うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログ 「ご挨拶」


 このブログも140回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

 消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

 〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。古代史像から導かれる国のアイデンティティはとても重要です。嘘八百の古代史は市民を直撃して地獄に落とすでしょう。

 第二次世界大戦の経緯をみれば明らかでしょう。教育界は今とさして変わらぬ「嘘の古代史」を平然と市民に教え込み、軍の首脳は銃をちらつかせて政治を乗っ取り、東京の「大本営」でマスコミに嘘情報を垂れ流し、マスコミは嘘情報に尾ひれをつけて紙面を飾りました。

 何十万人もの市民が焼夷弾で焼かれ、苦しみのあまり断末魔の叫びをあげながら川に飛び込み、原爆でも目玉まで飛び出さされ、全身焼けただれた姿で苦しみながら焼き尽くされた町をさ迷いました。南方の森の中では支援もなく空爆にさらされて逃げまどい、カエルや蛇を食い尽くし、死んだ仲間の肉まで食べて挙句の果て死にました。

 国史学者らは軍部にへつらい、財閥だけは世間を謳歌しました。若者たちは「国の為、天皇陛下のために死ね」と言われて将来の夢や人生を捨て、爆弾を抱えて死地に赴きました。「国の為」などは全くの嘘で、実は戦争を起こした軍部・参謀たちの命と面子を守るためでした。

敗戦が決まるとマスコミと教育界は「一億国民総ざんげ」などと言って戦争の責任を市民に転嫁しました。まったくとんでもない事です。

 彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47

九州年号とは6135698134135

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5122139

九州にいた古代の天皇 
神武(131141142他)景行11684他)継体1314138139)、安閑1556)、神功皇后697579)、成務80)、天のタリシヒコ(1617)、斉明(120123)天智959899101102
前方後円墳は「大和政権の墓」ではない。

紀(姫・木・基・記・貴)氏が造り始め、やがて九州倭政権の墳形に7978127

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395138139

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

「倭」を「わ」と読むのは間違いだ11144

・古代史年表(14312

・偽られた聖徳太子像(161966102104137

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」こと九州古代史研究会主宰 内倉武久

ブログ171

「古都大宰府」と「プーチン」の大ウソ

 市民はいつまでだまされ続けるのか


171-1  いよいよプーチンによるウクライナ侵略が収束を迎えそうな気配が漂ってきた。5月3日の夜、ロシア政府は「ウクライナのドローン2機が大統領府を狙って飛来してきた。が、当方の電子防御システムが働いて、2機とも討ち落とした。大統領の命を狙ったものとみられる。大統領は府内におらず、無事だった」と発表した。

 しかし、公表された「ドローン2機が大統領府のアーチ屋根で討ち落とされた瞬間」という写真は実に奇妙だった。火柱が上がり、アーチ屋根は炎に包まれ、飛び散った火が屋根を伝って落ちている。(写真=いずれも読売テレビから
171-2  だが炎が収まると、アーチ屋根もアーチ屋根のてっぺんに掲げられていた国旗も、何事もなかったように傷ひとつなく、はためいている。

 打ち落としたというドローンの残骸の映像もない。

 見ていた多くの人は変だなと思ったはずだ。

 プーチンはこれまで、びっくりするほど様々なウソ情報を用意し、さらに次々と作らせて国内や国際社会に流してきた。ウクライナ侵略を正当化し、侵略戦争を有利にしようとする試みとみられる。

 だが最近、国内では列車が爆破されて転覆する事故が相次ぎ、不法占拠しているクリミア半島の石油備蓄基地などで火災発生、丸焼けになったりしている。

 プーチンは事前に、政府の政策に異を唱える人々を牢屋に放り込んだり、毒殺したりした。最近その刑罰を懲役刑から終身刑に格上げするなどの大統領令を出したという。

 国内の戦死者は1万人を超えているとの報告もあり、国内の厭戦気分は押さえ
171-3 きれなくなりつつありそうだ。プーチンの焦り具合も相当なところまで達しているとみられる。

 大統領府が〝攻撃される〟映像を見た人の多くは、ロシア政府による「えせ製作映像」ではないかと疑ったはずだ。プーチンや北朝鮮が得意とする「フェイク映像」だ。ただ、急いで作ったのだろう、余りにも出来がよくない。小生のごとき素人が見ても、すぐに「変だ」と気づくほどだ。

多くのマスコミ報道も米戦略研究所などの見解でもある「プーチンの自作自演説」を打ち出していた。もちろん、ゼレンスキー・ウクライナ大統領は攻撃を否定している。そのうち「フェイク画像説」も出て来るだろう。

 いずれにせよ今月半ばから、ウクライナは西欧諸国の援助や兵器の提供を受けて反転攻勢に突入するとみられている。これまで侵略の最前線を担っていたロシアの「雇い兵集団」ワグネルも、ロシア政府を見限る姿勢をあらわにしているようだ。本気なのかどうかはわからないが、彼らは「金の切れ目が縁の切れ目」だから、別の稼ぎ場を求めてウクライナを去ることもあろう。

 そんなこんなで、プーチンはウクライナ侵略に膨大な国費と、さらに新たな国軍を派遣しなければならない羽目に陥りそうだ。当然、反対の声は盛り上がろう。何とか国内を戦いに向かわせようとして一計をたくらんだ。そのために作ったえせ報道「大統領府攻撃」だろう。

 どこまで「プーチンのうそ」が通用するだろうか。そして、いくら政治に関心が低いロシア国民だといっても、直接自分や身内に命の危険が迫ればこのままおさまりが着くとは考えにくい。

 ともかくこの世にウソ情報を垂れ流して利得を得ようとする輩(やから)はあとを絶たない。しかし、ウソは一時的には通用するが、いずれはばれて「ウソつき」は一生を棒に振り、姿を消すことになる。

 

 ウソ情報は日本でも横行している。小生が今のうちに何とかしたいと思っている「日本の古代史の世界」にも「大ウソ」がまかり通っている。国のアイデンティ、市民の未来に大きな災厄をもとらす恐れのある「大ウソ」だ。

 「日本列島には有史以来、大和の政権しかなかった」、「別な政権の存在を意味する九州年号などなかった」、「日本人と言うのは単一民族であり、中国大陸から多くの渡来人が来たなんてうそだ」、「九州、特に南九州には蛮族だけが住んでいた。渡来人による政権などなかった」、「日本書紀は国家が作った史書であり、正しく、間違いのない歴史を綴っている」などなど。

 こうした「大ウソ」が市民にばれないように、国史学者や考古学者の多くが「談合」を繰り返し、ウソがばれそうな遺物、遺跡は徹底的に隠し、頬かむりを通そうとしている。

もちろんこれらの「大ウソ」で狙われるのは市民の命である。市民の口を封じ、政府のやり方に異を唱える者、戦争反対論者を「国家に対する反逆だ」と偽って逮捕し、拷問して殺す。300万人以上という恐ろしい数の市民が命を奪われた。   あの第二次世界大戦(太平洋戦争)の教訓を忘れてはいけない。長い時間をかけて、じわじわと国民を締め上げ、国史学界は「大ウソの古代史」で市民をだまし、戦端を開いた軍部の精神的支柱、後ろ盾になっていたのだ

 

 この間、資料集めのために大阪のある資料館を尋ねた。偶然、置かれていたパンフレットのなかに「大宰府アカデミー 令和編」というのが目についた。「財団法人古都大宰府保存協会」なる団体の主催で、福岡県太宰府市でこの4月から講演会を開いているらしい。令和7年3月まで24講座を設けるという。
171-4  この協会は、ほったらかしで遺跡自体が破壊されようとしていた太宰府の都城遺跡を守るために、市民の会として1974年に発足した団体である。68年から始まった発掘調査によって都城の本当の姿が明らかになりつつあったことにも触発されてできた。

 現在太宰府の都城遺跡は、放射性炭素(14Ⅽ)年代測定によって築城は卑弥呼時代の240年ごろから始まり、5世紀の「倭の五王」時代に大規模な改築がおこなわれ、660年ごろ、対唐、新羅大戦争を前に修復工事が行われていたことがはっきりしている。

 さらに古田武彦ら「市民の古代」グループなどによって、「九州年号の実在」が明らかにされた。さらに奈良・大和には懸命で膨大な発掘作業にもかかわらず、7世紀中ごろ以前では、首都と考えられる規模の大きい都城遺跡は発見できていない。

首都を守る山城など防御施設は大和には全くなく、逆に太宰府や豊前には山城や水城など大規模で堅固な防御施設が数多く造られていることなども分かってきた。

 太宰府は首都にふさわしい都城であることが分かってきたのだ。

 だが国史学界や福岡県教委はこうした「新たに判明した事実」に目をつぶり、あるいは頬かむりをして、『日本書紀』で作られた「事実ではない古代史」、言い換えれば「権力を正当化しようとしたいかがわしい古代史」を市民に植え付け続けようとしている。

 例を「九州年号」にとっても、旧来の国史学界の主張は常識外れだ。「九州年号は鎌倉時代に僧侶のだれかがでっちあげた私年号だ」と言いつのり、この年号が広く実際に使われていたことが平安時代の『続日本紀』にも記されていることなどにもひたすら頬かむりを続けようとしている。

 東アジアの古代国家は中国をはじめとして、年号を制定する権限を政権の最も重要な政策としてきた。「九州年号の存在=九州倭(いぃ)政権の存在」なのである。

 

 国史学界や福岡県教委の役目は、市民に事実を伝えることである。市民は税金をを払い、その仕事を両者に負託している。両者には誠実に事実を市民に伝える、そんな気持ちもなければ良心もないのだろうか。

 大体点のない「大」を使う「大宰府」という名称は、九州大学の某元教授らが使うように指示していたものだ。元教授は、「大和政権一元論」といういかがわしい古代史をかたくなに標榜している京都大学考古学教室から派遣され、福岡県を含む九州各県の「発掘調査指導委員」を長年勤めていた。九州歴史資料館の館長も務めた。

 元教授は講演後の酒席で「定説に反しそうな遺跡にはコンクリートで蓋をしてやった」ととんでもない〝業績〟をうっかりもらし、聞いた人たちをあきれさせた人である。その影響も大きい。

 

 「大宰府アカデミー」の企画には、福岡県教委や太宰府市、九州歴史資料館、西日本新聞、NHK福岡放送局、朝日新聞などマスコミ各社などが企画後援団体として名を連ねている。市民を騙し続けようとする面々なのだろうか。

 講師の面々をみると、これまで「大宰府都城」について様々な事実を明らかにしてきた面々ではある。小生もいろいろ勉強させてもらった。しかし、「最近明らかになったとんでもない事実」について話をしようという人がいるのかどうか。市民にウソを伝えない「事実に頬かむりしない話」が求められる。

 福岡県教委の文化財担当部局は、市民の税金を使いながら負託を裏切る「詐欺集団になりはてている」という一部の批判をどう改善していくのか。「大ウソ」は必ず、プーチン同様、ついた人間にも災厄をもたらすだろう。(20235月)

ブログNO.170

ブログNO.74」の増補改訂]

 

大己貴は大鉱山持ちだった

九州全域を支配、天族につぶされる

 

『記紀』に「島根県の出雲」地域で国を造り、統治していたと描かれる大己貴(おおなむち=別名大国主・八千矛の神・葦原のシコ男など)や彼の子息という建御名方(たけみなかた=建南方)、事代主(ことしろぬし)、そして国づくりを助けたという少彦名(すくなひこな)を祭る神社が九州、特に福岡、鹿児島両県に集中していることがわかった(ブログNO.73169 1など参照)。

ところが、「建御名方」は大己貴が国を譲るようニニギ勢力に強要された時、同意を得なければならない子供の一人として『古事記』に登場する。しかしなぜか『日本書紀』ではその存在が消されている。まったく登場しない。

これは、大己貴が支配した国は「山陰の出雲」にあったと思わせるように偽装したのに、「建御名方」は出雲の人ではなく南九州の人であるらしい。南九州の現地で数多く祀られている人であるからうっかり記載したら、ウソが簡単にばれてしまう。都合が悪いとみて『日本書紀』はその名を歴史からカットしたのであろう。まったくとんでもない〝史書〟である。

「建御名方」を祀る神社は「南方(みなかた)神社」とか「諏訪神社」と呼ばれている。ということは今、「諏訪」といえば信州・長野県のことだとみんな考えているが、「諏訪」という地名そのものが元来、九州南部に数多くあったと考えなければならない。
『古事記』などでは「建御名方」は、「ニニギ勢力の建雷(タケイカズチ)に負けて、出雲から
170-1 信州・諏訪に逃亡し、諏訪大社に祭られた」としている。信州にはこの「国譲り事件」よりだいぶ後のことらしいが、北部九州志賀島を本拠地としていた安曇族も逃亡、進出しているようだ。県北に安曇(あずみ)郡がある。「安曇族の逃亡」は「倭国の大乱」の結果のひとつかもしれない。また九州王朝の天皇との縁が深く、「命長」など九州年号を記した「縁起」をもつ善光寺もある(1)。信州の「諏訪」も九州から進出した人々らが故郷の地名を付けた可能性が高いという新しい見地も生まれる。

 

大己貴は出雲ではなく九州で国を造っていた。このことを〝発見〟したのは神社研究に生涯を捧げた故百嶋(ももしま)由一郎氏である、という。

 

百嶋さんは、大己貴の生家は福岡県春日市にあったという。今、福岡市南区の隣接地、春日市伯玄社2丁目の春日市商工会の敷地内に祠(ほこら)があり、そこに「祭神は大己である」と刻まれている(上写真)

百嶋氏は、「大己」は「大己」の幼名だとしている。大己貴はここで生まれ育ち、九州全域を支配していたと考えられたらしい。鹿児島に「大己貴」を祭る神社が多い事については、壮年時代を鹿児島周辺で過ごした、と解釈する。

そして晩年、いわゆる「倭(ヰ)国の大乱」を引き起こした責任を取らされて出雲に追放され、国譲りの代償として出雲大社に籠らされた、と考えておられたようだ。

 

一般的に言って百嶋説の泣き所は多くの場合、説の根拠となる神社の縁起を明らかにしていないことである。それは8世紀に編纂された『日本書紀』や『古事記』の記述と合わない「本当の話」が神社に残されている場合、神社側がその説話を公にしたくないという思いがある。それが明らかにしない原因でもあるらしい。

 百嶋氏も神社側の要請によって結論だけは公表してもその話の根拠は秘密にせざるを得ないという事情もあったらしい。

しかし今、『日本書紀』は藤原不比等一統によって作られた「勝てば官軍」のウソの多い〝歴史書〟であることがはっきりしてきた。『古事記』も『日本書紀』に合わせて作り変えられた部分があることもわかってきた。

国史学者や考古学者のなかには「ウソでも何でもいい。自分がおいしい飯にありつけさえすればよい」とばかり、ろくすっぽ必要な研究もせず権力におもねり、九州のある国立大学の元教授などは、「発掘して定説と違う遺跡・遺物には、コンクリートでふたをしてやった」と平然としゃべった人もいる。

国家の主人公は権力者ではない。市民、国民である。神社にも遠慮することなく、本当の説話を話してほしいものだ。

 

百嶋説は事実を反映した話なのだろうか。

まず「大己貴」は幼名を本当に「大己彦」と言っていたのだろうか。普通「幼名」は後の名前とは全く別の名前であることが普通だ。しかし「貴」と「彦」以外共通しているところがちょっと気になる。

だが、彼の別名のひとつという「八千矛神(やちほこのかみ)」からすればさして違和感はない。「銅矛」は春日市を含む弥生時代の北部九州で盛んに作られ、国家や部族のシンボルであったことに異論はなかろう。

「大己彦」の名を刻んだ祠は弥生時代中心の「伯玄社遺跡」の中にある。この遺跡を含む春日市北部の須玖遺跡群からは銅矛や銅剣、銅戈を制作した鋳型の数々も大量に発掘されている。

「幼名」であろうとなかろうと大己貴(=大穴持ち)がこのあたりにひとつの根拠地を置いていた可能性は否定できないだろう。「彦(日子)」は、「貴(むち)」と後年グレードアップした名で呼ばれるようになる以前の通称かもしれない。

 

「九州古代史の会」の恵内慧瑞子さん(福岡市在住)も、福岡県の宗像や福津市周辺の神社の伝承などを調べていて、「記紀に言う出雲は山陰ではなく、九州にあった出雲をいう」と気がついた。同会会誌NO.15020103月発行)に「宗像と出雲の神」と題して論文を書き、指摘している。氏は百嶋説とは関係なく、ほぼ一年をかけてしらみつぶしに実地調査し、文献を調べて回り、気がついたという。
160-6 大己貴はまた、国を広げるのに「矛」を使ったという(『日本書紀』)。鹿児島県大隅半島の志布志市の土橋遺跡からは、立派な「広矛」が出土している(左図=保育社『日本の古代遺跡-鹿児島』から)。農家がサツマイモの貯蔵庫を掘っていたところ、地下90センチのところから逆さに立てた状態で見つかったという。おそらく「大(おお)国」のモニュメント的遺構の一部であろう。

発見当時、東京国立博物館が大急ぎで買い取りにきて、隠して?しまった。志布志市埋蔵文化財センターに今、復元品が飾られている。立派なものだ。

 

 小生が思うに、「大己貴」の国を奪った、すなわち「国譲り」させたのはニニギ一統(天族)の「伊都国」であって、その時期は「倭国の大乱」よりはるか以前の出来事であろう。

大己貴ら「大国」勢力は南九州から北部九州に進出して、いったんは地歩を固めたが、鉄を使って勢力を伸ばした後続の天族が、「大国」をつぶして九州での天下を取ったのではなかろうか。

南九州に「建御名方」「事代主」「少彦名」という「大己貴一家」が数多く祀られていることから考えれば、「大己貴」の出身地とか渡来地は南九州と考えた方がよいように思う。いかがであろうか。

「大己彦(貴)」を祀る春日市大字伯玄社2丁目一帯は「伯玄社遺跡」として著名である。発掘調査報告書(注4)によれば、ここは縄文時代の遺構はごく少なく、弥生時代中期になって急速に膨張する傾向が認められるという。墓の主体はカメ棺で、計123基が確認されている。。

ここでは製銅の時代の「大穴持」すなわち大己貴時代の遺構、遺物と、後の「伊都(倭奴)国」すなわちニニギら天(海人)族時代の遺跡、遺物が重層しているとみられる。

飯塚市の「立岩遺跡」はかめ棺墓集中地域であり、前漢鏡も多く出土する。実はカメ棺群や支石墓も薩摩半島の南端、金峰町の高橋貝塚(下小路遺跡)、白寿遺跡、阿多貝塚などからも発見されている

「大穴持」勢力から国を奪ったニニギらが、渡来してきて最初に足跡を残したのは鹿児島県南さつま市笠沙、金峰町一帯である。ここの「高天原」で長年、忍従生活をし、力を養い、やがて「大穴持」勢力に「国譲り」を迫ったのではなかろうか。この地にそびえる鉄の山「金峰山」の古文書「金峰山縁起」には「高天原」が記されている。

九州の考古学界はこのカメ棺群についてC14など理化学的な年代測定をいっさいせず、単に「須玖式」だから北部九州の影響をうけて作られた弥生時代中、後期のものだと判断している。

きっちりした年代測定をしてみなければ、事実がどうなのかはわからないが、鹿児島のカメ棺は北部九州のものよりはるかに古い可能性がある。カメ棺は紀元前4000年ごろから中国全土で広く使われていた墓制であり、もちろんその故郷は朝鮮半島ではなく、中国大陸である(5)。

九州の考古学界は「C14年代測定など信用できない」とか「測定をする金がない」など意味不明の奇妙な理由を言いつのって、弥生時代以降の遺跡では極力年代測定をしないようにしているようだ。自らが用いている土器による年代判定が「思い込み」に基づくいい加減なものであることがばれてしまうのを恐れているのであろう。「頬っかむり行為」「市民だまし」のひとつである。

「大穴持」、すなわち「大己貴」一統が火山による鉱物資源に恵まれた南九州に渡来し、そこを足場に北部九州に進出した。「国」を造り始めたのは弥生時代前、中期、放射性炭素(C14)の実年代で言えば紀元前7世紀とか6世紀、青銅器時代であった中国の春秋時代に少し遅れる時代の話ではないかという考えが浮かぶ。

 

ところで、百嶋氏は「大己貴は国を乱したいわゆる〝倭国の大乱〟の責任をとらされ、引退を余儀なくされた」という。だが、この説には大いに疑問がある。

「倭(ヰ)国の大乱」は『後漢書』倭伝などに記録されたAD147188年の約40年間に起きた大騒乱だ。「大乱」は漢語で「臣下が支配者を犯す戦い」という意味である。直接的には「卑弥呼ら紀氏勢力は、伊都(倭奴)国の傘下に組み入れられていたが、『宗主国・ニニギらの伊都(倭奴)国』をつぶすことに成功した戦い」であろう。

熊本県菊池市の「山門(やまと)」を渡来地として発展していた紀氏(姫氏、木氏、基氏、記氏)の卑弥呼勢力(当ブログNO.8191参照)と、それまで福岡県の糸島や田川・飯塚を中心に九州全域で最大の力を持っていたニニギら天族「伊都(倭奴)国」との戦いのことを指している。決して「大己貴(大国)」対「ニニギ(天族)」の戦いではない。

「大乱」の舞台の中心ははもちろん北部九州だ。戦いの結果として卑弥呼は魏の国から「倭国(ヰ国=邪馬壹〈イ〉国)」の女王と認められた。魏から授けられた金印の印面は「親魏倭王」である、と魏志倭人伝は伝える。

「伊都(倭奴)国」王家の「狭野命(神倭磐余彦)」は、兄の「五瀬(伊勢)命」らとともに関西・大和に侵入し、新しく国を造った、と『記紀』は記す。糸島みたいな風物に恵まれたすばらしい所にいて、命を狙われるほどのことがなければ首都を出ていく理由はなかろう。
『記紀』「は「新しく支配できる土地」を目指した、と格好よく描くが、本当は「追われて逃げまどい、一族の助けを借りて関西に活路を求めた」というのが事実だろう。

 

であるから、「大己貴勢力」、すなわち「大国(おおくに)」がニニギら「天
170-7 族」に国譲りを迫られたのは「大乱」よりはるか以前、紀元前
3世紀末ごろ?の南九州での話だろうと察しがつく。

要するに「大穴持」らが活躍していたのは青銅器時代である。中国では殷末の紀元前1100年ごろから東周、春秋時代の終わる紀元前450年ごろである。「大穴持」らが日本でその技術を知り、あるいは携えてきて使いこなすようになったのは、中国より遅れて紀元前500年前後の事ではないかと考えられる。

一方、ニニギらが渡来してきたのは「大穴持」一統より遅れて戦国時代(紀元前5~3世紀)ごろであろう。中国ではすでに鉄器時代に入っていた。

あの孔子が「この国では礼儀が失われた。筏にのって礼儀の残っている東海を目指したいものだ」と嘆いたと言う乱世だ。ニニギらもそこで敗北して命からがら海上に逃れ、新天地を目指したのではないか。

しかし、鉄器の知識と技術は間違いなく持っていただろう。彼らが漂着したという鹿児島県薩摩半島。南端の「笠沙」(現南さつま市笠沙)の高橋貝塚では、当時中国で盛んに使われていたカメ棺とともに日本最古級とされる鉄器(斧?)が発見されている(上写真は金峰町、高橋貝塚出土のカメ棺)、(下写真は笠沙の北方にある白寿遺跡や阿多貝塚出土のもの=鹿児島県立黎明館『弥生紀行』から)。

 

『記紀』に記す「大隅半島(日向)の高千穂のクシフル峰に天下った」というのは、国譲りの結果、「建南方」勢力を追い出し、「大穴持=大己貴」らが根拠地の一部としていた大隅半島に進出し、やっと「国」として出発できたことをこう表現したのではないかと思われる。

渡来地と進出先が前後、ごっちゃにされていると考えれば、『記紀』の話も何とか合理的に解釈できる。

 

ニニギの一統「天族」はさらに、大隅半島・日向から福岡県田川(高羽)・飯塚(倭(いぃ)塚)地域に進出したと見られる。ここには位登(伊都)、糸田(伊都田)、猪国(倭・伊国)、伊田(倭田)、伊加里(倭ケ里)など伊都(倭奴)国と関係すると考えられる地名がずらりと並んでいる。「春日」、「奈良」、「大坂」、「京都」も現存する。

重要なのは飯塚市の立岩遺跡だ。ニニギ一統の墓とみられる数多くのカメ棺に前漢鏡、鉄製品がおさめられている。

「大乱」の戦いで九州を追われたのは「大穴持=大己貴」ではなく、伊都国王家の狭野命(サのみこと)らであろう。(「野」は接続詞と考えられる)。この人は、8世紀初頭に列島の支配権を得た大和政権が『日本書紀』で「神武天皇」と偽称した人だ。

「本当の神武天皇」は、大和ととははるか離れた九州にいたと考えられる。九州各地にはびっくりするほど多くの「神武天皇」説話が残されている。そして彼は「紀元前190年に即位した」という記録もある(当ブログNO.31参照)。「サの命」より三百年以上前に生きていた人だ。

さらに卑弥呼らは「大乱」以前は「伊都(倭奴)国」に従属していた国であったが、彼らは「狗奴(こうど)国」、すなわち熊曾於(熊襲・隼人)族の国と同盟したり敵対したりで離合集散を繰り返していたらしい(注2)。熊曾於族もニニギらと同様、中国大陸からの難民、というか渡来人である。「熊(光り輝く)ソウ族」と自称していて、馬の利用、鉄生産、武器製作など渡来元の中国での最新テクノロジーをしっかり身に着けて南九州に漂着した人々だ。

中国で使っていた地下式横穴墓(偏室墓)や横穴墓(崖墓)をそのまま持ち込み使っている。中国の少数民族や東アジアの諸民族と同様、生活に役立ち、愛すべき性質にあふれた狗(犬)を民族のトーテムとしていた。(注3)。

では、「山陰の出雲」で発見されている大量の青銅器、矛や剣(写真=島根県荒神谷遺跡)、銅鐸をどう解釈すればよいのか。今、大己貴らがここにいた証拠と考えられている。読者も当然疑問を抱くだろう。


170-5
だが、これらの青銅器の出土状態を詳しく見れば疑問は薄らぐだろう。矛は鋳上がったままの状態で、柄を刺す空洞部分には、鋳造時に使われた中子がそのまま残っているものもあった。

剣には九州の銅剣にも見られる×印を施したものもある。銅鐸も山陰のものの特徴とされる「邪視紋」でないものがほとんどだ。

要するにこれら青銅製品は「山陰の出雲」で生産され、使われたものでなく、端的に言えば「九州から運ばれ、廃棄されたもの」であることを物語っていよう敗者がいつまでも自らのシンボルを誇らしげにさらすことは許されないことであったろう。大己貴らの行跡と一致していると考えても良いのではないか。

ただ、銅鐸の出土地域は、九州から東海にまで広がっている。大己貴らの支配がどこまで及んでいたかについては、これから見直しが必要だろう。

 

1
古田史学会編『九州年号の研究』(2012年)参照

2
拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年)参照

3
拙著『熊襲は列島を席巻していた』(2013年)参照

4
春日市教育委員会編『伯玄社遺跡』(2003年)

注5

福岡からアジアへ2―かめ棺の源流をさぐる』(西日本新聞社刊)参照                         

                  (20182月、`234月増補改訂)

ブログNO.169

 「山陰の出雲」で国づくりをし、出雲大社に祭られているという通説をもつ「大己貴=八千矛の神」は、「大黒さん」としても一般によく親しまれている。が、実は彼ら一統は九州にいた。この話を当ブログNO.7374で読者に届けた。その後、この話に進展もあったので、「増補改訂」したものを二回に分けて読者に届けるとにした。本筋は代わっていないが、読者の理解が深まれば幸いだ。

 

大己貴(オオナムチ)一家の本籍地は九州?

「国譲り」は九州内の政権交代だ

 

 『記紀』や『出雲風土記』に「山陰の出雲の国」の英雄であり、建国したもののニニギの勢力にその座を追われたと記される大己貴(オオナムチ=大国の主)は、実は九州にいた男で、本来現在の島根県出雲地方とは関係のない人であった。そして彼を祭る出雲大社はもともと九州東部の豊前にあったが、後に島根の出雲に移された。それは大己貴を鎮魂するためにだけ造られた神社である、という。この説が今、神社や古代史研究関係者の間で常識になりつつあるようだ。


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  島根県出雲市にある出雲大社(写真=本殿)は一般にもよく知られ、親しまれている大社で、もともと九州にあったなどと、にわかには信じられないような話である。が、古代史を研究するうえで神社の伝承や分布は極めて重要なファクターだ。神社の伝承はいわば「生きた古墳」とも呼べるものであるし、分布や勧請関係などをこまかく調べれば、祭られる神がどこで活躍していた人物かも浮かんでくるからだ。

神社関係者の話では、「出雲大社」が現在のように、「大己貴」を祭りはじめたのはなんと明治以降であるという。それ以前は大己貴の父親だというスサノオノミコトを祭っていて、「杵築(きちく)大社」と呼ばれていたという。「杵築」は豊前、豊後に頻出する地名だ。

 

 もちろん、神社の伝承は時代の権力者の言い分に合わせて、変節を余儀なくされている部分も多い。注意深く分析しなければならないし、主祭神が入れ替わっていることもしばしばある。

 はなっからちょっと横道にそれるが、その大きな存在でありながら入れ替えが行われている好例をあげるとすれば、全国に数多く分布する「天満神社」がその好例だろう。

この神社のほとんどが、平安時代の貴族である菅原道真を祭っている、とされている。菅原道真とは縁もゆかりもなく、奈良や太宰府からとんでもなく離れた場所にあり、中央政府内の権力争いなどに無関係な全国各地の「天満宮」も「菅原道真」を祭っていることにされている。

しかし元来この神社は、その分布の状況などから見て、日本で世界の中心にいるとされた神で、7世紀以前、全国を統治していた九州倭(いぃ)政権(当ブログNO.47など参照)の守り神でもあった「天御中主(あめのみなかぬし)」ら天神を祭る神社であったことは間違いなかろう。

祭神の入れ替えを命じたのは、『日本書紀』で九州倭(いぃ)政権、卑弥呼政権隠しをたくらんだ藤原不比等らであることは容易に想像がつく。道真は確かに藤原氏らによって平安京を追われた男だったろう。が、実は九州は、道真や出身母体である土師氏にとっては故郷であった。

福岡県久留米市の高良山裏手には父親の是善を祭る是善王神社がある。土師氏もそもそもは豊前の福岡県飯塚市桂川(けいせん)町に本拠地があった。大規模な弥生、古墳時代の「土師遺跡」が発見されている。

祭神の入れ替え、神社の統廃合はさらに、天皇を神と祭り上げて列島の支配に役立てようとした明治政府によって強化された。

 京都の「北野天満宮」は確かに「道真」の怨霊を鎮めようとして造られた神社だろう。しかし「太宰府天満宮」は「道真」と縁の深い神社だが、その前史があり、元来は九州倭(いぃ)政権直属の神社であり、先ほど述べた「天御中主」ら天神を祭っていたことは疑いない。同神社はこのことと関係あるかどうかは定かではないが、今でも毎年「ウソ替え神事」を行っている。

「道真」は殺されたわけでもなく、左遷されて地元に帰って来ただけのことなのだ。

道真を排斥した藤原氏が、度重なる災害を道真の怨霊のせいだと宣伝したのと、何とかして九州倭(いい)政権の残滓(ざんし)を消し去ろうとした政府にとって都合の良い「祭神の入れ替え」であったろう。

 

話を出雲に戻そう。

『古事記』によるとスサノオ(素戔嗚)の命(みこと)と言えば、「山陰の出雲」で八ツ頭の大蛇に娘の櫛稲田(くしなだ)姫を奪われそうになったアシナヅチ、テナヅチ夫婦を救い、大蛇を退治したと伝える人だ。だが、彼の息子・八島士奴美(やしまじぬみ)の命は南九州・薩摩半島南端にいたらしい大山津見の娘・木花知流姫(このはなの散る姫)と結婚したという。姉妹の「木花咲くや姫」は上陸したニニギと結婚したという人だ。この時代、九州の最南端の人と山陰の人が結婚するということはちょっと考えにくい。

それに神社本殿は確かに西向き、すなわち九州の方を向いている。『古事記』に記す「出雲」が現在の「山陰の出雲」を指しているのか、誰もが疑問をもつのではないか。

 

古代史学界は、いかがわしい『日本書紀』の記述をもとに市民に大ウソを教え続け、教科書的知識しか持っていないマスコミは尾ひれをつけて歴史事実ではないことを記事にしたり放送し続けている。市民はすっかりだまされてきた。

 

小生もその一人だったのだが、今思えば、いくつかの神社に当たっていた小生も「大己貴は出雲の国とは全く関係ない」という神社研究者らの認識に、「確かにそうだろう」と思
16-2 い当たるふしが多い。

福岡県朝倉市に「継体天皇」がいた(当ブログNO.1315138 139参照)という「傍証」の一つに同市の杷岐(はき)神社の言い伝え「縁起」を紹介した。

「杷木神籠石(こうごいし)」城の築造に関係した話の中で、「継体」勢力側が「ここには大己貴神もおられるので、磐井との戦いに勝利するようこの神にお願いしよう」と言ったと伝えられている。

確かに隣接の三輪町(現筑前町三輪大字弥永)には大社「大己貴(おおなむち)神社」(上写真)がある。奈良・桜井市にある「大三輪神社」の元祖ともいうべき神社だ。桜井市は地名や九州製石棺の出土などから、九州勢力の関西における拠点のひとつとみられる地域だ

そこで「大己貴」やその別称「大国(の)主」を祭る神社が九州にどれだけあるかを探ってみた。

その結果は驚くべきものであった。まず鹿児島県霧島市(旧国分市広瀬)に「大穴持(おおあなもち)神社」があった。

大己貴、八千矛の神、大国主、葦原の醜男(しこお=強い男)などいくつもの名を持つこの人の最初の通称は「大穴持ち」だったという。『古事記』もそう書いている。「大穴持ち」から「あ」がなくなって「大己貴(オオナムチ)」になったという。
169-3 「大穴」は銅や鉄、そのほかの鉱物を掘り出すための「穴」、すなわち「間歩(まぶ)」のことをいう。金属関係者の隠語である。「八千矛の神」という名前からも想像はつくと思う。日本における弥生時代の「矛」はほとんどが銅製だ。すなわち「オオ(ア)ナムチ」は大きな銅鉱山を持つ人であり、彼が大王(主=ぬし)であった「大(おお)国」は銅の採掘、銅の武器や農具の製作利権を国家の柱にしていたことがわかる。

 

さらに同県吹上町(現日置市)には「大汝牟遅(おおなむち)神社」(写真)もある。いずれも地域を代表する堂々たる大社である。さらに指宿市山川に「利永神社」、姶良町鍋倉に「米山神社」、同町上名に「黒島神社」。このほか多くの神社に「大穴持=大己貴」が祭られていることが分かった。

そこで鹿児島県内の神社で「大己貴」や「大国主」を祭っている神社を拾い出してみた。小生のカウントで実に41社にのぼる。さらに「大己貴」の長男という「建御名方(たけみなかた=建南方)」はこれまた実に97社に及ぶ(注1)。そして次男の「事代主」も44社もあった。県内だけで合計は182社もある。(鹿児島県神社庁の記録による)

多くの神社で「大国主の国づくりに協力した」という「少彦名(すくなひこな)」も大己貴と一緒に祭られている。

宮崎県では宮崎市・都農(つの)神社が有名。日向の国の「一の宮」だ。大分県には佐伯市に粟島神社、臼杵市の臼杵神社、宇佐市の二葉山神社など。熊本県には八代市の「大名持神社」、玉名市の小天少彦名命神社など。福岡県には三輪町のほか桂川町の老松神社、福岡市博多区の十日恵比須神社、朝倉市林田の美奈宣(みなぎ)神社など。無名社を入れると数えきれないほどある。

今は田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三女神を祭るとされる宗像大社も、元来は大己貴らをまつる神社であったらしい。万葉集にそのことを唄った歌が残っている。

このように「大己貴」一家の痕跡は九州全域に及ぶが、さらに鹿児島県、特に大隅半島(旧日向地域)や薩摩半島に濃厚に分布している様相がうかがえた。

福岡県田川地区に近い飯塚(倭の塚)市桂川町(けいせんちょう=旧嘉穂郡桂川町)にはずばり大字「出雲」もある。

 

では国史学者や多くの古代史家が「大己貴」が国づくりをした現場という島根県に大己貴(大国主)や息子たちを祭る神社は多いのか。これほどの人であればそれこそ無数にあってもおかしくない。だが事実は国史学者らの認識とは大違いで極めて少ない。

出雲大社を別にすれば、松江市の阿羅波比(あらはひ)神社や玉作湯神社、雲南市(旧加茂町)の神原神社など52社を数えた。しかし「建御名方」はわずか9社、「事代主」「事代主」を祭るのは美保関の美保神社と江津市二宮神主の多嶋神社など17社しか数えなかった(日本神社、寺院検索サイトから)。総数は78社である。

 確かに「大己貴(大国主)」を祭る神社は島根県の出雲にも多いが、そのほとんどは大社がある出雲地区に集中していて、石見地区にはほとんどないといってよい。「大国」のイメージとはかけ離れている。

しかも先述したように、現在の出雲大社が「大己貴」らを祭るようになったのは明治以降のことという。江戸時代までは「杵築大社」と言って、大己貴の父親というスサノオを祭っていた。本殿は西向きに造られていて、九州・豊前との関係が想起させられる。

隣接の鳥取県はどうかというと「大己貴」を祭るのはわずか2社だけ。「建御名方」「事代主」は計11社のみだった。

 

この結果から見ると、九州ではほぼ全域で「大己貴(大国主)」を地域の守り神として祭っている。中心は福岡県と鹿児島県の薩摩半島、さらに旧日向国の大隅半島に広がっている。片や『記紀』や国史学者らが「常識」みたいに宣伝している「山陰の出雲国」では、集中しているのはきわめて狭小な「出雲」地区だけ。「大国主一統の支配領域」はきわめて小さく、「国譲り」などと特記するほどでもない「小国」だ。

「国譲り」させたというのに、ニニギたちはなぜ「山陰の出雲」にいないのか。

『記紀』はここでもやはり、実際にあった場所を違わせて記述し、いかがわしい「九州倭(いぃ)政権隠し」の大ウソをついている可能性が高い。出雲・美保が関の「美保神社」では、ニニギら天族の伊都(倭奴)国勢力に「国譲り」を強要された事代主が、海に入って自殺するシーンを演じる「青柴垣神事」が今も演じられている。事代主らがここにいたことを印象づける神事だ。

ところが、神社などの話ではこの神事は、中世末に京都から来た太田政清という人がつくり、儀式化させたものだという。元来ここにあった話ではないようなのだ。

 

では「大己貴」や「事代主」は九州のどこにいて国を治めていたのか。次回はこのことについてもう少し詳しく探求してみよう。

 

注1 鹿児島では「建南方(建御名方)」を祭る神社はほとんど小字地名「諏訪(す  

   わ)」にある。「諏訪神社」に「建南方」を祭る例も多い。薩摩半島に例をと

   り、の主な諏訪地名を拾ってみると次のように多く存在した。

薩摩半島最南端西側の金峰(きんぽう)町には「諏訪下」「外 諏訪原」、「諏訪堀」、その北吹上町には「諏訪原」「諏訪ノ下」、「諏訪原」。さらに北側の郡山町に「諏訪原」、東市来町に諏訪原」「諏訪田」、加世田町には「諏訪元」「諏訪ケ迫」「諏訪ケ迫平」、「諏訪ケ尾」「西諏訪ケ尾」。

半島中心部の頴娃(えい)町には「元諏訪」「西諏訪」「諏訪東」「諏訪ケ尾」「諏訪前(大字郡)、「中諏訪」「下諏訪」「北諏訪」「上諏訪」「上諏訪原」、「旧諏訪後」「旧諏訪上」「諏訪上」ときわめて多い。その北川辺(かわなべ)町にも「諏訪園」「諏訪原」「諏訪」「諏訪ノ下」「諏訪尾」、「諏訪平」「諏訪免」、「諏訪田」「諏訪」。知覧町にも「諏訪ノ原」、「諏訪山」「諏訪平」「諏訪前」「諏訪牟田」「諏訪田平」など。指宿市に「諏訪園」「諏訪原」(大字西方)、「諏訪」「諏訪下」、「諏訪平」など計46か所。

   『角川日本地名大辞典』明治15年全国小字調べによる)

                    (20181,`234月改定増補)