うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」


~ご挨拶~


「古代史はおもろいで」といっても「どこがおもろいんやね」という人もいるやろう。それは今専門家、特にその道の〝権威〟がしゃべり、教科書や本に書いてることのほとんどは事実と違う。ウソとまちがいのオンパレードと言ってよい状態なんだ。

 

それを「そうじゃない。こうや」と本当の、というか事実に近い古代史像を探っていく、それが「おもろいんだ。」


知り合いのある若い人が僕に「歴史なんて大嫌いや。うそばっかりやから」と言った。僕は感心したな。「こいつ、できるな」って。僕が若いころそんなこと思いもせんかった。特別興味をもってなかったこともあるけど、そこまではっきりと言えるなんてすごいよな。

 

とはいっても、古代の真相を探るためには文献だけでもいけない、考古学だけでもだめ、民俗学だけでもいけない、人類学だけでもだめ。さまざまでたくさんの、間違いのない「証拠」を集めて考えなければならん。大変なんだ。

 

日本の古代史というのはそのウソの度合いがはなはだしい。なぜかというと、日本の古代史を知る文献は「日本書紀」と「古事記」なんだが、両方とも「勝ち組」が勝手に作ったもんだ。客観性ゼロ。裁判に例えれば「自供」だけを頼りに判決を下しているのと同じや。冤罪が多発してるだろ?「事実」を捻じ曲げて書いてるんだ。特に「日本書紀」は。

 

韓国や中国の政府がよく日本の「歴史認識」についてガタガタいってくる。そういう韓国や中国だって特に近現代史においてはウソを言ってる。「おまえらにだけはそんなこと言われたくないぞ」と言いたいよな。

 

人間はサルと同じじゃない。飯を食っていくこと、それが一番大事なことでいっしょなんだけど、人間は経験の積み重ねを記憶し記録することで動物よりすごい生活を実現してきただろ? もっと古代史にも興味をもてよ。「ロマン」だけじゃなくってさ。

 

ということで、日本の古代史に関してこれからさまざまな「意見」や「証拠」をアトランダムに提示していく。よろしく。反論があればじゃんじゃん言ってこいや。


大阪・河内在住の〝先生〟より


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ブログNO.62

「中平」紀年銘鉄刀は誰が貰った? (その1)

卑弥呼か伊都国王家の人か


 奈良県天理市櫟本(いちのもと)町の丘陵上にある東大寺山古墳から発見された鉄刀(写真=ウィキペディアから)のひとつに「中平」という中国・後漢時代の年号(西暦184189年)が金象嵌されているのがわかったのは1962年のことだった。
62-1
 この「中平鉄刀」はこの
9月、国宝に指定された。この刀について今日まで様々な研究者がうんちくをかたむけてそのなぞに迫っている。つい最近では発掘にも参加した金関恕(ひろし)氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が考古学雑誌第992号(20173月)で、邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べている。

しかし、これが結論、といえるような見解は50年以上たった今でも未解決といってよい状態だと思われる。新しい見地に立って、鉄刀や東大寺山古墳、天理市の山辺の道沿いにある古墳についてそのなぞに迫ってみよう。

 銘文にはこう刻まれている。


 中平□(年) 五月丙午 造作文刀 百練清剣 上応星宿 (下僻不祥)

          (カッコ内は字画が失われて、はっきりとしていない推定)

  銘文の意味は、中平□年の吉日(五月丙午)に、文字を刻んだこの刀を作った。鉄の素材を徹底的に叩き締めて作った美しく清らかな剣である。上は世間の運気を司る天上の星宿に呼応し、下は地上の禍(魔が事)を遠ざける力がある。そんな刀である、だろう。


まずこの鉄刀は、後漢の霊帝が国家の意志として日本列島のだれかに与えたものであろうということは間違いなかろうとされてきた。この時代、中国でもこうした象嵌を施した刀は極めて少なく、記録が残っているものを含めても数本しか発見されていない。きわめて貴重なものなのだ。

 何の目的で、そして誰が誰に贈るために造られたかは銘文には出てこない。今はやりの?〝忖度(そんたく)〟をするしかない。しかし、柄の先端に環頭の飾りつけ、黄金色に輝く太刀は国家的な意志を表していると考えざるをえない。同盟国への友好の印(しるし)とか。

 贈り主は霊帝であろうというこれまでの一般的な理解に対して、金関氏は同雑誌の中で

「そうではなかろう。この時代、帯方郡を設けて朝鮮半島や倭を支配していたという公孫氏が造り、卑弥呼に贈った太刀ではないか」という見解も明らかにしている。

 このご意見についてはまず、後漢からの独立を表明していた公孫氏が、果たして敵対していた漢王朝が制定している年号を使うか、という疑問が持ち上がる。年号というのは国家の意志、制定した皇帝の権力の発動という側面が強いのだ。

 ちょっと後の話になるが、朝鮮の新羅が7世紀に独自の年号を使っているのを知った唐は、新羅に対して唐の年号を使うように強制した。唐を頼って国を保とうとしていた新羅は一時的ではあるが、屈服して独自年号の使用を停止した。

 日本でも同様な事態が起きているようだ。「九州倭(ヰ)政権」が中国との対等意識を示し、結果として唐と新羅の連合軍に敗れて敗戦国となった時のことだ。制定していた「九州年号」が使われず、唐の年号を使うように強制された時期があったようだ。

栃木県の那須国造碑の記載にその一端が伺われる。


永昌元(689)年己丑四月 飛鳥浄御原大宮より那須国造追大壹 那須直韋提評督 被賜

云々


「永昌」は唐の則天武后の時代の年号である。時の指標として「九州年号」があったにも関わらず中国の年号が使われている。当時日本列島は戦勝国・唐の占領下にあった。もちろん、あの「いかがわしい史書」である『日本書紀』はその事実をきちんと伝えていない。

「年号」というのはこのように極めて重いものだ。「九州倭(ヰ)政権」の息の根を止めた証(あかし)にしようとしたのだ。もちろん、その後も「九州倭政権」の年号は密かに?使われ続けている記録はあるのだが・・・。

もし公孫氏が「中平」という年号を使ったとすると、漢王朝からの脱却、独立、そして王朝の打倒を目指したという歴史事実に反する。ちょっと考えにくい。これが第一点。


第二点は、卑弥呼が女王として共立された時期はいつか、という問題。金関氏はこの鉄刀は後漢の霊帝から、卑弥呼が共立された「お祝い」「同盟の印」のために贈られたという従来の考えも捨ててはいないようだ。

氏は『梁書』や『北史』倭の条の記載をもとに、「西暦184年かあるいはその後数年の間になされたことであろう」とされる。そしてこの時代は黄巾の乱などで後漢王室は乱れ切り、多くの記録が失われた。卑弥呼が遣使した事実があったかもしれず、「記録が失われたのだろうか」という。

卑弥呼が共立されたのは「184年かその後数年の間」だから、184189年の「中平」年間とぴったり合うというわけだ。

しかし、卑弥呼が共立されたのは「184年かその後数年の間」ではなかろう。氏は『梁書』などの記録だけを取り上げて推察しているが、一方で朝鮮の『三国史記』新羅本紀には「173年に倭の女王・卑弥呼が使いを派遣してあいさつに訪れた」と明記されている。「共立」されたのはそれ以前である可能性が高い。

金関氏はこの記録に言及していない。そして当時漢王朝が列島の覇者と認めていたのは「倭奴(ヰド)国」であった。あの金印に「委奴国」、魏志倭人伝に「伊都国」と記された福岡県糸島市に都を置いていた国である。『(旧)唐書』に「倭(ヰ)は古の倭奴(ヰド)国である」と明記される。

『魏志』はここには卑弥呼時代にも「世々王がおり」、大王直属の軍団「大率(だいそつ)」や諸国を監視する「使大倭」など国の重要施設があったという。

「臣下が君子を侵す戦い」という意味のある「大乱」の結果、卑弥呼が女王に祭り上げられたと『後漢書』や『魏志』はいうが、名目上の盟主は依然として「伊都(倭奴)国」であった可能性が高い。

『魏志』の記載によれば、卑弥呼が魏からもらった金印には「邪馬壹国王」ではなく「親魏倭王」と刻されていたという。卑弥呼は後の「幕府」の長のような存在であった可能性がある。それも2代でつぶれ、そのあとまた「男王」が立ったという。使いを送ってきた卑弥呼を「倭国の女王」として扱い、列島と朝鮮半島南部を支配する「女王国」を魏の同盟国と位置付けたかったのではなかろうか。

鉄刀は複雑な国際情勢、伊都(倭奴)国内の情勢からみて、卑弥呼ではなく伊都(倭奴)国の王に贈られた可能性も考えなくてはならないだろう。長らく漢王朝に遣使し、好(よしみ)をつないできた列島の盟主「伊都国王」への贈り物だ。好をさらに強くして弱体化した漢王朝の味方につけようとしたのではなかろうか。反対勢力に加担した卑弥呼に贈られたとは考えにくい。

金関氏は寄稿文の最後で「鉄刀は漢の工房で造られたものではないと推定される」「公孫氏から卑弥呼に授けられ、以後代々倭国内で伝えられたのだろう」と述べているが、その根拠は薄いのではないかと感じる。(20179月)
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ブログNO.61

またまたNHKがやっちゃってます


間違いだらけの「日本人の姓」放送


NHKTVが「人名探求バラエティ」として放送している「日本人のおなまえ」を見た(912日0時10分から放映)。今回のテーマは「~部」という姓についてだった。小生も日本人の姓について若干ブログで書いたことがあり(NO.54)、狙いとしては良い番組だと思う。以前見た沖縄の姓についての放送はとても面白かった。だが、今回の「~部」については間違いも多く、何とかならんのかな、という思いを抱いた。

番組では奈良国立文化財研究所の研究員を招いてうんちくを傾けさせていた。同研究所の研究員はおおむね生真面目な人が多い。出てきた研究員もそうなのだろうが、この時はサービス精神過剰気味だったのかはわからない。が、明らかに疑義のあることについて断定的に話をしていたのが気になった。

「服部(はっとり)」「錦織部」「海部」「猪甘(いかい)部」「犬養(いぬかい)部」など「~部」というのは奈良、平安時代については職能集団の名称だった、ということはほぼ間違いないのだが、現代社会の会社になぞらえての説明は間違いが多い。

それはその「本社」が近畿地方にあると勘違いさせるような所作を繰り返していたのが一点。

「~部」はもちろん8世紀の奈良時代から始まったものではない。古墳時代、あるいは弥生時代からあった職能集団だ。古墳時代の「本社」は北部九州にあったことは、このブログを読んでいる人々にとってはもう自明のことだろう。

特に気になったのは「犬養部」の説明だ。「武器の職能集団で、宮城の入り口などを守る集団だ」という。これはちょっとひどい。確かに8世紀の平城京以降についてはまあ間違いなかろうが、元来は全然違う。明らかに文字通り「犬を養う」職能集団だった。「犬飼」とも書く。

『日本書紀』安閑紀に「国々に犬養部を設けさせた」と記される。ブログNO.60でも触れたが、熊曾於(熊襲・隼人)族出身で九州倭(ヰ)政権の天皇・安閑天皇(6世紀前半=ブログNO.1315参照)が、固く信じていたと考えられる「犬祖伝説」に基づいて全国に設置を指示した重要な施策であったろう。

先祖の一人である、とする犬の「盤古(ばんこ)」を祭り、野良犬を無くす重要な施設で、「犬養・犬飼」さんはその担当者である。であるから、今でも全国に「犬養」「犬飼」さんが大勢おられるのだ

『日本書紀』は事実を基にしているが、事実を曲げたりカットしたりして、あたかも古来日本の政権は「大和政権」しかなかった、という幻想を読者に描かそうとした「史書」である。「犬養」さんが宮廷の護衛任務を押し付けられたのは、大和の勢力が以前の支配者であった熊曾於族の殲滅に成功してからのことだ。

だが、節々(ふしぶし)に「これはウソですよ」と読者に疑問を抱かせるような「暗号」を散りばめている。

「犬養部」のこともあるいはその一つかもしれない。「安閑天皇」が『日本書紀』で蛮族扱いしている熊曾於族出身の人であることを暗に読者に知らせたかった、と。いかがわしい歴史を書くよう命じた藤原不比等に対する著述者らの知恵をしぼった「見えざる反抗」だ。

番組では「~部」という名称は必ずしも職能集団だけではないこともいっていたが、もっぱらその集団がいた場所が地名に変化したことだけ強調していた。これも間違いだ。

では「久米部(くめべ)」「日下部(くさかべ)」とか「大戸の部」や「海部」はどうなのか。これらの「部」は明らかにいずれも「~族」という意味だ

「久米部」は『古事記』によれば「目の周りに入れ墨をしていた」「その始祖はニニギらと一緒に薩摩、あるいは日向に天下り(上陸)した」などと記され、明らかに南方からの渡来者だ。一説に東南アジア一帯に勢力を広げていた「クメール族」の一部であろう、とされる。

「日下部」は日向・西都市の都萬(つま)神社に始祖伝説がある。「大戸の部」は大隅半島の鹿児島県肝付町などに何カ所かある戸柱神社を奉祭した一族であろう。

「海部」は『記紀』に記す「天(あま)族」だ。この族も東南アジアや中国南部の沿海部から渡来した一族だ。

これらの「部族」は族の中に製鉄、製陶、造船、酒造など様々な最新技術と知識を持った人々を抱えて渡来してきており、決してひとつの専業職能集団ではなかったろうことは疑えない。

国立文化財研究所やNHKは一日も早く、「歴史と言えば大和朝廷からだ」などといういかがわしく奇妙な考え方から脱却してほしいものだ。この考え方は真実の古代史の探求を負託した市民を裏切る行為であるからだ。(20179月)
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ブログNO.60

 

熊本の「山都(やまと)町」を訪ねた

 

 列島最古級・古代史の〝事実〟裏付ける神社も


 

 もう数年前のことだが、熊本県の南東端に「山門(やまと)」という町があるのを市販の地図で見つけた。宮崎県の五ヶ瀬町や椎葉村に接する奥深い山間部だ。「何なのかな」と疑問に思い、いつかお尋ねしよう思っていた。日を過ごしているうち、「山門」が別の地図では「山都」になっていた。そして隣接の砥用町境に「内の大臣」という奥深い山間地にしては妙な地名と橋があることもわかり、一層興味をひかれた。

 

 そこで思い切って現地を訪ねることにした。8月下旬のことだ。だが、現地の事情に詳しい知人は「アホなことするな。地震や最近の局地豪雨で道路はズタズタだ。町に入ることもできんだろう」という。


60-1 確かに熊本市方面から町に入るのは難しそうだ。そこで鹿児島方面から入ることにした。案外簡単に入れて、まず「内の大臣」橋に行こうと思ったが「通行止め」の標識。断念せざるを得なかった。

 

 途中、スポーツカーに乗った「おじさん」と出会ったが、やはり「『内の大臣橋』や有名な通潤橋(つうじゅんきょう)などを見たいと思って来たけど、道が崩れていたりして、どうにもならん」という。

 

 町の図書館に行けば何とか事情がわかるだろうと思い、そこを訪ねた。「内の大臣」などについて調べたい」と申し出ると、係の女性が実に親切にいろんな資料を探して持ってきてくれた。感謝感激だ。そこでわかったことは・・・。

 

 「山都町」で「山門」と表示したことはない。平成17年に「清和村」と「矢部町」が合併して新たに設けられた町名である。藩政時代の村名も調べてみたが旧村名や小字などにも「山門」はまったく見つからなかった。以前見た地図の表記は間違いだったのだ。

 

 おそらく、「山に囲まれた文化の高い町」という気概を込めた町名にしたのだろうと思った。通潤橋は江戸時代の高度な技術を結晶させた有名な水利施設であるし、九州では珍しい「文楽」や隣接している高千穂の影響を受けた「神楽」が町のあちこちで舞われている。

 

 「内の大臣」は、当地に深く根付いている平家の落人伝説の一つとして語られている。平(たいらの)重盛が隠れ住んだとか、平家の?那須左近尉(なすのさこんのじょう)重光という武将が家来16人を連れて落ちてきて村が始まった、という。

 

 実を言うと小生は、「内の大臣」は「うちのおとど」と読んで、源平時代より400年ほど前の昔、熊曾於(熊襲・隼人)族の「内族」らが焼畑を生業として住んでいて、熊曾於族の英雄「武内宿祢(たけし・うちのすくね)」にちなんだ地名ではないかと疑っていた。焼畑が盛んに行われていた地域には「内畑」など「内」を冠した地名が多いからである。

 

 付近の地名を見てみると「津留」とか「鶴ケ田」、「鶴底」、「畑」、「犬飼」、「金内」などの旧村名があったり、小字に「金地(かなじ)」があったりする。

 

 「津留」や「鶴」は元来「水流(つる)」で、川底に溜まっている砂鉄の採取とか、後のタタラ製鉄で崖の砂から鉄を洗い出す仕事に従事していた人々を指すようだ。鉄は阿蘇や霧島、桜島などの火山の噴火によってもたらされたものだ。熊本にも多い「河童(かっぱ)伝説」もこうした人々を表す言葉ではなかったか、と思われる。

 

「金(かね)」は古代、「黄金=きん」のことではなく鉄や銅、錫など幅広い鉱物を称していた。「金(かね)内」などはそれを推測させる地名であり、ここでも熊曾於族の力の源泉である鉄の生産が盛んに行われていたことを示唆している。

 

 「畑」は文字通り「火の田んぼ」、すなわち水田ではなく「焼畑」を表す漢字である。

 

 「犬飼」は「犬祖伝説」をもっていた熊曾於族の継体天皇や息子の安閑天皇(当ブログNO.1315参照)が、国々に犬を飼う施設を設けさせたということ(『日本書紀』安閑紀)に関係する地名かもしれない。

 

犬祖伝説」はこのブログで何回も触れているように、族の祖先は姫と結婚した犬・盤古(ばんこ)であるという信仰だ。東アジアの非漢民族である少数民族の多くが同様の信仰をもっている。犬はイノシシ狩りなどには欠くことができない動物であり、身体能力は人間よりもはるかに高く、かつ忠実度抜群の愛すべき家族同様の動物であった。だから、このような伝承が生まれたという。

 

 山間地ではあるが熊本県だから熊曾於族と関係した地名などが残されているのは当たり前と言えば当たり前だ。


60-2  ところで帰りがけ、とんでもない神社に出くわした。矢部地区にある男成(おとこなり)神社(写真)である。県道から細い山道を500メートルほど入った所にある。堂々とした構えは都会ではなかなか見ることができない風格と威容を誇っている。

 

真っ赤に塗られた拝殿の屋根も縄文、とか弥生の頃の古い習俗(塗赤)をよく残している。

 

 拝殿前に置かれていた由緒書きには要旨こうあった。

 

 


60-3 宇城(うき)三郡の惣鎮(守)の宮。祭神は皇祖神。天照(あまてらす)大神、神武天皇、神八井耳命(かむ やい みみのみこと)。

 

神武天皇76年(紀元前640年)、(神武の長男)神八井耳命は、息子の建磐龍命(たけ いわたつの みこと)がこの地に下向した際、三神を祭り、宗廟の社(やしろ)とされた。今から2594年前、建磐龍命は阿蘇津姫と結婚され、新婚の住まいとされたのがこの地である。

 

姫はお産され、以後子孫は繁栄して今も阿蘇家として続いている。34代舒明天皇12年、さらに阿蘇12柱を勧請して広く崇敬を受けています。

 

後堀川天皇の貞応元(1222)年、岩尾城主阿蘇惟次がご先祖・建磐龍の命が当宮で元服されたことにならって、長子の惟義の加冠の儀、元服の式をここであげた。以来阿蘇家の元服の式は必ず当社で行うことになり、男成神社と称した。云々

 

 

 

 「神武天皇」は当ブログNO.31でお知らせしたように二人いる。一人は紀元前後北部九州に実在していた大王。もう一人は紀氏勢力の卑弥呼らに追われて逃避し、吉備にいた兄とともに近畿・大和へ侵攻して天皇になったという伊都国王家の人だ。

 

 最後の勝ち組である大和政権が勝手に作ったいかがわしい史書・『日本書紀』は、北部九州に実在して「神武天皇」と諡(贈り名)された大王の贈り名をパクり、大和に逃げて勢力を張った「サの命」がそうだと書く。

 

さらに北部九州に実在した本当の「神武天皇」の存在を消し去っていると考えられる。北部九州に残る「神武天皇」のさまざまな伝承がそのことを示唆している。

 

この社にも祀られている天皇の長子・神八井耳命は北部九州の多くの神社に祀られている。そしてその墓は、隣接の阿蘇郡高森町にある墳墓がそれだ、と伝えられている。この命を祭る草部吉見(くさかべよしみ)神社近くの円墳?である。標識も立っている。

 

『日本書紀』が言うように大和で天皇になった人の息子の墓が阿蘇にあるなんて考えられないことだ。北部九州の人々が伝える伝承は、『日本書紀』の記述を頑強に否定している。

 

 ただ「神武天皇76年」が紀元前640年であるというこの神社の記述は間違いであろうと思われる。これは『日本書紀』の記述から導かれる「皇歴」によって書かれている。が、古代には「二倍年暦」、すなわち現在の一年を二年と数える風習などさまざまな日にちの数え方があったことが分かっている。

 

 北部九州に実在していた「神武天皇」や「神八井耳命」らがいつ頃の人であるかはよくわからない。が、鹿児島県の『入来院家(いりきいんけ)文書』の記述などから推察すれば、紀元0年前後にはいた大王ではないかと思われる。

 

いずれにせよこの神社の創建は、はるか昔、弥生時代後期ごろであり、二千年以上の歴史を持つだろう。全国的に見ても最古級の貴重な神社であることは間違いない。

 

 真実の古代史を探求するだけでなく、あらゆることでもそうなのだが実際に現場を踏まなくてはわかることは少ない、と再認識させられた旅だった。(20179月)

 
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