ブログNO.137 相変わらず市民だましの展示だった 奈良博の聖徳太子特別展 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.137

相変わらず市民だましの展示だった

奈良博の聖徳太子特別展

 

コロナウイルス蔓延を避けるためもあってこの三カ月ほど、熊曾於(熊襲)族の故地である鹿児島に滞在していた。国史学者らがひた隠しにし、「ただの蛮族だ」と吹聴して市民に信じ込ませている熊曾於族の本当の姿はどんなものだったのか。この事をさらに調べる必要もあり、南九州に研究の根拠地を設けたいと考えたからだ。

幸い鹿児島の大隅半島、志布志湾に近い東串良町というところで家を格安で貸してもらえることになった。6年間ほど住んでおられなかった家とあって、住めるようにするのにかなり苦労した。が、家ダニ退治に始まり、毎日、掃除や草取り、部屋の模様替え、三度の食事の用意と片付けなどで忙しく、目いっぱい体を動かしたので、健康保持にはもってこいでもあった。

ブログを書くのも半年ぶりだ。何か新しい報告を期待しているだろう読者の方には申し訳ないことをした。また蔓延第5波など、ぶり返す心配もないではないが、コロナ禍も一段落したと思われるので、できうる限り皆さんが興味を持ちそうな報告を書きたいと思っています。

 

昨年末の当ブログNO.135 で奈良の国立博物館を訪ねたことを報告した。そして館が4月から「聖徳太子と法隆寺」という特別展を催すことも書いた。催しのタイトルからして「またいい加減で根拠の薄い展示会になるのではないか」と心配していた。

137-1 そこで展示会も終盤に近い6月中旬に館を訪ね、展示の様子を見た。やはり思った通り「いい加減でウソ満載の展示会」になっていた。聖徳太子の館内の解説はすべてあの『日本書紀』の記述のみを材料にしていたし、法隆寺に関わるなぞに迫ることもなく、根拠のない解説でお茶を濁しているだけだった。

137-2 一生懸命、展示会の準備をした館員には申し訳ないが、見学に来た市民に嘘八百の古代史を振りまく舞台になったのも仕方のないことだ。展示会も最終盤とあって大勢の人がつめかけていた。博物館のサービス展示だった奈良・吉野の金峯山寺の金剛力士像二体(高さ15m=写真)は圧巻ではあったが、観覧料1800円を返せ、と言いたい。

137-3 どこが「いい加減でウソ満載」なのかをかいつまんで報告しよう。読者の多くはもうご存じの事の事とは思うが・・・。

①聖徳太子に関する展示会場の解説板や音声案内の内容のすべてが『日本書紀』の記述に基づいている。だが『日本書紀』は世界中の「史書」と違い、自らの主張に基づく‶歴史〟を書いた史書であり、国内の歴史伝承はもとより日本に関する中国や韓国の史書の記述と大きく異なっている。

客観性はゼロであるこの書の記述を、歴史事実として扱うのは殺人犯の「私は何もやっていません」という供述を調べもせず、そのまま鵜呑みにして「そうですか」と無罪放免にすることと同じである。なんと馬鹿なことだろう。特別展では古来日本の権力を持っていたのは大和政権だけであるという虚構に沿った展示になっている。

7世紀に日本(倭国)と東アジアの覇権を争った唐の正史『旧唐書』は、覇権を争った相手は「≪倭(ヰ)国≫ であり、≪大和政権≫ではない」、「大和政権(日本)は倭国の別種である」「我々は倭国という国名がよくないので改めただけだ、という大和政権の主張には疑いがある」と記録している。白村江の戦いの勝者で、日本に占領軍を駐留させた国の証言だ。重い。「日本で政権と言えるのは古来我々だけである」という『日本書紀』の主張をはっきり否定している。

③「大和政権」が「九州倭政権」から日本の支配体制を奪い、「天皇」や「政府」のもっとも大事な権限である「年号を制定する権利」を得たのは8世紀の701年、『大宝』からである。これは797年完成の『続日本紀』にもきちんと記されている。

④日本国内の多くの史書に『九州年号』という年号群が記されている。522年の『善記』から始まり、7世紀の終わりの『大長』まで約31の年号の実在が明らかになっている。この年号群は大和政権の『大宝』に続くと考えられていて、「大和政権」に先行して全国を支配していた「九州倭政権」が制定した年号である。『日本書紀』はこのことに一切触れず、「支配していたのは我々だ」という虚偽の主張に基づき、虚構を含めて歴史を作文している。

⑤中国の正史の一つ『隋書』によると、6世紀後半から7世紀前半にかけて日本には「天(あま)の多利思比孤」(たりしひこ=帯彦、あるいは足彦、か)という天子がおり、隋の天子「煬帝(ようだい)」に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」という手紙を送った。この天子は後宮に700人の女性を抱える男王で、妻を「キミ」(君、か)、皇太子を「利(和)歌彌多弗利(わかみたふり=若美田振、か)という、と記録されている。②③④の証拠から見て、手紙を送ったのは当時全国を支配していた「九州倭政権の天子」であろうと考えられる。

⑥『日本書紀』は手紙のことはいっさい触れず、「九州倭政権の天子・多利思比孤」の時代の日本の「天皇」は女性の「豊御食炊屋姫」(とよの みけかしきや ひめ=推古天皇)であるとしている。「隋からの使者」を「唐の国からの使者だ」と偽り、これをごまかすために会見の記事も捏造して載せている。

この推古紀の捏造記事はおそらく「九州倭政権の史書・日本旧記」から盗んだ記事をリライトし、読者にあたかも使者と応接したのは「炊屋姫」である、と誤解するように仕向けているとみられる。もちろん、使者と会見したのは「倭国の天子・多利思比孤」であることは疑えない。

⑦現在の法隆寺は670年に丸焼けになり、その焼け跡である「若草伽藍」の上に建っている。再建に関する確実な記事もない。明らかにどこかから移設した寺を「法隆寺である」とごまかしていると考えられる。奈良国立博物館は、このことにも詳しい調査など一切せず頬かむりを続け、市民に根拠のないお話をあたかも事実の如く伝えるいかさまを続けている。

2800円で販売している特別展の冊子では、東野治之が「聖徳太子-史実と信仰」の一文を寄せ、文中で九州年号の「大化」をあたかも大和政権が制定した年号であるかのように扱い、市民騙しを試みている。さらに何の証拠も示さず、法隆寺は現地で再建された寺であるとして無責任な話を展開している。

おまけに当時の「天皇」は女性の「推古天皇」であったとし、さらにごまかしを続けようとしている。東野が言っている「推古天皇」は『日本書紀』の「豊御食炊屋姫」であることは論を待たないだろう。

ただ『日本書紀』は、九州倭政権の「天子」「天皇」の死後に贈られた「諡号」をパクリ、別人の「大和の王」に付け替えているケースがかなりある(継体、天智など67世紀の多くの「天皇」がそうであるらしい)。「推古天皇」が「多利思比孤」に贈られた諡号であるとすれば、間違いないことを記したことになるのだが・・・。推古と多利思比孤の治世はほぼダブっているようだ。

⑨また東野は、法隆寺の主佛、国宝の「釈迦三尊像」をあたかも聖徳太子のことを言っている、として、具体的な釈文を示さずに「光背に記された銘文」を紹介している。しかし銘文によればこの釈迦像は、「上宮法皇」という人のことを記録していることは間違いない。この「法皇」は天皇、あるいは「天子」であったことは間違いない。母親を「太后」、妻は「王后」とはっきり記されているからだ。仏教を深く信じ、身を投じた「天皇」或は「天子」で、「法」と呼ばれた人であろう。

聖徳太子は天皇や天子になったことはない。おまけに死んだ年月日も違う。釈文を示せば「法皇=太子」でないことは、よほど理解力に欠けた人でないかぎり誰でもわかろう。ごまかしきれないから釈文を示しえないのであろう。『隋書』によれば、九州倭政権の天子とみられる「天の多利思比孤」はことのほか仏教を信じ、煬帝に対して「重ねて仏法を起こしたい」と留学生の受け入れを頼んでいる。

九州には上屋を取り払われ、礎石だけが残されている数多くの古代寺院跡が残っている。大分県の臼杵には有名な大石仏群も残されている。実際は6世紀中ごろに造られたものだが、残された銘文(石刻の銘)を改ざんし、鎌倉時代に造られたことにするなどここでも「悪辣な歴史の改ざん」が実行されている(当ブログNO.125「臼杵大仏」など参照)

要するに、仏教を信じ、興隆に力を注いだのは聖徳太子だけではないし、『日本書紀』はここでも別人の功績を聖徳太子がやったことだと書いている疑いも濃い。

偽られた古代史を宣伝して市民をたぶらかす一部の国史学者を何と呼べばいいのか。オレオレ詐欺師は年寄りの金品だけを狙う。それより一般の市民を狙ってだまし、税金をむしるという意味ではもっとたちが悪い、という人もいる。批判は的を得ているのではないか。

冊子の発行にはあのNHKが絡んでいるようだ。いかがわしい古代史に関する番組を放映するたびに何回も「こんなデータがあり、放送の内容は間違っている。訂正してほしい」と指摘しても改める気配がない。内容がすばらしい多くの番組も制作しているNHKだが、いかがわしい知識しか持たないPDや、「素人は何も知らんだろう」と高をくくり、そんなPDの意向にしっぽを振るいかがわしい専門家〟が後を絶たないのだろう。NHKの番組制作責任者には事実を放映するよう、もっと注意するよう願いたい。

参考のために釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文の釈文を見てみよう。(インターネットのウイキペディアの釈文を参考にした。もちろん、そのままではない)

 

銘文は1414行で、四六駢儷体の格調高いものである。このように字数と行数を整えた例は中国の墓誌にみられる。文字は中国の56世紀頃の書風を伝える。中国の歴代王朝と深い関係、交流をしていた九州倭(ヰ)政権らしい高い文化をしのばせる遺品である。

法興元丗一年、(とし)は辛巳に(やどる)十二月鬼前(きぜん)

(たい)(こう)(ほう)ず。明年正月廿二日、上宮法皇④病に

枕して弗悆(こころよからず)干食(しょくによからず)。王后⑤(より)て以て労疾(ろうしつ)し、

並びに床に()く。

時に王后、王子等及(そのよ)の諸臣、深く愁毒

(いだき)、共に(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に

()り、(まさ)に釈像の尺寸の王身を⑥造るべし。

此の願力を(こうむ)り、病を転じて寿(いのち)を延べ、

世間に安住せむ。()し是れ定業(さだめのごう)にして

以て世に(そむ)かば、()きて浄土に登り、早く

妙果に(のぼ)らんことを」と。二月廿一日癸酉、

王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す⑦

癸未年三月中、願いの如く(つつし)みて

釈迦尊像(ならびに)(わき)()及び荘厳具を造り(おわ)

()の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠

にして、生を出でて死に入り、三主⑩に(したが)い奉り、

三宝⑪を紹隆し、遂には彼岸を共にし、

六道⑫に普遍せる法界の含識、苦縁を

脱するを得て、同じく菩提(ぼだい)(おもむ)かんことを。

司馬(しま)鞍首(くらのおびと)、止利仏師をして造らしむ。

 

  ①「元」は元号を表す漢字。「法興」は「伊予国風土記」逸文に記す四国松山の「温泉碑」にも「法興六年」と刻されていたという。「九州年号」の中にも見当たらないなぞの年号である。法皇が独自に制定した私年号か。「辛巳」は西暦621

②「鬼前」は熟語として例を見ない。諸橋鐵次の大漢和辞典によれば昔、大晦日の大祓(おおはらえ)に節分の鬼追いのようなことをしていたという。その式を「鬼」と表現したとすれば、その前であるから12月の30日とか31日のことと考えられる。「鬼」は死者をも表す言葉だから太后の名前としてはふさわしくない。名前ではなかろう

③「太后」は天子の母親を示す漢語であり、もちろん、天子でもない聖徳太子の母「間人(はしひと)皇女」ではない

④「上宮」「下宮」は普通名詞で全国どこでも使われている。聖徳太子が「上之宮」にいたとしても特定力はない

⑤「干食」は法皇が病に伏し、食事もとれない状態であったことを言っており、もちろん「王后」の名前としてはふさわしくないし、名前ではなかろう

⑥中国では仏像を天子に似せて造ることが普通であった。この風習に倣ったのであろう

⑦王后も世を去り、法皇も遠いところに登ってしまった。亡くなったこと婉曲に示している。『日本書紀』などによる聖徳太子の死亡年月日は62148日で、法皇とは一年以上違う

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⑨建物と同じく、九州倭政権の首都のひとつである太宰府の「観世音寺」にあったものである、との説もある

⑩釈迦三尊像か

⑪仏、法、僧

⑫衆生がその業(ごう)の結果として転生する餓鬼、畜生、地獄など6種の世界をいう

⑬煩悩(ぼんのう)を断って悟りえた無上の境地

20216月)