003 武内宿禰とは何者なのか ―その実在性と出自についてー | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

 

 

003 武内宿禰とは何者なのか
―その実在性と出自についてー


はじめに
『古事記』(記)と『日本書紀』(紀)の中で、「天皇でな い個人」としては最もその活躍ぶりが伝えられている人は武内宿禰(たけし・うちのすくね。建内宿禰とも)であろう。宿禰は西日本の多くの神社に祭神として 祭られ、巷間でも極めて親しまれている人である。しかし古代史家の多くは「三百歳を超える長寿を得た人として描かれている」などと考え、その実在性を疑う 論が大勢を占めている。いわば「謎の人」でもある。そこで新たな視点からその可能性を探ってみた。結論から言えば、武内宿禰は少なくとも百歳を超える古来 稀な長寿を得た人だが、実在の人物であり、天皇家の外戚として国を動かす重要な地位を長く務めた。その出自は南九州・日向、諸県(もろのあがた)の出身 で、いわゆる熊襲族(本来は熊曾於族)の貴族と考えられることを記したい。

 一  姓は「内」氏
まず、武内宿禰(『記』では建内 宿禰)はどう読むべきか。『記紀』によれば武内宿禰には腹違いの弟がおり甘美(うまし)内宿禰という。この記載から「武」「建」→たけし」と「甘美→うま し」は美称であることがわかる。姓は「内→うち」である。であるから「武内宿禰」は「たけうちのすくね」ではなく、正確に「たけし・うちのすくね」と読ま なければならない。
 このことは『記紀』ともに仁徳(にんとく)天皇が武内宿禰に向かって「たまきはる内の朝臣」と呼びかけていることからも証明 される。「神功皇后(じんぐうこうごう)」紀にも同様の言葉が記されている。「たまきはる(玉 貴わむ?)」の意味はよくわからないが、武・内の宿禰を賛 美する枕詞(まくらことば)的表現である。

 二  百一歳前後で死去か
『記紀』によれば「武・内の宿禰」は景行(けいこう)、成 務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、神功皇后、応神(おうじん)、仁徳の六代の天皇に仕えたという。これを信ずれば『因幡(いなばのくに)風土記』(逸 文)に記されているように年齢は「三百六十余歳」にもなると考えられてきた。であるから「人間の寿命としてあり得ない。実在したとしても何人かの人の事績 を集めて話を作ったのであろう」という見方が大勢を占めていた。
 しかし、弥生時代終末、あるいは古墳時代初頭の邪馬壹(台)国のことを記録した 『三国志・魏書』倭人(いじん)条(魏志倭人伝)には、先行史書『魏略』の記載を引いて「その(倭人)俗、正歳(しょうさい)、四節を知らず。ただ春耕、 秋収を計りて紀年となす」と記録されている。要するに倭人は現在と違って春に一年が始まり、秋の収穫時に年が変わる「二倍年暦」(注1)を採用していたと いう。
 『記紀』に記す天皇群の長大な死亡年、例えば神武137歳、崇神168歳、垂仁153歳、景行137歳、応神130歳などは勝手に作り上げた話ではなく、そのような年齢の数え方を忠実に記憶、記録していた、と考えればすんなり理解できる。
この「二倍年暦」がいつまで続いていたかははっきりしないが、八世紀以降の大和政権の宮中でも、一年のけがれを祓う「大祓」の儀式が六月と十二月の二回執り行われていたのもこの「二倍年暦」の名残りであろう(注2)。
仁 徳の死亡年齢が(83歳、或は87歳)であるというから、少なくともこのころまでは続いていたのではないかと思われる。『紀』による仁徳の治世87年は現 代の数え方では43年半となる。治世64年という「昭和天皇」には及ばないが、それでもかなり長い。『記紀』には若干の所伝の違いはあるが、何らかの錯誤 があるのであろう。
 『紀』成務三年条には「天皇と武・内宿禰は同じ日に生まれた」とある。同じ年月日に生まれたと解釈されている(岩波書店・日 本古典文学大系『日本書紀』の頭注)。『記』によれば成務が亡くなったのは95歳(現在の数え方だと47歳半)の時で「乙卯の年」という。成務が四世紀ご ろの人であるとすると、355年の「乙卯」が適当と考えられる。と、なると、生まれたのは355年マイナス47・5年で、307年のこととなる。
武・内宿禰の死亡年について『記紀』は何も記録していないが、仁徳が「たまきはる内の朝臣」と呼びかけたのは治世50年(25年)の春だという(『紀』)。仁徳が死亡したのは「丁卯の年」(『記』・427年)というから「治世50年(25年)」が何年に当たるかは
(死亡年427年-治世43・5年)+呼びかけ年(25年)=408・5年
となる。
実際に『紀』が書いているように「治世50年(25年)の春」にこの呼びかけがされたかどうかは定かではないが、とりあえず『記紀』の記載を「事実に近い」とみて総合してみると、409年前後にこの呼びかけがなされた、と判断できる。となると、この時の武・内宿禰の年齢は
(呼びかけ年)409年-(生まれ年)308年
すなわち101歳前後、となる。
「た まきはる内の朝臣 汝こそは世の遠人、汝こそは国の長人」との呼びかけにふさわしい長寿者だ。ほどなく死んだと考えても、当時の平均年齢とされる四十歳前 後の倍以上を生きたことになる。しかし、「360余歳」では決してないと思われる。「二倍年暦」を頭に入れていないからこのような推論が生まれたのであろ う。

三  熊襲族の祭りに登場
鹿児島県の大隅半島と宮崎県南部の三か所で、毎年十一月五日に「弥五郎(やごろう)どん」祭りが盛 大に挙行される。祭りが執り行われるのは鹿児島県曽於(そお)市の岩川八幡神社と宮崎県南国市飫肥(おび)の田ノ上神社、同県都城(みやこのじょう)市の 山之口・的野正八幡神社の三神社である。大隅半島は和銅六(713)年、肝杯(きもつき)、大隅(おおすみ)、曾於(そお)、姶欏(あいら)の四郡が分割 設置されるまで「日向国諸県(もろのあがた)」であった(『続日本紀』)。であるから、まつりがおこなわれる三神社とも旧日向国にあった神社である。
祭られる「弥五郎どん」は「武・内宿禰」、あるいは養老四(720)、五年のいわゆる「熊襲征伐」で討たれた首長であると伝えられる。確かに都城市、的野八 幡の「弥五郎どん」は白衣を着せられ、馬の背に載せられて刑場に曳かれる熊襲の首長を思わせる格好だ。

003-1
しかし岩川八幡の「弥五郎どん」(写真)は梅染の衣 に冠、束帯に身を固めた貴人風である。田ノ上神社のも白いひげに青や紫の衣をまとい、きらびやかな出で立ちで、地域の英雄を思わせる。いずれも5メートル 近い巨体に形作られている。
なぜここに武・内宿禰が祭られているのか。答えは簡単だ。当地一帯には今でも多くの「内(うち)」さんが現在も住んで おられる。電話帳(2012年)で検索すると鹿児島県内には二百人以上の「内」姓の人が登録している。都城市や隣接の小林市など宮崎県南部にも少数だがお られる。「内」の次に田や海、山、川、村などの字を加え、二字姓にした人は両県で二千軒を超える。二字姓にした以前はおそらく「内」さんであったろう。大 和政権が和銅六(713)年に交付した地名を「二字の嘉(よ)き字に改めよ」といういわゆる「好字令」の影響が考えられる。
大隅半島の東端、志布 志湾の南側にある小さな湾は「内ノ浦」と呼ばれる。湾を囲む丘陵はロケット基地として有名だ。近くに「内」に対応する「外の浦」はないから、「内」は固有 名詞、すなわち「内氏が管理する湾」であろうと考えられる。湾の北側や小林市には大字「内の倉」がある。
鹿児島、宮崎両県の大字、小字の地名にも 「内」を冠したものが多い(角川「全国地名辞典」等)。さらに多くの家には密かに「内神(うちがん)さん」が祭られている(注3)。「内」を冠した地名は 内氏だけのものではなく、「武・内宿禰」を氏族の象徴的な人ととらえた地名であろうと考えられるのである。
要するに「内氏」が集中する地域は全国 で大隅半島や薩摩半島一帯しかなく、熊襲族「武・内宿禰」の故郷、あるいはルーツの地と考えざるをえないのである。熊襲族の東への進出に伴い「内」を冠した地名、た とえば「内畑」「内の里」「内野」「内のハエ」などは彼らの生業であった焼畑耕作や政治的勢力などを通して山陰、関西、北陸、関東、東北にまで存在する。

003-2 京都府の「宇治市」も『倭名抄』は「うじ」と読むのではなく、「うち(宇知)」と清んで発音するようにるびを添え、特記している写真=旧宇治郡・京田辺市に伝わる隼人「熊襲」舞)。
「内の浦」も紀州田辺市、北陸福井の高浜町、房総鴨川市にもあり、それぞれ熊襲族と関係する説話などを残している。例えば千葉県鴨川市は熊襲族がもつ犬祖伝説(注4)を小説化した「南総里見八犬伝」の故地だ。
東 へ進出した熊襲族は何も「内」氏だけではない。同じ熊襲族には宮崎県西都市の妻萬(つま)大明神によって土中から生まれたという氏族発祥伝説(注5)をも つ日下部(くさかべ)氏、それに『山城国風土記』(逸文)に「始祖は日向の曾の高千穂の峰に天下った」と記され、京都・下賀茂神社の流鏑馬(やぶさめ)神 事でも有名な鴨(賀茂、加茂)氏もいた。鴨川市も鴨族の進出先のひとつであろう。

四  一大政治勢力を築く
 『記』孝元天皇段には、武・内宿禰に関する説話が記載されている。それによると、「内の宿禰」は父を「比古布都押(ひこふつおし)之命(みこと)」といい、母は「木国の国造の祖・宇豆比古(うずひこ)の妹・山下影日売(かげひめ)」という。九人の子を設けた。
長男は波多(はた)の八代宿祢(やつしろのすくね)≪波多臣(おみ)、林臣、波美臣、星川臣、淡海(あふみ)臣、長谷部(はせべの)君の祖)≫
次男は許勢(こせ)の小柄(おがらの)宿祢≪許勢臣、雀部(ささきべ)臣、軽部(かるべ)臣の祖≫
三男は蘇賀(そが)の石河宿祢≪蘇我臣、川辺(かわなべの)臣、田中臣、高向(たかむこの)臣、小治田(おはりだの)臣、桜井臣、岸田臣らの祖≫
四男は平群(へぐり)の都久(つくの)宿祢≪平群臣、左和良(さわらの)臣、馬御樴連(うまみくいのむらじ)らの祖≫
五男は木の角(つぬの)宿祢≪木(きの)臣、都奴臣、坂元臣の祖≫
長女を久米(くめ)の摩伊刀日売(まいとのひめ)
次女は(ぬ)の伊呂日売(いろのひめ)
六男は葛城の長江の曾都毘古(そつひこ)≪玉手臣、的(いくはの)臣、生江(いきえの)臣、阿芸那(あきなの)臣らの祖≫
七男は若子(わくごの)宿禰≪江の財(たから)の臣の祖≫とされる。

当時の宮廷を支えた氏族のほとんどを網羅する豪華メンバーが勢ぞろいしている。おそらく直接の子供ではなく、血縁関係、政治的勢力関係からからこうした伝承が生まれたものと考えられる。しかし、「内氏」がこうした古代氏族を束ねる力を持っていたことは疑えない。
一方、『書紀』では「内の宿禰」の父親は「武雄(たけお)心の命」で、母は「影姫」であるとする。
「武雄心の命」は佐賀県武雄(たけお)市にその伝承が残っている。当地の武雄神社に祭られ、近くの大字「山下」が母親の出身地である、と。『書紀』の伝承をもとに作られた地名や神社でなければ興味深い伝承である。ここでも流鏑馬が重要な祭りとして毎年盛大に行われる。
『肥 前(ひぜん=火前=佐賀県)風土記』によると近辺は、熊襲の一支族とみられる日下部(くさかべ)氏も活躍していることが記されている。『記』は「紀」を 「木」と表示しており、他に「記」「基」などとも書かれる。肥前の南端、鳥栖(とす)市基里(きざと)や基山町は「紀氏」との関係が深いと思われる。「紀 氏」のことである「姫(き)氏・松野連(まつのむらじ)」の系図(注6)によると、『魏略』(逸文)、『晋書』などに記される太伯(姫氏)の裔(しそ ん)・夫差の親族が日本列島に流れ着いた(注7)最初の地は「火の国山門(やまと)菊池郡」であったとされる。「山門郡」(旧福岡県山門郡・現みやま市) は肥前の南隣、「菊池」はその南に位置する。
現在、『記紀』に記されたことはすべて関西での話であるとされ、岩波書店『日本書紀』などは、出てくる地名などの注釈も、例外なく関西の地名を比定の材料にしている。九州各地に関西と同じ地名があることを閑却している。
「内の宿禰」の子とされた氏族の根拠地を例にとると、波多臣の支族「淡海(あふみ=おうみ)臣」は福岡市の「元祖・住吉神社」一帯、あるいは有明海や北九州市の洞海湾などが候補としてあげられよう。希水状態の海や湾をさしていると考えられる。
「長谷部」の長谷は「初瀬川」が流れる佐賀県三瀬(みつせ)村一帯。ここも「こもりくの」という枕詞がぴったりの山間だ。次男許勢(巨勢)氏は福岡県久留米市 から東に連なる耳納(みのう=美濃)山系の麓、巨瀬(こせ)川が流れる「うきは市」一帯、蘇我氏は筑紫野市武蔵(ぶぞう)一帯に出自伝承がある。
「川辺(かわなべ)」は鹿児島県の薩摩半島や福岡県糸島市、和歌山県などに遺称地がある。糸島市のは正倉院(しょうそういん)文書に残る「大宝二年戸籍・川辺の里」断簡(だんかん=きれはし)でも著名である。「桜井」は福岡市西区の桜井神社付近など。
「平群(へぐり)」は平安時代の地名辞典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に記され、福岡市早良(さわら)区一帯がそうである。
「木(紀)臣」は佐賀県基山町から鳥栖市、熊本県菊池市一帯に蟠踞(ばんきょ)していた。「葛城(かずらぎ)」も福岡市南区や豊前・苅田(かんだ)町、佐賀県みやき町などに遺称地がある。
同じ地名が関西と九州にあることがわかるが、ではどちらが元来の地名なのか。『記紀』の記述からみると、人々の流れは西から東、すなわち九州から関西へと流 れている。「饒速日(にぎはやひ)伝承」、「神武伝承」しかり、「神功皇后・応神伝承」しかりである。西から東へ移動した人々や権力者が故郷の地名を東で 付けたのであろう。『記紀』の地名比定も考え直さなくてはならない。
紀氏と熊襲はある時期合体したものとみえ、前述の「姫氏・松野連系図」には途 中から『紀』に記す「厚鹿文(あつかや)」「迮鹿文(さかや)」など熊曾於族の首長とされる名が連ねられている。紀氏が蟠踞していた北部九州西部にも熊襲 族の鴨氏、日下部氏や内氏、天族の久米氏らが進出していたことをうかがわせる地名や川の名が数多くある。
菊池市には加茂川や賀茂神社が鎮座、植木(うえき)市(元来の意味は「上紀」か)には大字「内」が、泗水(しすい)町には久米八幡がある。菊鹿町には内田川、大隅半島・鹿屋市内の地名「吾平(あひら)」もある。阿蘇地域には古社「草部(くさかべ)吉見神社」がある。
紀氏が最初に落ち着いたという菊池市一帯は装飾古墳の一大密集地で、装飾古墳の発祥の地とも考えられる。全国の装飾古墳の三〇%がここにある。
武・内の宿禰は『紀』景行条では若くして「北陸、東北への巡視」を任されている。巡視団の団長であろう。後には「棟梁の臣」と呼ばれ、「成務」条では「大臣」に任命されている。「神功皇后・応神、仁徳条」では天皇を補佐する地位を保っていたとされる。
なぜこのような重要な地位にいたのか。それは彼の出自に解明のカギがある。
『記』 孝元段には「内の色許男(うちのしこお)」という人物が登場。この人の妹である「内の色許売(しこめ)」が「大毘毘(おおびび)」、すなわち「開化(かい か)天皇」を生み、開化天皇はこの「内の色許男」の娘で「孝元天皇」の妻でもあった「伊迦賀(いかが)色許売」と結婚し、「印恵(いにえ)」すなわち「崇 神天皇」を生んだという。「シコオ」「シコメ」は「醜男(しこお)」「醜女(しこめ)」で、古語では「醜(みにくい)」という意味でなく「強い男」「強い 女」という意味である。
いかがわしい説に固執している国史学者らは、この「内」を「武・内の宿禰」の祖父(あるいは曽祖父)であるから当然「うち」と読まねばならないのに、「うつ」などとルビをふり、他人とか他家の人であるかのごとく取り扱っている。「熊襲隠し」を意図したものであろう。
ともかく「内氏」は元来、宮廷内で外戚として君臨していたと考えられ、「内の宿禰」は「内一族」の跡取り息子であったのだ。

五 客観性を欠く日本の史書

『記 紀』、特に『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が政権を握った後に自ら作った史書であり、諸外国の多くの史書と違い、全く「客観性」を欠いた史書である。 諸外国、例えば中国などでも史書は対象となる時代が終わった後、客観性を重視して書かれるものである。「客観性のない史書」については、その記述には徹底 した検討が必要であることは言うまでもない。特に政治権力がどこにあったのかに関して厳しい検索が必要である。
 昨今、多くの冤罪事件が露見し、 裁判の有り方や検察当局の捜査の在り方が問題になっている。罪を犯していない人がその生涯を牢獄の中で過ごさなければならないという恐ろしく、悲惨極まる 事態が発生している。これは「証言」や「物証」を軽んじ、「自供」という日本的な「客観性のないもの」に頼った誤った判断がとんでもない恐ろしい結果を生 んだのである。
『日本書紀』は「古代から一貫して列島を支配してきたのは我々である」という「大和政権」の大義名分(たいぎめいぶん)によって記 述されている。「事実」をもとに記述しているのであろうが、人物や時代を入れ替えたり、事実があった場所を違わせるなどしてその「大義名分」に合わせ、捻 じ曲げて記述している。邪馬壹(台)国や北部九州政権、あるいは東北、関東政権の存在をすべてカットし、全てが自らの主導のもとに行われたと思わせるよう に記述している。
第二次世界大戦敗戦後しばらくは神話教育への反省からさまざまな研究がなされ、すばらしい研究もあった。しかし、いつの間にかこ うした厳しい観点が失われつつあるように感じる。また、「証言者」である外国史書の研究をないがしろにし、「物証」である考古学的遺物や遺跡に対してデー タの無視や『記紀』の記述に沿った解釈のみをするケースも後を絶たない。行き過ぎた「反省」から「神話」や古代権力の実態を明らかにする努力までなくして しまっているようである。

九州の考古学界を牛耳っている九州大学の某・前教授が、福岡県大川市で行った講演の後、懇親会の席上で酔ったあげく、 うっかりとんでもない「本音」を口にしたという話が広まっていて、関係者がショックをうけている。「定説が引っくり返りそうな遺構が出そうになったんで、 コンクリでふたをしてやった」と自慢そうに話したという。
聞いていた何人かのひとは唖然(あぜん)として耳を疑ったという。しかし、これまでにも この某前教授には「あそこの遺跡で変なことをした」、などという信じがたいような「うわさ」が広まっていたが、本人の口からそれを裏付けるような発言が飛 び出したのだ。隠すだけでなく、積極的に自らの主張に合うよう、「遺跡の保護」という「錦の御旗」を悪用し、遺跡を操作していたのであろうか。とんでもな いことだ。


『記紀』は、いわゆる「神功皇后」が元来「大和政権」の人であるがごとく記録している。この件についてはここでは詳しく述べないが、 「応神」が生まれたのは福岡県粕屋(かすや)郡宇美(うみ)町であり、北部九州の大多数の神社が「神功皇后」を祭っていること、あるいは福岡県久留米市の 「高良(こおら)大社」に伝わる『高良玉垂宮(こおら・たまたれのみや)神秘紙背文書』などには、「神功皇后」と山口・豊浦宮にいた夫である「仲哀天 皇」、「武・内の宿禰」、博多の「元祖・住吉大神」の深い関係を示す伝承記録が残されているのもその証拠のひとつと考えられる。
この時、幼子であった「応神天皇」を抱えて関西に向かったのが「武・内の宿禰」であったとしている。九州政権内でなんらかの権力闘争があったことにひっかけて、政権が関西に移ったことにした可能性もある。『記』と『紀』では場所の設定などが全く違う風に描かれている。

六 武・内の宿禰の墓所はどこか

「武・内の宿禰」の墓所については諸説あるが、これまで述べてきたように熊曽於・内族の英雄と考えられることや、天皇をもしのぐ勢力を保った人であることなどから、筆者は御所市の巨大古墳・宮山古墳(室《むろ》の大墓)をその有力候補としてあげたい。
御 所市の南隣、五條市には熊襲族の大和での拠点のひとつでもあろうと考えられる「宇智(内)郡」があり、宮山古墳近くの蛇穴(さらぎ)地区にある野口神社で は、薩摩、大隅の特徴のある「十五夜綱引き」(注8)と全く同じやり方の行事が今も行われ、熊曾於族の進出先であることが濃厚である。
『帝王編年 記』仁徳条に引く一書には「(武・内宿禰)東夷を討ちて大和国葛下郡に薧(こう)ず。室破賀(むろのはか)是なり」とあり、市の名称も貴人の居所を表す 「御所」である。熊襲族は八世紀初頭、「大和政権の仇敵」とされ、殲滅された。「大和政権」に頑強に抵抗したある者は殺され、ある者は山沢に逃げ、ある者 は賤民に落とされたと考えられる(注9)。なぜそうなったか、どんな戦いが何年間にわたって続けられたかについて、『記紀』や「続日本紀」は多くを記録し ていない。
 
七 因幡の国にも内の宿祢伝承

先日、山陰への調査旅行をしてびっくりした。鳥取市国府町宮下にある「因幡国 (いなばのくに)一の宮」という「宇部(うべ)神社」を訪ねた。当社は「武・内の宿禰」を祭神とする数多い神社のひとつである。元来の神社名は「内部(う ちべ)神社」であったかもしれない。山陰も熊曽於族の進出を示す遺称地名や特異な横穴墓が造られている地域である。パンフレットに書かれたこの社の伝承は 非常に興味深い。

 命(みこと=武内の宿禰)はまた、進んだ大陸文化を導入されて、古代大和朝廷の最盛期を築き上げられました。特に神功 皇后(じんぐうこうごう)を補佐して北九州に出陣されご活躍になったことは有名で、ご幼少の応神天皇(八幡さま)を抱かれる姿は五月の節句に掲げる幟(の ぼり)の絵柄となっております。命は仁徳天皇五十五年春三月、因幡国の亀金岡に双履(そうり)を遺(のこ)し、三百六十余歳でお隠れになったと記されてい ます。古くから本殿の後ろにその霊跡と伝える石があり双履跡と呼ばれています。日本一長寿の神様さまのご昇天の地です。

とある。
 注目したいのは「仁徳天皇五十五年春三月、因幡国の亀金岡に双履を遺し、三百六十余歳でお隠れになった」という個所である。
  この伝承は『記紀』にはない。独自の伝承であろう。「大和(だいわ)政権」が九州の「山門の政権」、すなわち「北部九州倭政権」を意味し、「二倍年暦」が まだ生きていたころの伝承がやや誇張されて伝わったものかもしれない。先の「因幡国風土記」の記述はここの社伝から採った伝承であろうか。生まれた日を 308年とすれば、仁徳が呼びかけをした(仁徳50年)の二年半後ということになるから、宿禰は百四歳で死亡したことになる。
 なぜ因幡国に出向いたのか、なぜ靴だけ残して姿を消したのか、果たしてその墓所は奈良にあるのかも謎として残る。



注1 安本美典「邪馬台国への道」(筑摩書房 一九六七年)、古田武彦「邪馬台国はなかった」(朝日新聞社 一九七一年)などが指摘

注2 延喜式でも「六月晦日大祓、十二月これに準ず」と令条化され、「続日本紀」養老五年七月の項などにも記載がある

注3 「宮崎県の民俗」㊾㊿号所収、渡辺一弘「宮崎県の屋敷神」(宮崎県民俗学会)、鹿児島県大隅町「佐多町民俗資料報告書」(大隅町教育員会)など

注4 熊襲族は現在中国大陸南部に住む少数民族が持つ犬祖伝説を共有している。飼い犬が敵将の首を加えてきたので、王の娘婿になり、氏族の祖になったという。

注5 「日下部姓之系図」。西岡虎之助「上代土豪の歴史」(民間伝承の会 一九四七年)、藤間大生「神功皇后紀の編者」「文学㉗」(岩波書店)日高正晴「古代日向の国」(NHKブックス 一九九三年)

注6 「倭人は自ら太伯の後と謂う」と記録される

注 7 国会図書館蔵(尾池誠「埋もれた古代氏族系図」)、静嘉堂文庫蔵の二種類ある。ほぼ同様の系譜を記載している。呉王・夫差から始まり、途中から熊曽於 族の名が連なり、讚、珍、斉、興、武のいわゆる「倭の五王」が記載されている。呉王・夫差の親族が山門に逃げてきたことは、「通鑑前篇」に記されている

注8 綱引きはせず、蛇に見立てた綱を引きずって地区内を練り歩く

注9 熊襲族の全国展開、そのルーツ、遺跡、大和政権との関係などについては「熊襲は列島を席巻していた」(ミネルヴァ書房 二〇一三年)を参照

                                   止め