うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログ 「ご挨拶」 


このブログも100回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47

九州年号とは6135698

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5

九州にいた古代の天皇 神武(31景行11684など)継体(1314)、安閑(1556)、神功皇后(697579)、成務(80)、天のタリシヒコ(1617)、天智(959899101102

前方後円墳は「大和政権の墓」ではない。熊曾於族と紀氏が築造

79、 78

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

「倭」を「わ」と読むのは間違いだ11

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」こと九州古代史研究会主宰 内倉武久

ブログNO.127

前方後円墳のルーツはどこに

成立難しい?中国・蘇州の闔閭墓説

 

 

 日本の古代墳墓を代表するような感じで築造されている前方後円墳ってどこで誰が造り始めた墳墓なのだろうか。これまで数多くの研究者、古代史ファンがその謎に挑んできた。小生もそのうちの一人だった。

 しかし、この謎は今もって謎のままだ。それは日本の考古学が科学的な証拠を積み上げて様々な遺跡を理解しようとするより、客観性のない史書である『日本書紀』の記述を重視していたことにも原因があろう。

 こんないかがわしい史書を作らせた藤原不比等という男の罪は深い。

 しかし、ともかく現在も『日本書紀』の記述に騙(だま)された「専門家」のお陰で、多くの日本人が国の成り立ちや攻防の歴史について誤った意識を抱かされている。前方後円墳についての理解もこの延長上にある。

 珍しくYouTubeなどみて息抜きしていると、偶然この問題を扱った番組に出くわした。読売テレビの「そこまで言って委員会」で結構面白い意見も吐いている政治評論家の竹田恒泰氏が最近の?新聞に掲載されたある記事をとらえて興奮してしゃべっていた。それは

 

 奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代の円形周溝墓が最近発見された。奈良国立文化財研究所は2世紀半ばのものだと言っている。この周溝墓の円墳には周溝を渡って墓の外へ出るための土橋(陸橋)がついている。これは前方後円墳のルーツで間違いない。大変なことだ。

 

朝日新聞と日経新聞だけが記事を書いている。朝日の記事は日ごろよくないと思っていたが、よくやった。日経は扱いが小さい、と。

127-1写真=「なぶんけんブログ」から

彼の専門は政治評論だから、古代史や考古学には暗いとみえる。旧皇族の一人だから関心はあるのだろう。結構勉強していることは確かだ。しかし、専門外で致し方ない点はあるとはいえ、このような形の弥生墓は以前から関東以西で数多く発見されている。千葉の神門2号墳などはもう50年も前から話題になっていた。平面図を見れば前方後円型にも見えるからだ。

橿原市でこの弥生墓が見つかったのは2016年春のことだ。読売などは2017年2月に報道しているらしい。竹田氏のyoutubeがいつ収録されたものなのか分からないが、最近の事として話を進めると、なぜ今ごろ朝日などが記事にしたのか分からない。

だが、奈文研のブログを見ると、広報文の中で何回も「前方後円墳」という語句を並べ立てていて、この遺跡があたかも前方後円墳のルーツである、と報道各社が思うようにミスリードしようとする意図が感じられる。

朝日の記者らは奈文研に「何でこのことを記事にしないのか」などと取材姿勢を疑うようなことを言われたのではないだろうか。もちろん、コメントを求められた元橿原考古学研究所所長の石野博信氏は前方後円墳のルーツうんぬんについては全く言及しなかった。当然だ。うそや世間におかし気な認識を上書きしなくてよかった。

もしこの形の弥生墓が前方後円墳のルーツだったら、関東以西のいろんなところで自然発生的に生まれたことになる。「前方後円墳大和発生説」に都合がわるいからとっくに消え去った「ルーツ説」のひとつである。こんな奈文研に税金をつぎ込んでいいのか、疑問が残る広報だ。

竹田氏は神武天皇の伝承地である橿原で見つかったことに興奮してしまったのであろう。その後も「この古墳が見つかったことで、大和政権の誕生が80年ほども遡ったことが科学的に証明された。大変なことだ」とさらに興奮度を高めていた。

彼は「大和政権」は古代から列島唯一の「政権」であり、この形の古墳はそのシンボル的墳墓の形である、という『記紀』以外に証拠のないいかがわしい旧説を未だに信じ込まされているとみえる。不幸なことだ。

もちろん、「大和政権」なる政権が日本列島で生まれたのは701年以降の話だ。であるから、前方後円墳は「大和政権」とは無関係の古墳である。このことは当ブログをお読み頂いている方々だけでなく、もはや一般的な常識になりつつある。証拠は山ほどあるからだ(当ブログNO.47参照)

 

 筆者は拙著『謎の巨大氏族・紀氏』(三一書房刊)や『太宰府は日本の首都だった』、『熊襲は列島を席巻していた』(いずれもミネルヴァ書房刊)などで、この問題を詳しく扱ってきた。が、では誰がどこでこの形の墳墓を造ったかについては書きえなかった。

 

この形の墳墓のルーツが大和の箸墓などではない事だけははっきり言ってきた。もちろん考古学研究者もそんなことは言っていない。「定型化された前方後円墳では最初のもの」と、ちょっと訳の分からない言葉でごまかし、一般には何となくこの形の元祖だと思わせてきた。

 

筆者が前方後円墳のルーツとして可能性が最も高い、と内心思っていたのは中国・江蘇省蘇州市呉県にある「闔閭(こうりょ)墓」だ。

 

127-2闔閭」は紀元前478年に越王・勾践に滅ぼされた呉国の最後の王「夫差」の父親である。夫差が父親の偉業を顕彰するためもあって10万人を動員し、贅を尽くして造った墓だという(『史記』)。


127-3
兆域は南北約450メートル、東西約400メートルある。近辺の「呉王の墓」とみなされる墳墓の中では突出して大きい。呉県の丘の上に築造され、一般には「虎丘」写真)と呼ばれている。

なぜ「虎丘」かというと、闔閭が葬られて三日後、墓の上に白い老虎がうずくまっているのが見えた、と伝えられるからだという。秦の始皇帝も東巡の折、見学に訪れたという(『呉地記』)。先年、現地を訪れた時、ガイド氏は「後世、いろんな話が作られたが、要は墓の形が虎が横たわって四方を見ているようだからそう言うのです」と解説してくれた。

『松野連(まつのむらじ)・姫氏系図』や『魏略』逸文、『晋書』などによれば、邪馬壹(台)国の女王「卑弥呼」は「(夫差の24代前の始祖)太伯の子孫である」という。

であれば、卑弥呼は自ら政権の運営をしていくうえで出身の呉国の政治文化を採用しただろう、と思う。この事は拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(ミネルヴァ書房刊)で詳説した。

夫差が自殺した時、親類縁者らは船に飛び乗って海上に出て倭(ヰ)国を目指した(『通鑑前篇』)。苦節約六百数十年後、卑弥呼という女王を生むほどに勢力を付けた。この時点で、彼らは政治方式と同様、その墳墓も伝統の王墓を復活させたのではないか。そう思った。

となると、彼らの象徴的な墳墓としては「虎丘」が一番であろう。闔閭は25代続いた呉王の中では出色の王であるし、その形は「虎が寝そべって辺りを見回している形」だから、前方後円墳を横から見た形と同じだ。

そう考えて、「虎丘」をじっくり観察した。が、なにせ築造から2,500年も経っている。土砂崩れで原形が保たれているかどうかもわからない。木々もうっそうと茂り、後円部と思われる高まりには、唐代に造られたという雲岩寺という寺が建てられている。

夫差を自殺に追い込んだ越王・勾践は、勝利を得るとすぐにこの墓を暴き、供献されたという三千本の剣を奪ったと伝えられる。石室?が空洞になったためか、雲岩寺はピサの斜塔の如く、斜めになって建っていた。墳丘の全体像はさっぱり掴めない。

そこで蘇州市や文物研究所に寄り、「測量図はないか」と聞きまわった。が、どこも「没有(ない)。あすこに行け」とたらい回されたあげく、収穫なしに終わった。

最近、というか3年ほど前、偶然この古墳に関する論文を手に入れた。蘇州科技学院人文学院の研究者・程偉氏が書いている。そこに下図のような平面図が掲げてあって大喜びした。

127-4 読者はこの平面図を見てどう思うだろうか。筆者はちょっとがっかりしている。高まりが二つあるのはいいとして、今見る限り両方ともやや四角張っているように思われる。双丘の上円下方墳みたいだ。築造から長い年月が経っているから、かなりの改変があると思うが、この測量図で「闔閭墓=前方後円墳」説は唱えられないかもしれないな、と。

ただ、日本や韓国にある前方後円墳は紀氏の墳墓である可能性は極めて高い。これだけは自信をもって言えそうだ。

紀氏政権は卑弥呼から「倭の五王」、そして反逆者と記録されているのに自らの墓を前方後円墳型(岩戸山古墳)として築いた九州・筑後の「磐井」辺りまで続いているとおもわれる。日本の政権のトップであった(当ブログNO.8191参照)『松野連・姫氏系図』には、紀氏は熊曾於(熊襲)族と離合集散を繰り返していることが記されている。鹿児島や宮崎の旧日向国では、前方後円墳に熊曾於族の地下式横穴墓が取りついて127-5 いる古墳がかなり見つかっていて、このことを裏付けている。(図=鹿児島県大崎町、神領10号墳

古墳時代を通じて朝鮮の新羅や百済を支配下に置いていたのは紀氏であった。うそ丸出しの『日本書紀』は、紀氏に朝鮮半島の経営を命じたのは「大和の政権だった」と読者に思わせるように書いている。もちろん大嘘だ。三十数基にのぼる韓国の前方後円墳はもちろん、紀氏ら彼の地で命を落とした倭国の将軍の墓であることは言うまでもない。

これら半島の前方後円墳が発見された時、韓国の研究者らは例によって「前方後円墳が朝鮮で造られ、それが日本に伝わったのだ」などと言っていた。

筆者は当時、京都で取材活動をしていて、同志社大学の故森浩一氏が司会をした発表を取材する機会に巡り合った。当日の記事では「前方後円墳、朝鮮発生説」には疑問が大きいと解説しておいた。

発掘調査が進むにつれ、これら朝鮮の前方後円墳は、5、6世紀ごろの九州の前方後円墳と同じ形態で造られ、出土物もほぼ同じであることが判明してきた。さすがに今、強引な「日本文化=朝鮮文化の下請け論」を言い続けている韓国の研究者もそのようなことは言えないようにはなっている。

いずれにせよ、最初の前方後円墳は列島における紀氏の産土の地である熊本県菊池市周辺で築造された可能性が高いのではないだろうか。全国各地の前方後円墳についても放射性炭素(14C)による測定など理化学的な年代測定を早急に実施し、市民にウソや思い込みによる年代判定でなく、間違いのない事実を知らせてほしいものだ。(20202月)

ブログNO.126

はるか二千キロ、求法の旅を敢行

臼杵大仏作った長者、水銀中毒の治療も目指す?

 

◇「南岳・衡山」は道教のメッカ

 

126-1

真名の長者が使いを送り、20年以上の年月をかけて仏教を招来、関係を深めた中国の「南岳・衡山(こうざん)」とはどんなところでどんな寺だったのだろうか。

「南岳・衡山」は中国南部、湖南省にある。中国でも1,2を誇る巨大な湖、洞庭湖の南側だ(上写真)。元来は道教のメッカ「五嶽」のひとつと位置付けられていた。

 道教は太陽や月、星、老子とか西王母、東王父、神話的人物などを神と崇め、占いや儀式を通して超絶した力を得たり、人としての生き方も正していこうとする民間宗教だ。今の日本でも神社とか山に神を見る山岳宗教、人相学、針灸、漢方薬、気功術などとして生き続けている。

紀元前3世紀、秦の始皇帝に「不老不死の妙薬を採りに行く」と言って日本に来た徐福や、23世紀の邪馬壹国の女王卑弥呼もこの宗教に通じていて、国を運営していくのにこの宗教の力を借りていたらしい。

卑弥呼は魏志倭(ヰ)人伝に「鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす」と記録される。「鬼道」は道教で言う「鬼神」を操ってあらゆることを予見したり、占ったりすることだと理解されている。道教は後に伝わった仏教にも取り入れられた。

 

◇目的の寺は南台寺か玉泉寺?

 

「真名の長者」が生きていた6世紀、衡山では道教の寺院「道観」に交
126-2 じって仏教寺院も建てられていた。大小いろんな寺院があっただろう。が、今も残っている大寺院としては「南台寺」があげられよう左写真)。

550年(九州年号の「明要」10年)長者の依頼を受けて渡中した貿易商人?「船頭・龍伯」らが訪れた寺として有力候補のひとつだろう。梁の天監年間(502519)の創建というから、もちろんこの時すでに創建されていた。

何より有力候補として挙げられるのは、この寺は天台密教の産土の寺として知られるからだ。密教は仏教の中では最も道教に近い形を持っている。長者らもなじみやすかったのではないか。

後に日本で天台宗の延暦寺を創建した最澄も衡山へ入る入り口である浙江省天台の道教のメッカ、天台寺(国清寺)などで学んだという。

摩崖仏群を調査した小野玄妙氏は「(長者が作らせた)摩崖仏群は後の補作を除けば、明らかに弘法大師空海(9世紀)以前の密教による造仏と思われる」(大正10年の調査報告講演録)と報告している。

126-3 また「震旦国荊州から招来した」(般若寺)という伝説もあるようだ。「震旦(オーロラ)国」とは中国の事だ。湖南省衡山の北側は湖北省荊州である。隋代には衡山地域も北東の長沙市を含めて荊州とされた。

現在の荊州・当陽市には高名な「玉泉寺」(左写真)がある。ここも龍伯らが訪れた寺として有力候補のひとつだろう。梁の大通2(528)年の創建と古い。旧名を船山寺といい、やはり天台密教の産土の寺として有名だ。

寺は573年(九州年号の「金光」4年)、二人の僧と随従者44人のほか仏像、仏具など大量の物をもたらしたというから、相当大きく力があった寺院であった事がわかる。

 

◇長者らは情報を正確に掴んでいた

 

長者はなぜ仏法招来の土地として中国の「南岳・衡山」を選んだのか。九州から直線距離にして約2000キロ。とんでもない遠い所だ。

しかし、これまで当ブログでも詳述しているように、九州には揚子江(長江)左岸の呉や右岸の越から多くの渡来人が来ている。長者自身がそのうちの一人であった可能性も否定できない。

長者がいた豊後地域、特に国東(くにさき)半島各地には呉から渡来した紀氏の痕跡が濃厚だ(当ブログNO.55「国東半島に弥生時代の製鉄炉?」参照)。別府の辺りは旧海部郡で中国南部や東南アジアから渡来した天(海人)族の根拠地のひとつでもあったらしい。

豊後から豊前一帯は全域を網羅するように築かれた横穴墓の密集地帯でもある。横穴墓の築造には地下式から崖に墓所を移した熊曾於族の存在も濃厚だ。熊曾於族の地下式横穴墓も同様の墓が江蘇省、山東省、遠くは甘粛省からも見つかっていて、天族を含め中国からの渡来人グループが濃密に住み着いていた可能性が高い。

要するに、56世紀段階でも長者の周りは中国からの渡来人が数多く住んでいて、渡来元の中国の情報は豊富であり、事情もよく分かっていたと思われる。「渡来人」というと朝鮮からとだけ考える間抜けな研究者も多いが、確実な証拠は全くない。数からすれば圧倒的に中国からの人が多い。それも漢族に押されて南部に逼塞(ひっそく)している「少数民族」とされている人々だ。

長者が初めから、道教の教義ややり方でなく、仏教を求めて南岳に行こうと考えたかどうかはわからない。が、いずれにせよ深く仏教に帰依したことは間違いなさそうだ。

 

◇遠路はるばる二千キロ

 

それにしても直線距離で約2000キロとはいえ、実際は荒れる海上を右往左往して行かなければならない。だから倍近い距離を帆走しなければならなかっただろう。後の遣唐使が遭遇したように行きつくことができないケースも珍しい事ではない。恐ろしく、決死の「求法の旅」だ。

まずは九州から長江下流の江蘇省を目指しただろう。蘇州には著名な寒山寺など仏教寺院や道教の道観がひしめいていた。ここまで来るのに半年ほどはかかっただろう。ここでかなりな時間、休息をとった後、長江をさかのぼって衡山を目指すことになる。

衡山へは南京を左に見ながら、まず湖北省の省都・武漢をえんえんと[t1] 目指す。春秋戦国時代には中国南部を支配していた楚の国(~223Bc)の中心部だ。漢代の豪壮な墓が見つかり、世界を驚かせた漢墓のある長沙に入ればやっと湖南省の入り口に着く。

長江から洞庭湖に入り、南の湘江を下ればそこが衡山だ。上海からここまで約1300キロ。難所もある。遡るには半年以上はかかったのではなかろうか。

湘江はこの辺りでも川幅が広く、往古から大型船も行き来する交通の要衝だ。故障がなければ豊の国から衡山まで同じ船で来れる。

今は日中戦争の時、日本軍がこの町を一日で攻略しようとしたが、なんと47日間もかかり、兵士一万九千人を亡くしたという天然の要害としても知られる。

 

◇長者の資金源は水銀朱と金の採掘

 

 長者が、大型船一隻を調達し、往き帰りに2年近くもかかるすごい「求法の旅」を実行できたのは、その途方もない財力によるところが大きい。「実記」によれば二回の渡航に「黄金計8万両を費やした」という。真名長者の時代に「~両」という貨幣基準はなかったと思うが、江戸時代、写本が作られた時の貨幣価値で換算すれば、ということだろう。

現在の価値にすれば2億円を超える出費ではなかっただろうか。当時の経済状況から考えれば感覚的には20億円以上かもしれない。

『臼杵史談』86号で酒井清一氏が述べているように、真名長者の途方もない財力の裏には、臼杵が古代、朱(辰砂)、すなわち水銀朱の一大産地であった事実がある。朱を表す「丹生郷」と称されていたのである。

「炭焼小五郎」の名も辰砂を炭で焼き、酸化させて水銀を取りだす、その行為から出た命名と考えられるという。正解だろう。

さらに角田彰男氏が指摘しているように、別府には金鉱山があった。「火の山・鶴見岳」の恩恵だ。長者は金や朱の採掘権をもち、莫大な財を手中にしていたことが伺える。有智(内)山観音蓮城寺近くには「金亀の淵」があり、「小五郎の妻・玉津姫が顔を洗ったところ、醜い痣(あざ)が消え、金の亀が出て来た」という伝説がある。

 日田市中津江の鯛生(たいお)金山の近くにも「金ケ淵」があり、鉱床が長い年月の間に崩れ、流れ出た金の粒が採取できたことで有名だ。別府だけでなく福岡県赤村など豊の国全域にわたって金や朱の鉱床があったことが伺える。

さらに臼杵周辺の海岸には今でも砂鉄が分厚く堆積している。朱、金、産鉄と当時のハイテク製品を扱っていた長者は、おそらく天皇をもしのぐ財力と力を持っていたと考えられるのだ。

 しかしこれは豊の国だけではなく、九州全体が断層と温泉だらけであり、鉱物資源の宝庫だった。鹿児島の菱刈金鉱山や池田湖畔の金鉱山もよく知られている。鉄も九州全域の海岸や川に砂鉄が腐るほど堆積していて、銅や白銀、そのほかの鉱物も採れる。

渡来人たちは渡来元で得ていた鉱物利用の方法やその価値も十分知っていた。鉱床の露頭を見つける専門家「山師」も当然抱えていただろう。だから7世紀末まで全国を支配する力を蓄えていたのだ。

「九州は田舎で何もなかった」というのは無知な考古学研究者や国史学者が言うことである。「炭焼小五郎」伝説も後の「大和政権一元論」に災いされ、歪められて伝えられている部分がかなりある。伝承に出てくる「橘の豊日=用明天皇」はウソで、『新唐書』が伝えているように、彼は豊前京都郡にいたと考えられる「天子・天のタリシヒコ」朝の長官(目タリシヒコ)だったという。

また、「蓮城大師」は朝鮮の百済から来た人などではなく、明らかに「南岳・衡山」で修業を積んだ僧である。

さらに言うと、長者が建立したとみられる寺がなぜ海を隔てた四国・松山や山口・平生町にもあるのか。ブログNO.120123「本当の斉明天皇は今治にいた?」でもお伝えしたように、彼の地も有名な朱や鉄の産地であった。山口県も銅と鉄の一大産地であった。長者は、豊の国だけでなく四国や山口に産する朱や鉄をねらって勢力を伸ばしていたことが伺われる。

 

◇仏法に解毒と治療を求めた?

林伸禧氏は、長者が「求法の旅」を思い立った理由のひとつに、水銀朱の精製などで従事していた職人や家族らが鉱毒に冒されたり、不具になってしまったこともあるのではないか、と推測する。まさしくその通りであろう。死者も少なからず出ていたのではないかと筆者は思う。古代の水俣事件だ。

「真名長者実記」によれば、長者が最初に招来した仏像のなかに「医王如来」があった。石仏群は575年(九州年号の金光6年)にすべて造り終わった。が、引き続き満月寺や蓮城寺など治療と死者を弔う施設を建立している。

寺の施設のなかに「凜(りん)病院」を「列望殿」として造ったというのだ。「凜」とは「寒さに震える」という意味である。水銀の毒で神経を侵され、悪寒と体の震えに襲われていたに違いない。

娘の般若姫も「大和に向かう船の事故」で死んだのではなく、仕事を手伝っているうちに毒に犯され、若くして亡くなったのかもしれない。長者の悲嘆のほどが偲ばれる。

臼杵には真名の長者から数えて80代目という草刈稔氏もお住まいだとか。小生もファンの一人である俳優「草刈正雄」さんらのルーツの地だろうか。

臼杵や国東半島などには数多くの古拙の摩崖仏が彫られている。当然だが、これらの製作時期も検討し直さなくてはならない。我が国の仏教文化の産土の地のひとつは間違いなく大分県であることがわかる。(20201)

ブログNO.125

6世紀、荊州の寺院に仏教求めて遣使

臼杵大仏群の真名の長者、1500キロ乗り越えて


◇臼杵市が国宝を改ざん?



 一昨年末、当ブログNO.103でお伝えした「九州・臼杵の摩崖仏群は6世紀後半に造られた」について、埼玉の角田彰男氏と共同してこの大発見をした愛知県瀬戸市の林伸禧氏が、解明に用いた各種の資料を送ってくれた。とても面白いものなので筆者の意見、見方も添えてそのエッセンスを紹介しよう。

 まず6世紀後半に造られた摩崖仏群が、なぜ平安時代の末とか鎌倉時代に造られた、と勘違いされたかである。

 その背景には、日本の中心は大昔から関西・大和であり、政権、王朝は大和政権しかなかったという『日本書紀』による大嘘の著述に、美術史家だけでなく日本人のほぼすべてが侵されていたことがある。

新年早々、麻生太郎財務大臣が「この2000年、わが国では一つの民族、一つの言語、一つの王朝が続いている。こんな国は日本しかない」と演説して問題になった。

問題にしたのはとてもいいことだ。事実とはかけ離れた演説だったから。しかし、マスコミはアイヌ民族の存在だけを持ち出して非難するしかなかった。

だが、この件も不勉強なうえ事実を伝えようと努力しないマスコミや、麻生大臣だけが悪いわけではなかろう。そういういかがわしい歴史認識を教えてきた文部科学省、不都合な事実にほっかむりし、通説に不都合な遺跡にはコンクリートで蓋をし、遺跡の本当の年代が市民に知られないように理化学的な年代測定をしないよう働きかけてきた大学の国史や考古学の研究者、自ら検証することもなく、言われた知識を垂れ流すだけだった小中高の社会科教員らが一番の元凶だ。

日本の王朝に関して言えばこの2000年、天(海人)族政権あり、紀氏政権あり、熊曾於族政権あり、幕府を入れれば世界の国々と同様、変遷この上ない歴史をたどっている。このブログをお読みになっている方々はよくお分かりと思う。

日本は神風が吹く「特別な国」では決してない。ユーラシア大陸の北方、南方、中央部から来た多くの渡来人たちが切磋琢磨して「日本人」となり、政権を奪い合ったり、連合したりして作り上げた国である。

「臼杵摩崖仏群平安鎌倉期造仏説」も国史学者や政治が作り出した妄説の延長上にあるのだ。「九州などという田舎にそんな優れた仏教文化があるはずがない。日本に仏教が伝わったのはまず大和だ。『日本書紀』にそう書いてあるだろう」というわけだ。

臼杵の摩崖仏群のなかに「正和」という年号が刻まれていた(写真=臼杵13仏。この壁面にも九州年号「正和」が刻まれていたという)。この年号は九州倭(いぃ)政権の年号だ。

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九州年号とか筑紫年号、西国年号とも言っていた。だが、後の大和政権の年号にもあった。九州年号のは熊曾於(熊襲)族の政権であった継体天皇の526531年、大和政権のは鎌倉時代の13121317年だ。

ブログNO.103の角田氏の報告にもあるように、佛教大学教授(当時)小野玄妙氏は「鎌倉時代に制作年代を刻した臼杵のような仏龕(がん)の様式はない」と断じた。だが氏は九州年号の存在は知らされていなかったのだ。

国史学者は、数十冊の史書と青森から鹿児島まで全国に400個以上もの使用例があるのにほっかむりをし続け、「そんなものは想像の産物で、架空の年号だ。政権としては大和朝廷しかなかったのだ」と市民を騙し続けていた。

資料によるとこの年月日は、摩崖仏群の二か所に製作年を示すものとして「正和4年卯月5日」と刻まれた。「卯月」は4月の事だ。そのうち満月寺の五重石塔の刻文には後に「卯月」の前に「乙卯」という刻字が施された。これだと年月日を表す「乙卯年」という解釈もできることになり、「乙卯年」、すなわち1315年の鎌倉時代の年号「正和」でいい事になる。


125-2 しかしこの「乙卯」字は昭和511976)年まではなかったことが石仏群を調査していた太田重澄や菊池徹らの著書ではっきりしている。ところが平成4年の「臼杵市史 下巻」では「正和四季乙卯卯月五日・・・」となっていた。昭和51年から平成4年までの数年の間に、「平安鎌倉期の造仏」という卑屈な説を唱える高名な美術史家や考古学者の「顔」を立てるべく、何者かが刻字したとみられる。

まったくでたらめもいいところだ。市が市民の負託を裏切る行為に走ったのだろうか。全くとんでもない事だ。(左写真 満月寺五重塔銘文。「乙卯」の刻字の位置が左右に大きくはみ出している=林伸禧氏提供)

地元に伝わる『真名長者実記』によれば、「正和4529)年」は石仏群を造った炭焼小五郎の父又五郎が、81歳で亡くなった年である。この時その供養として五重塔と十三仏の一群を造ったことを表しているとみられる。


◇波濤を乗り越え、中国へ

 ところでこれほどすごい石仏群を造りあげた「炭焼小五郎」とはいったい何者なのか。もちろんそのヒントは地元に伝わる「真名長者実記」とか、小五郎が臼杵市に建てた紫雲山満月寺、大分県豊後大野市三重町の有智(うち)山蓮城寺、さらに山口県熊毛郡平生町の神峰山用明院般若寺、愛媛県松山市の瀧雲山護持院太山寺など関係する寺院の言い伝えだ。

「真名長者」は「真名野長者」とか「満野長者」と伝えられるケースがある。なかの「野」は「姫氏・松野連」などと同じく「~の」という接続詞が名前の一部のように誤って伝えられるようになったのだろう。

こんなすごい事をした人が何でただの「炭焼き人」なのか。これは7世紀末、大和政権が列島の支配権を九州倭政権から奪取した後、九州政権の中枢部にいた人やすごい事をした人、敵方だった人を貶(おとし)めて伝えさせた名前だ。

こんな例はかなりある。例えば和歌山県粉河町の大寺・粉河寺を創建した人として知られる大伴孔子古(くしこ)は、単に「猟師」とだけ伝えさせられているなどだ。ただ「長者」伝説がある土地のほとんどに2世紀後半から5世紀後半まで日本列島の王者として君臨した「姫(紀)氏一族」の伝承がダブっている事実には注意しておきたい。

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「実記」によれば真名の長者(写真=満月寺境内にある長者と妻の玉津姫の石像)は、娘の般若姫が19歳の若さで亡くなった事に耐えられず、娘の菩提を弔うためもあって摩崖仏を彫らせたという。そのために「欽明天皇の11550)年、船頭龍伯に頼み、黄金3万両を唐土南岳山に渡したもうた」。そして「衡山の沙門(僧)蓮城法師が(香木である)赤栴檀(センダン製の)千手観音と瑠璃石(青玉石製の)医王如来の尊像計二体を持って豊後に来た」。

さらに「一院を建立して名を浮(憂)世に残そう」と考え、黄金5万両を蓮城法師のいた(衡山の)寺に送り、仏具や経典を送ってくれるよう頼んだ。

寺の対応も早くすばらしかった。「敏達天皇の2年(573年)6月上旬、隠悦大師、隠円大師の二人の僧に加え、四十四人の随従者と赤栴檀製の薬師観音、弥勒菩薩、寅頭慮尊者の計3尊、経典として大般若経、法華経。さらに仏敵退治の剣5本、独鈷、三鈷のほか法器、楽器もそろえて贈ってくれた」という。

『日本書紀』は、九州倭(いぃ)政権の天皇である欽明の13年(552年)、百済から金銅製の釈迦佛や経典、幡などを贈られ、欽明天皇は「歓喜して踊り走った」と書く。この年次も正しいものかどうかは分からないが、「真名の長者」が中国・南岳の寺から招来した仏教は比較にならないほど豪華で本格的だ。「欽明も真っ青」、という感じ。

欽明は、現在の福岡県朝倉市に都していた継体天皇の子供で(当ブログ1315参照)、「師木島の大宮」に都した天皇だという(『古事記』)。この「大宮」がどこにあったのか、まだよくわからない。が、異母兄弟の安閑天皇が継体の都に近い香春(かわら)町の勾金周辺に都し、欽明の娘という「春日の山田の皇女」を皇后として迎え入れている。

このことなどから、欽明の都も福岡県東部から大分県北部の豊前地域にあったことはまず間違いないと考えられる。「真名の長者・小五郎」とは生きていた年代もほぼ一緒で、すぐ近くにいて、お互いよく知っていた間柄だろう。


次回は「真名の長者・炭焼小五郎」が仏教を求めた「中国の南岳・衡山(こうざん)のお寺」とはどこを指しているのかなどを探ってみる。