004 人々は大陸から直接渡来した   ――証拠の品々続々発見―— | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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人々は大陸から直接渡来した
  ――証拠の品々続々発見―—


中国・山東省で串間・玉璧の祖型 ブログ ナンバー2「列島に漂着した三つの大族」で宮崎県串間市、王之山で発見された日本、中国を通じて最大、最高級の権威の象徴「玉璧(ぎょくへき)」(写真1)のことをちらっと紹介した。その後、中国・曲阜師範大学に留学中の人から「中国の山東省からも同じような玉璧(写真2)が出土している」との知らせがあった。

04-1 鹿児島、宮崎に本拠を置き、「紀氏」、「天(海人)族」と連携して日本列島の各地に進出して全国を支配していたと考えられる「熊曾於(くまそお)族」が、どこから来たのかをさぐる貴重な資料なので紹介しよう。「熊曾於族」は『日本書紀』に「熊襲(くまそ)」とか「隼人(はやひと)」と書かれている人々である。
宮崎県串間市出土の玉璧は直径33・2センチもある大型のもので、透き通った青緑色の玉(石)製品である。文様を三重に巡らせている。このような文様構成をもつ優品は玉璧の本場である中国でも稀有(けう)であり、普通は直径10~20センチ前後のものが多い。現在は玉璧と同じ場所に納められていた鉄製品のさびがこびりつき変色している。

04-2 同様の玉璧は中国のあちこちから10数枚出土しているが、出土地は一切不明であった。唯一、全く同じものが中国南方の広東省、南越王墓(紀元前2世紀築造)から出土している。串間市の文化財担当、宮田浩二氏によれば、出土地点は「王之山」でなく、山麓の「王子谷」からだという。
ブログ ナンバー1「神武天皇はどこにいて、なぜ大和に逃げたのか」で書いたように、彼が生まれ育った福岡県糸島市の三雲南小路遺跡からも玉璧が出土している。これは玉石製ではなくガラス製で、直径は11センチほどである。熊曾於族、天(海人)族とも古代中国の人々と同様、玉璧を権威の象徴、僻邪(へきじゃ)のシンボルだ、と考えていたことは共通している。古代中国では玉璧の真ん中の丸い穴に「圭(けい)」という柱状のものを立てて天地や国の政策の吉凶を占っていた。

「串間出土のものと同様の玉璧」は中国・山東半島にあった春秋、戦国時代(紀元前8~3世紀)の「魯(ろ)国」の都(故城)からだ。「魯国」はあの有名な孔子が宰相を務めていたことでも知られる小国である。あらゆる術策を用いて厳しい戦国時代を生き抜いていた。現在のヨーロッパでいうならスイスのような国である。
出土した玉璧は故城全体の多くの墓から出土した総数34枚のうちの4枚で、直径は32センチ前後。文様帯も同じ三重で、串間出土のものとほぼ同じ大きさである。「戦国時代早期(紀元前5世紀ごろ)」の王墓から出土した。
串間出土のものと違うのは真ん中の丸い孔(穴)の直径が11・6センチもあり、串間出土の倍ほどあることである。製作時期も「紀元前5世紀ごろ」だというから、南越王墓のものより300年前後古い。串間出土や南越王墓の玉璧の「祖型」と言えるかもしれない。


04-3 地下式横穴墓の祖型
も 興味深いのはこれらの玉璧の「祖型」が山東省から出土したという点である。実は最近、このあたりからは熊曾於族独特の墳墓とされる「地下式横穴墓」(左図=宮崎県六野原2号)の「祖型」と思われる墳墓が続々と発見され始めている。その1、2例を紹介してみよう。「左下図」は山東省の南に隣接する江蘇省徐州市銅山県出土の〝地下式横穴墓〟である(黄暁分『中国古代葬制の伝統と変革』から)。「右下図」は山東省安丘市で見つかった春秋時代の〝地下式横穴墓〟である。地表からまっすぐに穴を掘り、2~4メートルの底を横に広げて墓室を造っている。南九州で多数発見されている「地下式横穴墓」と構造が同じである。山東大学の報告では、山東省では他に同様の墳墓が11基、臨淄市で見つかっている。


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04-10 山東大学博物館が報告しているが、
同博物館はもちろん、熊曾於族と関係する墳墓であるとは夢にも思っていないようで、「土洞墓の一種である」と言っている。「周代末期ごろ(~紀元前3世紀?)の珍しいもので、この地域独特の墳墓である」と。
左図は山東省よりかなり離れた甘粛省玉門出土のやや新しく豪華な戦国時代の〝地下式横穴墓〟である。要するに
山東省、江蘇省、甘粛省あたりでは春秋時代から戦国時代にかけてこの手の墓が少数だが築かれていたのだ。
また同様に薩摩半島北部の川内(せんだい)川流域に広がる「地下式板石積み墓」と同じ
も構造と思われる墓(中国では「石板墓」と言っている)も山東省乳山南黄庄で20基見つかっている。
戦国時代に書かれたとされる『山海経(さんがいけい)』や漢代の『史記』によると、山東省北部には「犬戎(けんじゅう)族」がいて、漢民族と激しい攻防を繰り返していた。「犬戎」は次第に敗色濃厚となったことが記されている。
なぜ「犬戎」というのか。おそらく彼らは「自分たちは強い犬の一族である」、とか「先祖の一人は愛らしく強い犬であった」と自称していたから「犬」がついているのではなかろうか。それ以外に考えにくい。中国の少数民族や熊曾於族と同じ考え、信仰である。彼らは漢民族に圧迫され、次々と南の方に追い出され、一部は海に活路を求めたのであろうと考えられる。
さらに彼らは「身長百尺の男がいた」という伝説をもっていた。敵対していた漢民族は「長狄(チャンディ=身長の高い敵)」と呼び、「ソウ(叟に阝の作りの字)族」とも呼んでいた。「熊曾於族」の「曾於(soo)」はこの「ソウ(sou)」である可能性
も否定できない。「我々は漢民族と激しい戦いをしていた輝かしい(熊)sou族
 の流れをくむ一族である」と誇っていたのではなかろうか。実際の少数民族や熊004-11 於族の身長はむしろ小柄である。それだけに巨大な身体に強いあこがれを抱 ていて、このような伝説が生まれたのかもしれない。熊曾於の英雄、武内宿祢(たけし・うちのすくね)を象った「弥五郎どん」は5メートル近い巨大な体に表現さ れているからだ(ブログ 3「武内宿祢」の写真参照)。

 熊曾於族のシンボル文様も 「魯国故城」の報告書(山東省文物研究所など編 1982年)は実に興味深い。平城京跡から発見されているいわゆる「隼人の盾」に描かれている「逆S字文様」(ブログ表題の写真参照)を刻んだ水晶製首飾り(左上写真)や、装飾古墳によく描かれる蕨(ワラビ)手紋を散りばめた杖の龍首飾りやなどが出土しているからである。
逆S字文様はおそらく熊曾於族のシンボルとして用いられたものであろう。茨城県の有名な装飾前方後円墳「虎塚古墳」の側壁奥にも描かれている。この古墳のある「常陸(ひたち)の国」一帯は、熊曾於族の犬祖伝説を小説化した「南総里見八犬伝」の現地でもあり、「常陸の国風土記」では「紀氏系図」(ブログ2)に出てくる九州倭政権の王「倭の五王」の一人「倭武天皇」が活躍する舞台でもある。

このほか、日本各地から出土する「玦状(けつじょう)耳飾り」(下写真)や、種子04-6
島の広田遺跡でも見つかっている竜形玉製品、須恵器(すえき)の窯(かま)、製鉄遺跡(左下図)、鉄矛、鉄戈(か=写真)など日本の弥生時代と共04-7
通する遺物が大量に出土している。
葬儀用品(明器)である大壺(つぼ=戦国時代)の腹全面には山形紋(鋸歯紋)が刻まれている(写真)。この文様は日本でも土器や銅鐸(どうたく)、装飾古墳の内部に数多く描かれている。邪気が侵入しないように祈るマークである。鹿児島県の悪石島の神社の鳥居全面にもこのマークが描かれている。(写真と図は報告書から)

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日本の基層文化と言うのは、今声高に言われているような「朝鮮半島からの渡来文化」では決してないことがわかる。古代のメインの交通路は川と海である。陸路は敵に襲われ、殺されるか奴隷にされる運命が待っている。どうしても「朝鮮文化=日本文化」を言い続けたい研究者らは「大陸から持ち込まれたことに異論はないが、陸路をたどって朝鮮半島に行き、そこから日本に来たのだ」と言っている。しかし、朝鮮半島には熊曾於族の足跡はもちろんない。伽耶地域にはあってもいいと思うが今のところ発見されていない。無理やり「似ても似つかぬもの」を「祖型だ」などと強弁しているようだ。
敵に負けたり、「イスラム国」を連想させるような荒々しい大陸の世相を嫌がった人々は新天地を求めて海にこぎだし、列島などにたどりついたのだ。須恵器の生産技術もこの時、大陸から直接持ち込まれた可能性が高い。決して5世紀という大阪・陶邑の一元生産ではなかったであろう。