002 列島へ漂着した三つの「大族」について | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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002 列島へ漂着した三つの「大族」について

 ブログ最初の項「神武天皇」に示した地図の中で、九州に漂着した三つの大族について図示してみた。「紀(き)氏」「熊襲(くまそ)族」「天(あま=海人)族」の三つである。これら三つの大族はいずれも大陸から亡命・渡来してきた人々であるが、互いに絡(から)み合いながらその後7世紀末まで日本の古代政権をになった大きな勢力だった。『日本書紀』『古事記』がどうしてもその実態を隠しておきたかった最大の勢力である。彼らはどんな「族」だったのか。その力や背景をさぐってみよう。まず「紀氏」から。

≪紀≫氏

東京・世田谷の静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)や古代史家・鈴木真年が採集した系図に「姫(き)氏・松野連(まつのむらじ)系図」(下図)というのがある。これには「夫差の皇子・忌(いみ)が孝昭天皇三(前473)年来朝、火の国(熊本県)山門(やまと)菊池郡に住む」と記され、その子孫が日本史上有名な5世紀の「倭の五王」(讃、珍、斉、興、武)であることが記されている。「姫」氏は『古事記』『日本書紀』では「木」あるいは「紀」と表記された一族である。


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著名な中国の古代史書『魏略(ぎりゃく)』などの記載からみて「「邪馬壹国の女王・卑弥呼」も「紀氏」の子孫であることは疑えない。その淵源(えんげん)は中国の古代王朝、殷(いん)王朝(商王朝ともいう)最末期にさかのぼる。紀元前1020年、日本の縄文時代晩期にあたるころである。
 中国の史書『史記』によれば、殷王朝と覇権を争っていた周(しゅう)王朝では王位争いがおきた。その王「古公亶父(ここうたんぽ)」は、長男の太伯(たいはく)に跡を継がせず、三男の季歴(きれき)を後継者とした。季歴の子である昌(しょう)に「聖人となる瑞祥(ずいしょう)がある」とされたので、とりあえず季歴を王位につかせ、その後昌に引き継いでもらい、周王朝の興隆を図ろうと考えた、という。
 王位を継げなかった太伯は弟の虞仲(ぐちゅう)とともに都を脱出し、南方に逃げてそこで「呉(ご)」の国を造った。揚子江(長江)下流北側の江蘇省(こうそしょう)南部一帯である。この「呉」は後の三国時代の「呉」と区別するために「句呉(こうご)」とも呼ばれる。
 この呉国は紀元前473年、最後の王であった「夫差(ふさ)」まで続いた。「夫差」は南隣の越(えつ)王「勾践(こうせん)」との戦いで知られた王である。二人は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とか「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」などという故事で有名である。
 「夫差」は結局「勾践」との戦いに敗れて自殺する。この時「夫差」の皇子や親類縁者一族は船に乗って脱出し、九州に流れ着いた。中国の史書『通鑑(つがん)前篇』に記載されている。また『魏略』や『晋(しん)書』『梁(りょう)書』などは「倭(い)の人は自ら、(我々は)太伯の子孫である、と言っている」と記録している。平安時代に編集された『新撰姓氏録』も同様の記録を残している。『魏志倭人伝』にこの記録が記されていないのは、3世紀の「魏」と「呉」は最大の敵国であったため、違う国ではあったが、同じ名前の「呉」の末裔と親しくしているという非難を避けたかったものと思われる。
 

 周王朝の姓は「姫」である。であるから「太伯」や「夫差」の姓も「姫」である。日本では直接「姫」と表記されないが、古代には発音が同じ字を自由に使っており、『古事記』に記される「木」や『日本書紀』の「紀」がそれにあたる。「紀氏」隠しを目論(もくろ)む意図もあろう。後に八世紀に全国を統一した大和政権は地名を中国風の一字から「二字にするよう」命令を出す。「紀」も「紀伊」と表記されるようになり、現在に至っている。
 「紀伊郡」は和歌山県の「紀伊国」をはじめ関西、関東など全国に残されていた。幾十世代を経て「紀氏」が全国に勢力を伸ばしていたことがわかる。関東の埼玉稲荷山(さきたま・いなりやま)古墳から銘文入りの鉄剣が発見されて大騒ぎになったが、銘文の中にある「記のオのワケの臣」の「記」も「紀」氏であるとする研究もある(京都大学・宮崎市定氏)。付近に「紀伊郡」があったからでもある。
 ただ列島のすべての「紀氏」がすべて山門・菊池郡から出たかというと、そうは言えない。中国の春秋時代(紀元前8~5世紀ごろ)、中国全土では各地に赴任した周王朝の皇子らが、独立してそれぞれが国を造っていた。「紀氏の国」は全土で約50か国もあった。そしてほぼ全部が戦国時代に「秦(しん)」によってつぶされた。多くの「紀氏」が日本列島に逃げて来たらしいからである。平安時時代の詩文に日本のことを「東海紀氏国」と表現したものがある。

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九州倭(い)政権の王の一人と考えられる5世紀の高良玉垂命(こうら・たまたれのみこと)も「紀氏」の一族であった(古川清久氏の調査による)。「玉垂」は秦の始皇帝の絵などにみられる「玉すだれを冠の前後につける冕冠(べんかん)」のことである。(写真上 冕冠をつけた秦の始皇帝(左から二人目)。徐福と対面する折の想像図=中国・江蘇省徐福村で)


≪熊襲族≫

 「熊襲」族は当初南九州一帯に勢力を張っていた大族の総称である。日本史の上では従来「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていたのである。渡来の時期は弥生時代前期から中期にかけてと思われる。
なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」に解明のかぎがある。先祖の一人は犬であったという。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊襲が同様の伝説をもっていた。
熊襲族は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於(くまそお)族」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於族である」と誇っていたのだ。
彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33・2センチ)が出土している。




002-4 『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族主体の九州倭(い)政権や紀氏の「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去った。歴史的「偽書」である。そして7世紀末から8世紀初めごろまでに分裂した熊曾於族を徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。

「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述したのである。熊曾於族の主な氏族には日下部(くさかべ)、鴨(加茂)、内(うち=宇治)、葛木(かつらぎ)、曽我(そが=蘇我)、平群(へぐり)氏らがいたと思われる。


002-5 熊曾於族の英雄は「武内の宿祢(すくね)」(通称名弥五郎どん=写真左 鹿児島県曽於市の丘に建つ)である。「神武天皇」と同様「列島で初めての天皇」と『古事記』に記される「崇神(すじん)天皇」やその前の「開化(かいか)天皇」は、彼の女兄弟と娘から生まれた、と同書は伝える。「武内の宿祢」については次項で詳しくお伝えしよう。


≪天(海人)族≫

 「天氏」は、『古事記』『日本書紀』(記紀)がともに日本列島に誕生した「最初の政権」と位置づけしている政権の中心にいた大族である。「ニニギの命(みこと)」をその祖とする。「最初の政権」かどうかはわからないが、少なくともそれに近い存在であったことは疑えない。

邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみこ=「日の御子」か)のことを詳しく記した中国の史書『三国志・魏志』倭人(いじん)伝に「伊都(いど)国」と記された国である。他の史書では「倭奴(いど)国」とか「倭国」と記されている。
彼らがどこから列島に渡来してきたかははっきりしない。江戸時代、日本各地の言い伝えを記録した「東日流(つがる)三郡志」は「ニニギらは中国南方の寧波(ニンポウ)から来た」という言い伝えを記録している。この書は「『記紀』によるいかがわしい古代史」をあたかもまっとうなものとする学者たちによって「偽書である」という烙印(らくいん)を押された。が、とんでもない。すべての記述が間違いないとは言わないが、歴史の真相をえぐった貴重な史書の一つである。
前項「神武天皇」でも少し述べたが、『記紀』は「天」と「海」が同じく「あま」と読むのを利用して「ニニギ」が「天から筑紫の日向の襲(曾於)の峰に降りてきた」とした。実際は黒潮を利用して薩摩半島南端に渡来してきた人々であることは疑えない。中国南方、ベトナム、ラオス、タイ北部のいわゆる少数民族の人々の生活ぶりはまさしく日本の基層の生活文化と全く同じである。顔つきもそっくりだ。海運の知識に長けた人々でもあった。熊曾於族と同様、漢民族の激しく容赦ない攻撃から逃れ、海に活路を求めた一部の人々だ。もちろん、当時の先進的なテクノロジーを身に着けていた人々である。
天氏のほか主な氏族に阿曇(あずみ)、井(いい)、久米(くめ)、物部(ものべ)、額田(ぬかた)、団(だん=難、壇とも)、羽田(はた)氏らがいた。
天族が九州倭(い)政権の柱であったことは7世紀初めの中国史書『隋(ずい)書』の記載からもはっきりわかる。『隋書』は列島の大王の姓を「阿毎(あま)」と記録している。名前は「帯(たらし)彦、あるいは足(たりし)彦(多利思比孤)」で、妻を「君(きみ・?弥)」、皇太子は「若美田振(わかみたふり?(和歌弥多弗利)」(和を利と誤刻か)であると記録。国の中心に阿蘇山があるとする。
いかがわしい国史学者たちは市民が『書紀』や外国史書など読まないのをいいことに、「帯彦は聖徳太子のことだ」などと公言して、『記紀』が当時の〝(大)和の王〟は女性の「豊のミケカシキヤ姫(推古)」であるとしているのをごまかしている。大和に阿蘇山はない。聖徳太子が大王であったこともないし、「帯彦」などという名前をもっていたということもない。「うそをつくのもいいかげんにしろ」と言わなければならない。
九州倭(い)政権は当時、日本列島の全域を支配し、朝鮮半島の百済(くだら)、新羅(しらぎ)を属国にして王族を人質にとっていた。朝鮮の史書『三国遺事』などにその悲劇が記されている。であるから、北方騎馬民族の鮮卑(せんぴ)族の国である「隋」とは対等であると考えていた。東アジアの盟主であるという建前をとっていた中国南朝の立場からすれば、「隋」も「倭」も異蛮の「北狄(ほくてき)」と「東夷(とうい)」である。同等の立場だ。
それまで臣下の礼をとっていた南朝が滅びたので、九州倭政権は「我こそは日本と朝鮮半島を支配する日出るところの天子である」と称し、「隋」の天子に「日没するところの天子」という書簡(しょかん)を送り付けたのである。こののぼせ上がった?考えがやがて九州倭(い)政権の滅亡を招くことになる。「隋」を引き継いだ「唐」は「本当の天子はおれだ」と倭政権つぶしに取り掛かる。
663年の朝鮮半島・白村江(はくすきのえ)の戦いはいわば日中の「関ヶ原の戦い」である。敗北した九州倭(い)政権は莫大な国費と人的資源を失って衰退し、列島の支配権は「大和(わ)の勢力」に取って代わられることになったのである。


熊曾於族と紀氏(卑弥呼)勢力は4世紀ごろ合体したことが先に記した「松の連系図」に記されている。紀氏の系図に熊曾於族の首長「厚鹿文(あつかや)」などの名前が入り込み、記されるようになるのだ。天族政権は実質的には熊曾於族と紀氏勢力に支配されていたのである。(2015年1月)


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