うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

~ご挨拶~

このブログも100回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47) ・九州年号とは6135698

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5

九州にいた古代の天皇 神武(31継体(1314)、安閑(1556)、

神功皇后(697579)、成務(80)、天のタリシヒコ(1617)、      天智(959899101102

前方後円墳は「大和政権の墓」ではない 熊曾於族と紀氏が築造7978

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

・「倭」を「わ」と読むのは間違いだ(11

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」、こと九州古代史研究会主宰 内倉武久


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ブログNO.110

好評の新元号「令和」

西暦使うには邪魔な存在だが・・・

 


平成天皇の退位によって20195月から新年号「令和」が施行されることが決まった。41日の発表でマスコミ各社は号外や特集で紙面を飾った。小生は、「平成」年号の発表の時は何となく違和感を感じたものだ。「平」は親しみやすさを感じる字だが、なんとなく品格を感じなかったからだ。

110-1 しかし、今回は何かしらすっきりした印象があってまずまずの元号だなあと思った。テレビの取材に応じた瀬戸内寂聴さんは「ら、り、る、れ、ろなどラ行の音はすっきりした印象を与える」と話していた。小生はわからないが、あるいはそうなのかもしれない。

何より万葉集の歌詞から採ったという発表には「すばらしい」と思ったものだ。しかし、マスコミ各社が引っ張りだこで談話を掲載していた「年号研究家」という所(ところ)功は「日本書紀から採られればよかった」などととんでもない所感を述べていた。

このブログを読んでいただいている読者はもう十分知っていることだが、『日本書紀』はウソ満載の、というか、事実を捻じ曲げ、事実を隠して記述した客観性ゼロの「史書」だ。こんないかがわしい「史書」から元号が採られたことを諸外国が知ったら、きっと「日本という国はウソ好きで、うそで固めた国なんだろう」と思われるに違いない。

その後「中華思想」丸出しの中国はやっきになって古典を調べあげ、また、政府の発表が本当なのか疑問を持った日本の中国文学研究者らは、6世紀の『文選』という中国古代の漢詩集などに「仲春月 時に気清し」などという表現があることを見つけ、「やはり中国文化の流れの中にある」とうれしそうに発表した。

だからと言って政府の「万葉集の詩句から採った」という言い方は間違いではなかろう。そういう感じ方が中国人にもあり、表現としては8世紀にまとめられたと考えられている『万葉集』より古かった疑いが濃いということだろう。

とはいえ小生もそうだが、歴史事実を考えたり述べたりする時ときはほとんどまず西暦を使う。人の年齢を数えるときもそうだ。西暦を使わないと世界全体との関連が分かりにくいし、年齢も数えにくい。

伝統は伝統として残してもいいが、普段の生活にはあまり意識しないようにしたい。

 

それはそうとして、一番気になったのはこの元号発表時のマスコミの対応である。相変わらず、ウソ丸出しの記事を作り、放送して市民をだまし続けている。

まずNHKだ。コメンテーターとして例の所功と東京大学史料編纂所の本郷和人を選んで話をさせていた。

所は名古屋大学文学部の出身で、皇學館大學の助手から教授になり、1981年から京都産業大学の教授、名誉教授であるという。この間、文部省の教科書調査官や公益財団法人・モラロジー研究所の研究センター研究主幹、靖国神社崇敬者代表などを務めているという(注1)。著書に「年号の歴史」(雄山閣)などがあり、年号や皇室の研究者であるということになっている。

以前「年号」についての著書なども読んでみたが、先輩の年号研究家・久保常晴の研究内容を丸ごと写しとり、新しい独自の研究は全くないひどい代物であった。雄山閣ともあろう一流の研究書出版社がなぜこんなものを出版したのか怪訝(けげん)に思ったものだ。

もちろん、『日本書紀』以外の数十冊の史書に記載されている「九州年号」についても、新しく調査をすることもなく、久保の研究を賛美し、証拠もなく「鎌倉時代に想像された私年号」説を繰り返しているだけであった。

彼にとって『日本書紀』だけが歴史事実を綴った「正史」であり、『日本書紀』の記述に反する記述をした他の「史書群」はすべて「偽書」なのだ。しかし戦後の考古学の進展などによってこの考えは全く逆であることが判明してきている。文部省の教科書調査官もやっていたというから、教科書がウソだらけの歴史を教えることになっても仕方がないことだ。

『日本書紀』は自らの歴史を日本の歴史であるとして描いた客観性ゼロの「史書」だから当然だ。その内容を事実としてとらえるためには厳しい検証と物証が必要なのだ。中国の正史などもひとつの権力が滅びた後、客観的な視線でそのことを著述している。

何回も言っているように客観性のない「自白」を事実としてとらえて罪を裁くことがいかに危険な事か。罪のない人に「殺人者」の汚名を着せ、その一生を監獄で送らせるという恐ろしい「冤罪」が多発している。

所の主張はこの「検証」などまったくせず、「物証」もないでたらめな主張であることは、当ブログを読んでおられる方々はすでによくご存じだろう。

事実として認められるのは、大筋で次のような事だ。

522年、福岡県朝倉に都した「継体天皇」は我が国で初めての年号「善記」を建元し、引き続き「正和」「教倒」を建てた。その後継体を引き継いだ九州政権の天皇が「僧要」「師安」・・・「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大化」など約30個の年号を営々と建て続けた。最後の年号は「大長」という。

この年号群は「九州年号」と呼ばれている年号群である。701年、「大和政権」が「九州倭政権」から列島の支配権を奪い「大宝」という年号を建てた。

所らの主張を採用してほとんどのマスコミは「日本の年号の開始は『大化』からであり、年号としては248番目である」などと書いている。もちろん大ウソででたらめだ。その背後に市民をだまし続ける恐ろしい歴史隠しがあることも知らないのだろう。あるいは知っていながら無視しているのかもしれない。恐ろしい事だ。

もう一人のコメンテーター、東京大学史料編纂所教授という本郷についてはどうなのか。この男もウソを平然とのたまうとんでもない「教授」である。

当ブログNO.104「NHKアーカイブス」をお読みいただきたい。視聴者は中国の文献など絶対に読まないだろうと高をくくり、事実でないことを事実であるかのようにしゃべりまくっている。

この時の本郷については「教授H」と名前を明らかにすることは遠慮したが、これほどいかさまをしゃべり、反省もない男は許せるものではなかろう。今回は実名にした。

ウソをついて人をだまし、報酬を得るものを世間では「詐欺師」と呼ぶ。所にしろ本郷にしろ、事実を知りたいという市民の負託を裏切り、ウソの歴史を市民に伝えて報酬を得ている。とんでもない「詐欺師たちである」と言えないか。広く市民全てを対象にしている点、高齢者だけをねらう「おれおれ詐欺師」たちより罪は重い。

所をコメンテーターとして採用しているのは放送だけではない。朝日、読売、など大手新聞もそうであった。産経はなぜか所を採用していない。日本のいかがわしい古代史の問題をあるいは知っているのかもしれない。地方紙はこの手の全国ニュースは共同通信や時事通信などの配信をほぼそのまま掲載するから、各新聞社によほどしっかりした知識と見識をもった記者がいない限り掲載しないということにはならない。

「読売」や「朝日」にはこれまでに何回か注意を喚起しているが、全く変わることがない。相変わらずの「いかさま報道」を続けている。

読売には去年、大阪本社の編集局にデータを送ったが、東京には伝わっていないのだろう。ただ「読売」は以前、近畿各地の前方後円墳などに九州製の石棺が多数納められていることに関してかなり詳細な報道をし、「前方後円墳=大和政権の墳墓」説に一定の疑問も報道したことがある。

「朝日」はこの部面でもまったくだめである。「大学教授」など肩書のある人間の言は本当であろうとウソであろうと、事実として報道する。社内でも往々民間の真っ当な意見を記事にしようとしても、「教授」が反対すればボツにする。でたらめでいい加減な説を強弁しようとする「知識人」や「教授」にとっては強い味方だ。

以前、縄文時代の石器をはるか以前の旧石器時代の物だと偽って、多くの遺跡に埋めていた事件があった。通報を受けた「毎日」は慎重な調査をして事実を暴露した。「朝日」は「毎日」以前に通報を受けていたのにほっかむりを続けた。通報した人が有名な「教授」ではなかったためだと言われている。

「朝日」は一時800万部を超える部数と名声を獲得していた。現在でも500万部を超える部数を持っているという。しかし、慰安婦や徴用工問題などに関する報道ぶりと言い、まともな新聞とは思えない。傲慢と無知ぶりが目立つ。以前、記者として30数年務めたことが恥ずかしくて人に言えない状態だ。小生が知る「朝日人」は限られた人々だがまともな人間が多いのに、どうしたことだろうか。

1 「ウィキペディア」の記述から    (2019年4月)


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ブログNO.109

「九州古代史の会」を惜しむ

「雑物」に乗っ取られ衰微進む


 故古田武彦氏が切り開いた列島の古代史解明に、一定の役割を果たしてきた「九州古代史の会」が約40年の歴史を終え、終りを迎えつつあるようだ。古田氏の業績を引き継ぎ、それを発展させようとする会員は少なくなり、会誌の内容も年一日のごとくすでに分かりきっていることを繰り返したり、他人の業績を盗んで、自分が発見したかの如く発表するなどその研究、普及機関としての衰退ぶりは目を覆いたくなる。

 会が発足したのははっきりしないが1978年ごろだと思う。古田氏が著書『「邪馬台国」はなかった』や『失われた九州王朝』を発表。古代史学界に大旋風を巻き起こした。これに触発されて古田氏の研究に賛同し、支援しようとする人々が「古田武彦を囲む会」を結成。すぐに全国組織「市民の古代」が結成された。

 「市民の古代」の会の九州在住者があらたにつくったのが「九州古代史の会」だ。会員には灰塚照明、荒金卓也、兼川晋ら隠された九州各地の伝承や新資料の発掘を通して新たな見解を披露する論客がたくさんいた。

もちろんすべての論客が間違いのないことを主張していたわけではないが、なにせ生き生きと議論し楽しんでいた。議論はやがて押しも押されぬ古代の真実を浮き彫りにしていった。

このうち灰塚、荒金氏は鬼籍に入り、兼川氏も脳梗塞で倒れている。

 小生は当初から彼らと接触し、情報を得て記事を書き、古代史の真実をひとつでも市民に知ってもらえば幸い、と九州政権説の周知に努めた。新聞記者という職業柄、ひとつの組織に入り込むことはできないので、組織の外から会員と親しくし、多くの貴重なデータを学んだ。

 会が転機を迎えたのは1996年ごろだ。古田氏と会の幹部らとが機関誌の編集や考え方の違いをめぐって対立。互いに不信感が高まり、抜き差しならない状態に陥った。そして会は古田氏抜きでともかく「倭国を徹底して研究する-九州古代史の会」とし再出発した。

 小生は2003年に新聞社を退職し、記者というしばりもなくなり、関西に住み始めたので同じ「市民の古代の会」を引き継いだ関西の「古田史学の会」の会員になった。すでに小生はこの時、古田氏の論をさらに進めた『太宰府は日本の首都だった』(ミネルバ書房)などを発表していた。

 ところが「古田史学の会」もだんだん古田氏が命をかけて切り開いた説をさらに裏付けたり、発展させる努力もできず、古田氏の業績を賛美するだけの会になってきた。

 小生は中国の史書に記された日本の国名「倭」について、『説文解字』の記述などについて検討を重ねた結果、「わ」でなく「ヰ」としか読めない漢字であることを知り、このことを会で発表したことがある。

 ところが会の会長の座を狙っていたらしいある会員は「古田先生はそんこと言っていない」などと猛烈に噛みついてきた。会誌で何度かやりとりをしたが、本質的な議論は全くせず、ほとんどでたらめな足引っ張りといっていいような文言を並べたてて、何回も狂犬の如く「先生の言う通り≪わ≫と読むべきだ」と繰り返す。

 こんな話にもならないバカを相手にするのは時間の無駄だ、と会を辞めた。この「狂犬男」?は首尾よく会長の座に収まったが、同じように狂犬ぶりを発揮し、そのツケは会員に跳ね返って会は今、会員も激減しガタガタの状態という。

 「九州古代史の会」の会長をしていた兼川氏が脳梗塞で倒れた。2009年ごろのことだ。氏は「会も終わりにしたい」という。それでは古田氏の新しい業績を発展させる九州の拠点が亡くなる。惜しいと思い、仲間と語らって会を存続させることにした。小生も新発足の一員として会の顧問を務めさせていただくことになった。

 去年のことだが、ここに例の関西の会の「狂犬ども」が乗り込んできた。彼らは晩年の古田先生と同様、九州に足場を持たず困っていた。そこで言葉巧みに「九州の会」の役員に近づき、「関西の会」との合同話しを持ち込んだ。

「九州の会」の役員らは「会は研究機関としてレベルが低い」という会員の声もあり、会員の不満に直面していたためか、すぐに話に乗った。「古田会」の役員らのレベルと「九州の会」の役員らの研究レベルはよくあい、俗世の名誉欲も同じだったらしい。

会報には「古田会」役員らの間違いだらけや根拠の薄い論が堂々と掲載されるようになってきた。特に最近では、すでに世界の考古学界の常識になった遺跡の年代を放射性炭素(C14)によって測定するという方法に対して、『日本書紀』による年代判定を基礎にした旧来の方法を採用して遺跡の年代を想定しようというバカげた主張を繰り広げている。

 遺跡の年代を偽り、列島の古代史をごまかしてきた、あるいは勘違いしてきた「守旧派」の主張をよしとしようという主張だ。「九州古代史の会」はさらに進んで、疑いを持った会員の反論を掲載しないという「暴挙」にまで進んだ。

いかがわしい旧来の論に組みする論を展開しようとするこんな会の、「顧問」を務めているということが恥ずかしくなって、すぐに退会することにした。

 亡くなった古田先生が会の現状をみてどう見ているか気になる。先生は生きておられる時から、会員と意見が合わないとみると「あなた方勝手にやりなさい。私は私ひとりでやる」と言っていた。だから自分の研究が発展しようと発展しまいとあるいは平気かもしれない。

 単独で研究を進めるというのは多くの愚論に左右さないといういい面をもち、すごくいい事である。だが一方で他人の業績に無頓着になると、自分の間違いに気づかない、あるいは重要なことがすっぽり抜け落ちてしまうという弱点もある。小生は先生ほど強くはないが、世間体はあまり気にならない。今後も自分ができる範囲で多くの方の業績に学びながら研究を進めていくつもりだ。(2019年3月)


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ブログNO.108

グロと「長門城」について

研究者惑わせた「いかさま史書」の記述


 日本≪倭(いぃ)国(注1)≫は中国や朝鮮の攻撃から自国の領土を守るために古代、西日本に多くの山城を築いた。合計30ヶ所近くあったらしい。下図は現在認知されている山城とその位置図である。
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図(インターネット:bing/comから)でも分かるように、『日本書紀』の記述をもとにした通説では、日本の首都は古来大和にあったはずだから、山城など防御施設も大和周辺になくてはならない。まず首都を守るのが必要にして不可欠だ。しかし実際は、山城は九州倭(いぃ)政権の首都(2)のひとつであった太宰府を取り巻いていて、さらに国内の強敵、大和に対しても警戒を怠っていないようだ。岡山、広島、愛媛、香川など瀬戸内海への守りも厳重にしている様子がうかがえる。

この図にはいろいろ問題もある。例えば▽9の「長門国の城」は下関にあったが如く描いている。が、もちろん全くの推定であって、それらしいものは何も発見されていない。▽2の奈良・高安城は倉庫跡らしい礎石が若干残っているだけで、山城に不可欠な土塁、石塁などは発見されていない。はたして山城と呼べるようなものであったかどうか疑問もある。

▽6の茨城(いばら城)、▽7の常(つね)城は『日本書紀』の次に編纂された『続日本紀』に、廃城の記録だけが残っている。「大体この辺ではないかというだけではっきりした城の形跡は発見されていない。茨城は広島県ではなく、今は岡山県になっている井原市にあったのではないかとする説に魅力を感じる。
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108-3 岡山県総社市で発見されている「鬼ノ城」(上写真=復元された西門)は、隣の岡山市にある「大廻小廻山城」と同様、規模雄大である。広さは30ヘクタールもある。東西南北に設けられた城門は良く残っていて、一部は復元されている。興味深いのは東側の城門(左写真)は、立派に作られているが、内部から岩が迫り出して入り口は利用できない。入り口の外側はいきなり50メートルほどの崖になっている。要は入り口は西側からで、大和に向かった東側からは入れないようになっている。

讃岐・坂出市にある「城山(きやま)城」は現在、城全体がゴルフ場になっているが、鵜山同様あちこちに長い石塁が残り、やぶの中には入り口の扉を支えた石の礎石などが散乱していた。

太宰府の北側にある「大野城」は天智天皇四(665)年、「椽(てん)城」や「長門城」と同様、百済の築城技術者を招いて造らせた城であると『日本書紀』は述べている。これまでに城門や倉庫跡、焼かれた米などが発見されている。「百間石垣」(下写真)と呼ばれる石塁が残って
108-4 いるが、残り具合はグロの方が優っている。
「大野城」と「椽(てん)城」は億礼福留と四比福夫の二人が築き、「長門城」は答〓(火偏に本)春初という人が築いたという。「椽(てん)城」がこれまでに発見されている山城のどれに当たるかはわからない。

太宰府の南、「基肄(きい)城」も規模雄大な山城だ。谷を塞いで造られた水門は高さ10メートル以上はあり、御所ケ谷神籠石城の水門と双璧の堅固さだ。もちろん山の中腹をぐる りと取り巻く土塁や建物の礎石(左写真)なども良く残っている。「基肄(きい)城」は麓に設置され
108-5水城とあわせて有明海側からの攻撃に備えたものである。水城は
5世紀中ごろまでには完成していたから、この城も水城とほぼ同じ時期に築かれた可能性が高い。造ったのは紀氏の勢力であろう。

山口県光市の「石城(いわき)山城は典型的な神籠石系山城として著名だ。石城山の頂上部分をぐるりと石塁と土塁で囲んでいる。水門の遺構や土塁の土留用切り石なども良く残っている。

兵庫県たつの市の「播磨城ノ城」は中世の赤松氏の山城が同じところに築かれたため、はっきりしないが、「石城山城」と同じような門遺構の一部である「唐居敷(からいしき)」が発見されており(上写真=石城山のもの。下=播磨城ノ城のもの)、神籠石城があったことが伺える。

 現段階で確実に「山城」と呼んでいいものは23城である。ほとんどが
108-6 「国家的な重要史跡」に指定されている。建設には莫大な費用と手間をかけて建設されたと考えられる。どこかの豪族が築いたのではないか、と考える考古学研究者もいるようだが、城の規模などを考えれば地域の誰かが単独で築いたなどとても考えられない。

多くの山城は信頼できる理化学的な年代測定が実施されておらず、間違いのない築造年代はわからない。
108-7 「わからない方が実態を隠すのに都合がいい」と考える研究者もいるようだ。これは市民の負託を裏切る詐欺行為と言ってよい。

 大野城については南門の柱の一部が残っており、年輪年代法で年代を割り出したところ648年前後と出た。

熊本県菊池市の鞠智(くくち)城については、出土している焼き米を放射性炭素(C14)による年代測定をし、7世紀代の測定値が出ているが、それが城としての最初のころのものか最後の時期のものかはわからない。おそらく廃城直前のものではないかと考えられる。

 小生や城を良く知る地域の人々は、この城はおそらく紀元0年ごろにはその前身が築かれ始め、5世紀前後にはほぼ完成していたのではないかと考えている。

また、対馬の金田城については長崎県教委が土塁を断ち割り調査したところ、二回にわたって築かれたことが分かり、(C14)による年代測定の結果、当初の土塁は450年±、後に補強した時期は620年±と分かった。東アジアの政治情勢が緊迫度を増したことから、補強したと考えられる。


 ただ一部の山城については多くが7世紀前半ごろ、その他の山城も多くは5世紀以降、7世紀前半ごろに造られたものと思われる。


考古学研究者らはこれらの山城を「神籠石系」とか「朝鮮式」とか区別している。が、実際問題としてその区別は難しい。「神籠石」はあちこちに山城が築かれているのに気づかなかった昔の考古学者らが、土塁や石塁に守られた中は「神域」だと考えてしまったことから「神が籠(こも)る所を守った石」と考え、そう呼ばれ始めた。間違いだと気づいても面子を気にしてなかなか改めようとしないのが学者だ。

朝鮮式は『日本書紀』という勝ち組が勝手に作った客観性のない「史書」に、「天智天皇

が朝鮮半島から技術者を招いて築いた」と書かれている山城などをそう呼んでいる。


 朝鮮半島は4~7世紀、北の高句麗(こうくり)、東の新羅(しらぎ)、西の百済(くだら)、南の倭(いぃ)の四つの国が、国の存立と覇権を争って激しい戦いを繰り広げていた。

であるから、半島の山という山には山の中腹を土塁や石塁でぐるりと囲み、中に兵舎や倉庫、水の貯蔵施設、武器の修理工房などを設けた山城を築いていた。総数は2000基を超えるとみられている。

倭国は武力的に優位に立っていて、新羅と百済を屈服させ、両国からは人質として皇子らを取っていた。朝鮮の史書には人質に関わる悲惨な話がいくつも書かれている。


 そんなわけで倭(いぃ=日本)国は朝鮮半島は自分らのものだ、と考えていた。6世紀終わりから7世紀初めごろまで「倭国の天子」を名乗っていた「天のタリシヒコ(帯彦)」は、中国・隋(ずい)の国の天子に「日出るところの天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という文書を送り付けた(607年=『隋書』に記載)。「天のタリシヒコ(帯彦)」は福岡県京都郡みやこ町周辺にいた「天皇」であろう。使節団長は小野妹子という人だ。

 『日本書紀』はこの当時の「天皇」は大和政権の「豊の御食炊屋姫(とよのみけかしきやひめ)」、すなわち女帝の推古天皇だったと書いているがもちろんウソである。いかがわしい国史学者らも「手紙を出したのは聖徳太子だ」などと市民を欺くウソでごまかし続けている。

 タリシヒコは隋の天子に対して、「私は朝鮮半島と倭国を支配する天子であり、あなたは中国大陸の王だ。が、あなたは天子と言っているが、北方の蛮族・鮮卑族の出である。我々と同様、以前は中国南朝の南宋や南斉などに臣下の礼をとっていた。私とあなたは同格だ」と考えてこのような手紙を送ったのだ。

 隋は高句麗攻めの失敗などで619年に滅び、同じ鮮卑族のに取って代られた。唐の天子「太宗」は四国に争いを止めるよう説得を試みた。が、倭(いぃ)国に使いした高表仁は、倭国の皇太子と「礼を争って」、太宗の言葉を伝えずに帰国してしまった(632年=『旧唐書』に記載)。

 唐は「天下に天子は一人だけ。偽天子はつぶす」と宣言。新羅と同盟を組み、まず倭国が助けていた百済を攻め滅ぼした(660年)。そして朝鮮半島の「白村江(はくすきのえ)」で日本の大軍を破り(663年)、本丸・倭国も完全に潰した(700年)。

 こうした事から、多くの古代山城は中国、朝鮮との戦いに備えて九州倭政権が巨費をつぎこんで造ったものあることは論をまたない。九州倭政権は長く続いた朝鮮半島での戦いで多くの人を失い、山城や水城など防御施設造り、半島での莫大な戦費支出などで国庫はほぼ空っぽになった。おまけに唐は戦いに使った戦費は敗者に支払わせることにしていたから、戦後人々は重税に苦しみ、食うや食わずの状態に突き落とされた。『日本書紀』はこうした事実にいっさい頬かむりを通している。こうした状況から「大和政権」が生まれたのである。

 唐の占領軍は佐賀・吉野ヶ里の東側とか福岡・太宰府などに駐留していたらしい。


現在多くの考古学関係者や国史学者らは、こうした山城の多くは『日本書紀』の記述通り、「大和政権」が「白村江の戦い」の後に唐や新羅の襲来に備えて造ったと解釈している。だが、そのような事は100%有り得ないだろう。大和政権はまだ列島の支配者ではなく、戦後の列島は唐の占領軍が支配していた。占領軍は倭国が使っていた九州年号の使用を禁止し、一時的ではあるが、唐の属国となったのだから唐の年号を使うよう強制した時期もあったらしい。栃木県に残る那須国造碑は日時を「永昌元年」(689年)という唐代の年号で示している。唐は新羅に対しても以前、同様の措置をしたことがある。

第二次大戦後、米の占領軍・マッカーサーらが日本に上陸しているのに、米軍の襲来に備えて高射砲陣地など造れるはずがない、と言った人がいた。まったくその通りである。

であるから、長門城など多くの山城が造られたのは5~7世紀に入ってからの可能性が高いものの、いずれも白村江の戦い(663年)以前と考えられる



注1≫「倭」は中国北方漢音地域の中国史書に書いてある日本の国名である。が、通説のような「わ」という読みは元来ない。「ヰ」としか読めない漢字である。「わ」の読みは南の呉音地域の読み方である。一応、日本語として「いぃ」としてみた。


2≫倭国の首都としては太宰府のほか福岡県糸島市(伊都≪倭奴)国)、朝倉市(継体)、京都郡・田川郡(安閑、宣化、欽明、天のタリシヒコ)、佐賀県鳥栖市周辺(景行)などがあげられる。

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