返すたびに、「事実はこうですよ」と資料を添えて通知し、善処を求めてきた。

 奈良博も、いかがわしい歴史を綴っていることがわかってきた『日本書紀』の記述をそのまま信じて、事実とはかけ離れた太子像を市民に流布してもらっては困るという思いがあった。

 館内ではちょうど英語を交えた落語の会が催されていた。館長も出勤しておられ、落語の会を聞いているという。二時間ほど会が終わるのを待っていると、館長が会っていただけるという。

 案の定、というか、訪問の趣旨を述べると、愛想のよい表情がちょっと硬くなった。そして立ち話でなくてちょっとじっくりお話ししたいというと、「私は詳しいことは承知していないので日にちを改めて専門家の担当者と話をしたらいいのではないか」という。

 「そうしていただいても結構です」と名刺を差し出し「皆さんは市民の税金を使って研究をしているわけだから、市民に間違いのない話をしてほしいと思っているんです」と言うと表情がさらに硬くなった。

怒り出し、「もう話は聞かない。市民の話を聞きだしたら何万人の人の話を聞かなければならなくなる。不可能だ」「なんであなたの話しを聞かなければならんのか。あなたが特別の人だとは思わない」とまくしたてる。

 「私ももう40年以上研究を続けている。聖徳太子などについてブログを書いているから、一度読んでほしい」と、持参したコピーを渡そうとした。が「われわれは専門家の論文なら読むが、ブログなんか読まない。何万人の人が読んでいようが関係ない」と言う。

 「専門家の意見」は聞くがそれ以外の研究者の意見は聞かないというのだ。小生らはその「専門家」が間違ったことを書いたり言ったりするケースが多いから、何とかしてほしいと思っているのだが・・・。

 この時小生は、この館長氏は小生らの意見もある程度知っていて内心困惑しているのだろうな、と感じた。そうでなかったら「話も聞かないし、書いたものも読まない」なんて言わないだろう。論争に勝てる自信もないし、読んでも反論もできないだろう。だから、耳も目も塞ごうとしているのだろうと思った。

いわゆる「守旧派」の主張の論拠はほとんどあの『日本書紀』の記述とそこから派生した話ししかない。だからこれまで通り、ひたすら「専門家仲間の城」に逃げ込んで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込み、カビの生えた展示でお茶を濁し、身の安全を図ろうという算段なのだろうか。

これでは市民は浮かばれない。血税をむしられたうえにとんでもないうそ情報だけを伝えられることになりかねない。こんなんでいいんですかね。

来年、博物館はどんな展示をするか、見守りましょう。もし事実とかけ離れた展示や解説があったら、皆さんそれぞれしっかりと文句を言いましょう。裁判に訴える手もありますね。もちろん論拠を持っておく必要がありますよ。ブログなどをしっかり読んで行ってください。(202012月)

ブログNO.134

‶不比等の寺〟になぜ九州年号が?

奈良・大和に興福寺を訪ねた

 

◇九州年号で時代を表示

 

134-1  奈良時代から平安時代にかけて奈良・大和の宗教界と政治を支配していた奈良市登大路町の興福寺(写真=再建された中金堂)に、大和政権が制定した年号以前の、いわゆる「九州年号」が伝えられている。一部の古代史フアンの間ではわりとよく知られている話だ。

 しかもこの寺は、大和政権の中枢部に君臨していた藤原一族の氏寺という。藤原氏の栄華の基を造った藤原不比等は七世紀末、持統女帝に取り入り、有力な後継候補であった皇子を殺害、排除し、年若い天皇・文武を立て、さらに元明、元正という女帝を立てて陰で操った。彼女らは不比等の巧妙な脅し、なだめすかしにあって手もなく術中にはまったとみられる。

 さらに新政権の統治に役立てるために、政権がいかに由緒深く統治者として大義のあるものであるかを内外に示そうとして、九州倭(いぃ)政権などの存在を抹消したいかがわしい史書『日本書紀』を作らせた。わざと天皇側近の皇子らの名をあげ連ねて『日本書紀』を作ったとし、この「史書」があたかも国家的で真っ当な史書であるかの如く装って宣伝に努めた。

まずそれまで九州倭(いぃ)政権を構成していた熊曾於族や紀氏、額田部や阿部氏など有力氏族が各氏ごとに記録していた歴史資料『墓記』を没収し(1)、さらに九州倭政権の史書である『日本記(日本旧記)』などを持って山奥に逃げこんでいた人たちに対して「禁書を持って逃げていたら殺すぞ。出せ」と脅して奪った(2)。このブログで何回かお伝えした。不比等らしい周到なやり方だ。

こんな「藤原氏の氏寺」に「本当の歴史のゆるぎない証拠」とも言える九州年号の記録が残されていたことにまずびっくりする。藤原氏一族のなかにも、本当の歴史の一端は残しておくべきだとする良心に恥じない人々もいたのだろう。

 

◇『興福寺年代記』、時代の指標に九州年号使う

 

134-2  その記録を『興福寺年代記』という(写真=明治41年、東京帝国大学蔵版復刻分国会図書館デジタルサービスより。表紙部分)。坪井九馬三、日下寛両博士が、メモ書きのような書入れのある文書を整理し、字句の朱直しもして復刻版を作ったという。「皇統年代記」として天神、地神から書き起こし、江戸時代の慶長20年(1615年)までの天皇と年号、出来事を年次に従って記録している。

著者は分からないが、各年の書き込みは仏教関係の記述が多いから、おそらく寺の僧侶による記録であろう。それぞれの記録は詳しく見ていけば通説とは違う興味深い記述もありそうだが、ここでは奈良時代以前、全国を統治していた九州倭政権が発布していた「九州年号」にしぼって見てみよう。

 

◇「善記」から「大長」まで34年号で

この記録でも「九州年号」の創始者は、他の多くの記録と同様「継体天
134-3 皇である」とする(写真)。ただこの時期の出来事や天皇についての記録は、九州倭政権の史書は焼却、或は隠されていてなく、『古事記』も一部改作されていたらしいこともあって、もっぱら『日本書紀』の記述に頼っているようだ。神武天皇を第一代とし、「日本記に有り」、持統天皇のところに「神武天皇から継体天皇の善記元年まで、以上四十一代千三百五十六年、日本記に載す」とある。

この「1356年」という数字は現在の一年を春と秋に年が変わる「二倍年暦」(3)を用いた数字であろうから実質678年ということになろう。ただ、ここでは「善記元年」を「継体天皇の14年」としているが他の例では「16年」とする例が多い。

書中『日本記』と書いているのは『日本書紀』のことだろう。二か所にこの書名が出てくる。『日本記』というと、『書紀』の雄略紀や福岡県糸島市の雷山千如寺縁起に記す九州倭(いぃ)政権の歴史書『日本(旧)記』とみられる書名である。

しかし著者が『日本旧記』を手にしていないことは間違いないだろう。年次を九州年号で記録したのは残念ながら別の資料から得た知識であろうと思われる。

九州年号を創始した「継体天皇」は、筆者の調べで福岡県朝倉市の「三嶋の藍」周辺に都していた天皇「袁本杼(えんほんじょ)」であることがわかった(注4)。『書紀』は越前・三国にいた大和勢力の王「男大迹(おほど)」を継体天皇に仕立て上げるいかさまを演じている。

『年代記』の記事では「丹波国桑田郡に尋ね奉る」と、「武烈」で皇統が絶えた時最初に後継ぎとして白羽の矢が立った倭彦王と男大迹王を勘違いして書いている。もちろん誤りだ。元年は「□梁の武帝の天監六年(507年)に当たる」という。都の所在地も『日本書紀』の記述に沿って「大和国十市郡の磐余玉穂宮」「山城国綴喜郡」などをあげている。

注目されることは、継体の子で福岡県香春町勾金に都していた「安閑天
134-4 皇」はやはり、『書紀』の記載とは食い違う「治世二年」と書く。継体と太子らが共に崩じた(あるいは殺害された)「教倒
三年」の次の年から二年間は空位があったことをここでも示している。

次の宣化の時に「僧聴」、欽明の時には「明要」「貴楽」「法清」「兄弟」「蔵和」「師安」「知僧」「金光」の八回の改元を記す。改元がちょっと多すぎる。少なくとも九州内に二朝以上の「元号を制定できる権力」が並立していた可能性も考えなければならない。

「兄弟」は『隋書』に記録された「日出る処の天子・阿毎(天)の多利思比孤」の「太陽とその兄である自分」の「二頭政治」を元号として表したのかもしれない。

聖徳太子には深い関心を寄せていて「知僧二(566?)年正月一日誕生」、「端政四年、太子御元服十九歳」、「願転三年、太子制憲法十七ヶ条」、「光充三年四月三十、太子建法隆寺」「和京縄三年、聖徳太子滅」など多くの書入れをしている。

しかしこれらの年が西暦何年にあたるかは、他の例と違うことも多い。「厩戸皇子」ではない法隆寺釈迦三尊像に写された本当の「上宮法皇」の話しであれば興味深い。が、年次や書入れの内容から見てそうではないようだ。あくまで『書紀』の記述を参考にしたものとみられる。

607年にあたる「光充三年」に「法隆寺が建てられた」という記事は興味深い。焼失した「斑鳩寺=若草伽藍」の事を言っているのかもしれない。が、そうではないとすると、「九州・太宰府の観世音寺を移築して現
134-5 法隆寺とした」という説を裏付ける記述になろう。塔の心柱の年輪年代測定値が「
594年伐採」だったし、金堂内落書きの内容などから「観世音寺」がこのころ建設されたことはほぼ間違いないからだ。書入れの基になった何らかの記録があったのかもしれない。

「聖徳」の年号は舒明天皇のところに記されている。次に「僧要」があり次に「命長」がある。釈迦三尊像光背銘文あるに「病に倒れた上宮法皇」の寿命が延びることを祈った年号かもしれない。

天皇の即位年はすべて中国の帝王が制定した年号と年で表している。これは鹿児島県薩摩川内市入来町の「入来院家古文書」にある「日本帝皇年代記」(5)などと同じ手法をとっている。

701年に大和政権が初めて制定した年号「大宝」とどうつながるか、迷った様子が見られ、七世紀末の「大化」と「大長」の順番が逆になっていて、「朱鳥元年」のところに「大化ヵ」とか、「朱鳥七年」のところに「大長元(年)ヵ」と書き入れている。

これまで何回もお伝えしていることだが、『書紀』が「大化」を645年に制定したというのはもちろん大ウソである。九州年号の「大化」を50年遡らせて書き、「改新」があったと見せかけている。

『年代記』の著者は何らかの記録を参考にして書き写したが、それが大和政権ではない九州倭(いぃ)政権(注6)の年号であったとは認識していなかったようだ。

次回ではこの藤原氏の氏寺に、なぜ「九州年号」が伝わっていたかを探る。

 

1 『日本書紀』持統天皇五(691)年八月

 十八の氏、大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、阿曇に詔し、その祖等の墓記を上進せしむ

2 『続日本紀』元明天皇和銅元(708)年

山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ(「八逆の罪」の筆頭である「亡命」は死罪相当)

注3 『魏志』倭人伝・裴松之の注として「『魏略』に(いわ)く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収を(はか)りて年紀となす」とある。日本の多くの神社で行われる一年のけがれをはらう儀式・「大祓(おおはらえ)」の儀式も六月(夏越祭)と十二月の二回行われている。宮中でも「二倍年暦」廃止後も12月の大晦日(おおみそか)に行われる大祓(おおはらえ)の儀式を六月にも行うことが決められていた(「延喜(えんぎ)式」並びに「続日本紀・養老五年七月紀」など)。「二倍年暦」が実際に行われていた名残であろう。

4 当ブログNO.1314 「継体天皇」参照

5 入来院家に伝わる古文書。年代を九州年号で示している(当ブログNO.115 参照)

  注6  「倭」を「わ」と読むのは教科書で教えられている読み方であるが間違いである。『魏志』倭人伝は世紀末、中国北方の洛陽(らくよう)で作られた史書であるから北方の音、後漢の『説文解字』による「漢音」で読まなければならない。「倭」の読みは「ヰ(い)」しかない。「ワ(uwa:)」と読むのは中国南方や日本の「呉音」による読みであり、明らかな誤りである。「奴」の読みも同様に漢音の「駑馬(どば)」の「ド」であるという。「ナ」と読むのは「呉音」、そして現代中国語の読みであり間違いである。[倭]を日本側がなんと発音していたが分からないが、「井」氏を「いぃ」と発音することなどから、とりあえず「いぃ」としてみた